ミュージカル『SMOKE』再再演:君自身を偽造するのもやりがいのあることだろう

 浅草九劇でのMusicalSMOKE』再再煙も、残すところあと数日となった。わたしはあと二回劇場を訪れる予定だが、改めてMusicalSMOKEに対するいまの所感をまとめておきたい。

 浅草九劇での三度目(東京芸術劇場での大人版も含めれば四度目)のSMOKEがどのように時世を内包して生まれ変わったかは、すでに書いた。震えるような感動を補うべく、わたしは詩人・李箱その人への造詣を深めようと関連テキストに手を広げたが、結局付け焼き刃に終わった。というより、日本語で書かれた論文は少なく、主観的でない研究(そんなものあるのか?)ないしは、フラットな知識を与えてくれる文章は、容易には見当たらなかったのだ。

 だがそもそもの「李箱」との出会いがMusicalSMOKE』という主観的かつ限定的なものなのに、なぜわたしは第三者の学術テキストを探しているのかと我に帰った。芝居のモデルを識ることは多角的な視点をくれるだろうが、それよりもまず劇場で感じ、記憶からこぼれ落ちそうな言葉を、書き留める努力をしたい。

 

 三度目、舞台の構造的な変化はもちろん、そこで演じるキャストの組み合わせ、そして伴奏者が増えた。再演時で超、海、紅がそれぞれ三名の役者によって演じられた以上に組み合わせは複雑化し、劇中の「最初で最後のチャンス」という言葉そのままに、観客の目に触れるのは一度きりの組み合わせもある。

 穿った見方だが、初演の煮詰め切った空気感とは打って変わって、演者すら自分たち三人(と伴奏者ひとり)が、その日なにを生み出してしまうのか、わからないのではないか。想像でしかないが、今回が初見だった場合、このどうなるかわからない空気感によって、冒頭の誘拐のシーンをよりわかりやすく受け取れるように思う。つまり三人に距離感があるからこそ、観客は物語を急発進させる「誘拐」を、文字通り「誘拐」として受け取る。李箱の内面の葛藤ではなく、どこかに囚われた青年、令嬢の誘拐、海を目指す少年のような青年は、個々人として歌い出すはずだ。

 

 改めて初演、再演を振り返りつつ、三度目で感じた「距離感」を考える。セットの変化だけでは片付けられない距離だ。もしかすると、我々の日常が形容し難いほど、かつてとは様変わりしてしまったことが大きな影響をもたらしているのかもしれない。

 人間どうしが距離を保つことが日常になった以上、それまでと同じ芝居で非日常は生み出せるだろうか。繰り返しになるが、観客と演者の安全を確保する装置を舞台構造として昇華した作品が、中身をそのままにするだろうか、という疑問がある。超も海も紅も、距離がある。それはもしかすると人数が増え、組み合わせが複雑になり、単純に接した回数や時間の影響かもしれない。だが距離があることが恒常化した世界で、距離がなかった頃のアプローチを重ねたところで、最後の飛翔が果たして「救い」たり得るのだろうか。

 

 もうひとつ、物語に対し観客として新たな距離感を感じた理由は、「舞台の正面」が変わったからではないかと思う。初演、再演ともにNブロック(画材が置いてあるサイド)が基本的な正面位置だったが、今回はEブロック(アダリンサイド)がおそらく正面だ。それぞれの場面での立ち位置や、視線の方向が細かく調整されているため、どの座席から観ても不公平感なく見どころや発見は常にあった。だが今回、作品の最後にEブロックで提示されるのは、「李箱の横顔」だ。

 横顔、切り取られた側面。だが横顔で終わる物語も、感染予防から意図せず生まれた結末ではないように思う。前回と同じことを繰り返したいのであれば、Nブロックをそのまま正面として、劇場はもちろん、映像配信であっても「李箱の正面」で締めくくってもよかったはずだ。だがEブロックに座れば、アダリン越しの絵画のように縁取られた視座が、三度目の正面であることがよくわかる。MusicalSMOKE』は実在した詩人・李箱を題材にしたフィクションだ。そこから窺い知れる李箱は、舞台が描いた虚像だ。我々は(主語を拡げ過ぎているかもしれないが)、李箱を知り、彼の葛藤を知り、こころの衷すら知りえたように思い込む。だが果たしてそうだろうか。

 感情移入。これまでは「善」とされた状態であり手法だ。受け手は物語に没入し、我がこととして結末を捉えてこそ、こころは震え、感動できる。だが今回、本来であればもっとも物語を真正面から受け取れるであろう位置に座っても、観えるのは横顔の結末だ。そこにある距離は、そのまま実在の人物としての李箱との埋めがたい距離のように思えた。

 初演、再演時には感じなかった「肺病病み」の恐怖はいま、手触りのある危険として我々を取り囲んでいる。李箱の無力感をいまようやく客席が共有していても、横顔しか見せない李箱には、こう言われているような気がする。「才能のないインテリどもが、的外れな批評ばかりを繰り返す!」と。つまるところ食い入るように見つめていた観客は、所詮「僕を見つめるその瞳」であっただけで、ビニールの一枚ごときがその距離感をさらに拡げるほど、近くはなかったのだと思い知る。日本と韓国を隔てる海に、ビニールの衝立一枚を立てたところでその距離感が大きくなったりはしないように、近いと思い込んでいた初演、再演でも、舞台と客席、作品と観客には、海溝のような大きな隔たりがあったのだ。

 

 だがそれでも客席で感情を揺さぶられ、時代的にも遠く離れた李箱の人生を繰り返し見つめたくなるのはなぜか。ひとつの伝染病が現代の我々にもたらした「距離」は、実は大きな篩の役目を果たしているのかもしれない。

 距離があっても会いたいか、声が聞きたいか、話したいか、まだ繋がっていたいか。距離があっても劇場へ行きたいか、芝居が観たいか、「小石だけど飛んでみる」のか、「行くと決めたら最後まで行くのか」。パンデミック下での我々は、誰もが抗いようがないほど孤独で、「そこには誰もいない」人生を歩んでいることが明らかになってしまった。李箱が生きた百年前となにが変わったかと言えば、なにも変わっていないような気さえする。

 

 三度目のMusicalSMOKE』は、徹頭徹尾、鏡の向こう側の物語だった。だが李箱が鏡のなかの「鏡像」に助けを求めたように、わたしたちもまた劇場に「虚像」を求めている。それが結局は薬にはならないと知っている、重病人が運び込まれるべきは劇場ではなく病院だと、誰もが現実的になってしまった世の中だ。ただ、劇場という閉ざされた空間、限られた時間だけが癒してくれる痛みはたしかにある。

 世間という鳥籠に閉じ込められている以上、距離などないと自分自身を偽造し、アイロニーを実践してみるのもいいかもしれない。ウィットとパラドックスと。一度も見たことのない舞台装置によって、むしろ作品は安全で気高くなったのだろう。煙で肺を満たし、剥製の天才に共感した素振りで、わたしたちもまた「飛んでみよう」とひとりごちるのだ。


ここからは繰り返しのようなあとがき

 二年ぶりに煙を吸い込んで、飛べたような気がした。久しぶりにブログを更新しようとしたら、わたしはパスワードを忘れていた。はてなブログに登録していたメールアドレスも不確かで、結局はおぼろげな記憶を頼りにアカウントは復活できたが、改めて人間の記憶の都合のよさにおののいている。「一生忘れない」なんて強い言葉は、安易に発するものではないのだ。自分で決めたパスワードすら、忘れる人間ならばなおさらだろう。

 浅草九劇に通い続けていたら、もうひとつ気づいたことがある。大してすきでもない仕事に追われ、すきなことから遠のいていたわたしは、いつの間にか自分の「袋」をどこかに置き忘れてしまったようだ。知らず知らずのうちにあいてしまった穴を、いまどうやって埋めようかと思案しているところ。劇場へ行くたびに少しずつ新しいなにかが胸の虚さを埋めてくれるような、薄い皮膜が再生するような、わずかな回復の兆しを感じている。

 だからわたしの「超」や「紅」は、まだわたしを見捨てることができないでいる。MusicalSMOKE』は、劇中のコーヒーのようにわたしの眠ってしまっていた「舞台を観たい気持ち」を目覚めさせ、こうしてブログを綴る気力さえよみがえらせた。やっぱりわたしは大山真志さんが演じる「海」や「超」を繰り返し観たい。「超はすきなだけ詩が書ける」と、たまたま落ちたぐしゃぐしゃの原稿用紙を丁寧に広げて大切に胸に抱きしめるのも、「その責任を全部押し付けた」と暗く足踏みしているのも観ていたい。池田有希子さん演じる「紅」が、自らが傷つくのも厭わず語る、袋の話を何度でも聞いていたい。内海海が階段を駆け上がるように李箱という現実へ堕ちていくのも、中村海が飾り気のない少年から、端正な青年として切々と語るのも観ていたい。東山超の冷たいようでいて隠せない人情味も、山田超が不甲斐なさに彫刻のような冷静さを崩すのも、伊藤超が限界だと言いながら、「李箱」という自分自身に生真面目に勝ち目のない戦いを挑むのを観たい。木村紅が歌で紡ぐ景色も悲しみも憎しみも、皆本紅が鼓舞する夢も理想も現実も、井手口紅が最初から最後まで導く物語もずっと観ていたい。そして、焙煎海が見た「海」を、また数年後に観させて欲しい。叶うなら、いままでこの作品を送り届けてくれた初演、再演、再再演のキャストをまた浅草九劇で観たい。

 観客としてできることは劇場へ通い続けることだけだが、願うだけでは足りないから、取り出した瞬間から腐ってしまうことを承知で言葉にした(今回のSMOKEのグッっと来たシーンだけで数日語れるし、文章にする際にはだいぶ自重している)。短く、短く、と念じながら書いたが、もうすぐ四百字詰めの原稿用紙十枚目が埋まってしまう。大阪行きの予定を組んではいるが、まだチケットも買っていないし、宿も新幹線の切符も買っていない。わたしはまだ、浅草九劇にいたいのだと思う。

ミュージカル『SMOKE』再再演:結局、彼も捨ててしまったんだね

 「どうすればよみがえる?」終盤、歌われる言葉のひとつだ。忘れてしまった情熱、愛情、夢は、どうすれば甦らせることができるのだろう。Musical『SMOKE』、浅草九劇での再再演を繰り返し観て、わたしはわたしのこころが軽くなり、癒着してしまった自分の袋の口が、ゆっくりと剥がれるような感覚を覚えている。作品を自分に近づけ過ぎているかもしれない。偉大な芸術家でもないのに、李箱の人生をここまで隣人のように思うのはなぜなのか。

 

 初演、再演での自分の感想を読み返し、どうして忘れてしまえたのだろうと驚いた。劇場へ通った日々を遠くへ押しやり、目の前の仕事を真面目にこなせば、漠然と「いいこと」が起こるような気がしていた。仕事では、自分が本当にやりたかったことを少しだけ果たせた。男たちのなかに紛れ、女だからと軽んじられ、それでもがむしゃらに時間を費やして勝ち取った成果。だがわたしはものすごく疲弊し、そして「紅」が語る物語の少年のように、自分のこころに袋をつくり出していたのだと実感した。誰しもがその大小に差はあれ、きっと袋を抱えて生きている。いやこの状況下では、袋は社会全体に重くのしかかっているといっても過言ではない。

 

 再演で、「海」が袋を手放したのはいつなのだろう?と思ったことがある。その答えは未だにわからない。袋を手放してから、鏡像に人生を任せたことは確かだ。「肺病で血に染まりながら、誰にも理解されない文章を書く、つまらない物書きの人生」を李箱は「超」に任せた。だが超は、「ずっとあいつに会いたくてさ」とも語っている。紅を暗い鏡の中に閉じ込めてから、それなりの時間が経って(「わたしよ、わかりませんか」のシーン)いそうだが、海と超もまた長らく入れ代わり続けていたような言葉が散らばっているのだ。

 もうひとつ、紅は「つまらない文章」を超が書き続けていたことを知らない。もし超が任された人生が、拘置所に入ってからの数日ないしは数ヶ月のものではなく、数年、十数年のものであったなら、この物語はまた違う意味合いを帯びる。十四歳。満二十六歳と三ヶ月を迎えた李箱先生。主人と代理人が入れ代わり続けた人生の顛末が、数時間のミュージカルに凝縮されているのだとしたら。そして終わり方だけを考え、自らの人生を手放していた人間が、最後の最後には自分を愛し、また自分に愛される結末を選んだのだとしたら。

 

 題名の如く煙に巻かれ、きっとこの答えは最後まで得られないだろう。だが得る必要もない。時間軸の解釈は、実はキャストごとに微妙に異なるのではないだろうか。もしくは、ひとつの正解があったとしても、それが組み合わせの妙や受け手によって揺らぐように設計されている。その揺らめきが、一世紀近く異なる時代を生きた詩人の人生を、わたしたちの手許まで引き寄せる。初演、再演より手触りの恐怖感を持つ、「肺病病みの思想は、危険ではないらしい」という台詞。それはこの国でワクチンも打てず、軽んじられたわたしたちも経験した痛みだ。命を軽んじられ、顧みられることすらない。生きていても死んでいても構わない、「剥製のような人生」だけを他人から許可される悔しさ。百年前も自分と同じように悩み、苦しみ、そしてそれでもなお翔ぼうとした人間がいた。わたしにとってはやはりMusical『SMOKE』は讃歌であり、そして夭折した隣国の詩人を友人のように思う。

 あなたが書いた作品が、こうして音楽を得、異国の言葉で語られ、それでもなお光を放っている。この揺るぎない事実こそが、彼の人生が甦ったことを、たしかに示し続けている。

 

 つらつらと書いたが、個人的にはものすごく感動した回があって、もう翼をもらってしまった気分なんですよね……Nブロックのほぼセンターに座っていたら、海と超が鏡合わせのシーンで、ちょうど舞台セットの黒い木枠がふたりを分断して、もう叫び出しそうなほど感動した。ここにもまだ仕掛けられていたのか、負けた……脱帽……という感じです。こうめいさん天才。前回も書いたけど、感染予防対策を作品に織り込むのは、至難の技だと思います。人間、制約を制約だと思わないのはなかなか難しいことです。

 再演は20回観ていたらしい(2年前のわたしは、どう仕事をやりくりしていたのか教えて欲しい笑)。ただ繰り返すことでやはり先入観をもっていたと反省したのが、「変われるものなら変わりたいさ」を「代われるものなら代わりたいさ」と書いていたこと……これ、完全にリピーターの書き方で気持ち悪いなってなった。"Instead of"ではなく"change"のほうだよね、多分……

 わからない、ここまで来ると台本が欲しい!!韓国版が観たい!!ワクチンパスポートくれ!!ちなみにまだ全キャストさんを観れていないので、ここからまた大きく受け取れるものが増えそうで本当に楽しい。それにしても大山海と池田紅の初演メンバーは本当に集大成……でもずっと観たい。終わらないでMusicalSMOKE』!!

 あとわりかしマジでみんなどこで「袋」を捨てたと思っているのか気になる……わたしは「超」が入れ代わったのは投獄される前後だと思い込んでいたけれど、再演で「あれ?」と思ってからずっと気になっていて。考え過ぎかなあ。

 Disney+で配信中の"What if...?"、ストレンジ先生の回がMarvelシネマティック『SMOKE』だから加入している人はみんな見てください。

ミュージカル『SMOKE』再再演:そうまるで牢屋のなかにいるようだ

 二年ぶりにミュージカル『SMOKEが帰ってくる。チケット先行が始まって真っ先に、「その頃にワクチンを打てているのか?」「九劇でやれるのか?」という不安が渦巻いた。

 日本版ミュージカル『SMOKE』は、浅草九劇の四方囲みのステージで生まれた*1。手を伸ばせば触れられるような距離で、観客は役者と共犯関係を築くように作品を見つめる。あの距離感こそ『SMOKE』の醍醐味、そしていまもっとも恐れられているものだ。密室、密閉、密着。わたしはワクチン接種の見込みも立たないまま、絞れるだけ絞ってチケットを購入した。

 

 初日。チケットは持っていたが、劇場へ訪れる気持ちにはなれなかった。まず浅草自体、一年以上訪れていないのだ。狂気の沙汰だと思っていたオリンピックも開催され、出歩くこと自体が罪のように思えていた。だが劇場を訪れた友人が、舞台と客席の間にはビニールが張られていたよ、と連絡をくれた。

 繰り返し見返した公式HPでは、舞台装置の全容まではわからない。だがむくむくと押さえ難い好奇心が湧き上がった。ちょうどワクチンの二回目の接種予定も定まっていたわたしは、劇場へ向かう覚悟をのろのろと決めた。

 

 九劇の中央には、牢屋のような舞台が立ち上がっていた。「そうまるで牢屋のなかにいるようだ」と歌詞にある通り、黒い木枠が中央の舞台を囲う。木枠に支えられ、舞台と客席は厚手のビニールカーテンできっちり区切られている。ビニールだけではなく不透明な板がところどころにはまっていて、視界がすべて不透明なままの客席もあった。初演や再演で、視線を上げれば対岸の客席が易々と見えていた状況とはまるで異なる。異質なキューブのまわりに、三方から客席が配置されていた。Nブロックに座ったわたしの視界は、半分が不透明な板、そしてもう半分がビニールとなった。この半分の視界で見ていないといけないのかと、やや戦々恐々とした心境のまま、ピアノが降り注ぐように流れ始めた。

 不透明な板はなんの魔法か幕が上がると瞬時にクリアになった。半分の視界が開け、舞台中央には李箱が倒れていた。そう舞台と客席は、単純に感染予防のために区切られていたわけではなかったのだ。不透明な板は透明にも、映像を映す画面のような働きもでき、そして一見感染予防対策にしか思えなかった物体は、一転作品に対して新しい体験を与える舞台装置に昇華されていた。

 ビニールカーテンを通して覗く舞台は、やや輪郭が曖昧になり、雨の日にビニール傘越しに見える世界といえばわかりやすいだろうか。先述した板越しでは、スノードームや窓越しの体験に近い。時折、ふと自分の顔が反射するが、演出都合だと渡された黒いマスクで覆われた顔が、見慣れない「誰か」にすら思える。内側の舞台にいる役者の顔が反射すれば、それはまさに鏡だ。鏡の中をのぞき込んだら、自分の「こころ」だった、と謳った作品自体のキャッチコピーにもふさわしい。

 

 閉じ込められた舞台を見つめながら、わたしはわたし自身が観劇にのめり込んだ理由をゆっくりと反芻した。いまここでしか得られない時間を、限られた人間たちと共有する楽しさ、かけがえのなさに時間とお金を費やしたかったことを思い出した。そしてミュージカル『SMOKE』は、現実に向き合い、そしてがむしゃらに時勢を作品に織り込んでくれた。世の中を嘆き、あきらめ、そしていままで通りを続けるのではない。日常が戻ることを望んでしまう毎日に力強く劇場から投擲された疑問符は、たくましく美しかった。

 劇場を出れば、地続きの日常が待っている。だが三度目の煙で肺を満たせば、もう一度だけ翔べるかもしれない。すべての制約が、作品に三回目をものともしない新鮮味を与えた。そうきっと、ミュージカル『SMOKE』を愛する人々にとっては、作品自体が超であり紅であり、目指し続けた海だ。「もう一度だけ」を繰り返せば、わたしたちはきっと生きていくことができる。

 

*1:劇場内の雰囲気は、2019年の再演時のこの記事などがわかりやすい

Show must go onを叫ぶのか

 芝居がすき、舞台がすき、ライブエンターテイメントがすき。一口に「すき」を切り取っても、その「すき」は様々だ。政府から不要不急の外出を控え、自粛が求められる中、誰かの「すき」が自粛の大波にのまれる日々が続いている。わたし自身、すでに手持ちのチケットが払い戻し対象公演になり、それなのに通勤の満員電車に乗らなくてはならない不条理に辟易している。マスクが品切れた東京で、心の支えを奪われたような毎日だ。

 だが久し振りにブログを綴るのは、劇場を封鎖するのは間違いだと言いたいからではない。わたしが憤っているのは、本来一個人単位での自由が認められるべき「娯楽がなんたるか」を、知らない誰かの集合体によって勝手に定義され、あまつさえそれを「不要不急のもの」とされたことに腹を立てている。

 

 舞台芸術尊いものか、人類が生きる上で必要なものなのかを、今見定める必要はない。それは一個人の価値観の問題であるし、生命維持の観点では筋違いの論争だ。ならばなぜ他人の「娯楽」を「不要不急」と決めつけることが、いかに傲慢な行為であるのかがわからないのか。食べ歩きが娯楽の人もいれば、筋トレが娯楽の人もいるだろう。だがこの非常事態にあたっては、娯楽がなんたるかを問わず、感染拡大を助長する行為が感染を拡大させない=人命最優先で制限されるべきだ。これは不要不急、これは不要不急でない、というあやふやな判断基準が蔓延するこの国で、真綿で首を締められるような圧迫感を感じる。

 

 例えばニューヨーク。500人以上の集まりを禁止するという明確な手段に出た。

オバマ前大統領も、「バスケットボールを愛しているけれど」と前置きした上で発言している。

「エンターテイメントは命に関わらないのだから自粛すべき」という批判が、なぜ「人が集まる行為は感染拡大に寄与する可能性が高いのだから、すべからく自粛すべき」にならないのか。曖昧な定義を振りかざし、にもかかわらずそれぞれの明確な「娯楽」「娯楽でない」判断基準での行動を求められる社会とは、果たして個々人の思想の自由が認められた現代社会と呼べるのか。

 

 繰り返しになるが、舞台が人類にとって必要か、必要でないかを論じるつもりはない。誰かにとっては娯楽でも、誰かにとっては仕事であることは舞台の他にもたくさんある。冒頭で述べたように、個々人の「すき」は多様で良いはずで、それが法律に抵触した際には強制的に制限されるべきもので、その制限が個々人の判断に委ねられないために法律があるのだと思う。吉良吉影は切り落とした爪を保管するという大半の人間にはおぞましく感じられる趣味があったから悪なのではなく、殺人を行ったから悪なのだ。劇場に集まる行為が娯楽であるかないかにかかわらず、感染拡大の可能性を孕んでいるならば残念ながら延期ないしは中止される声があがるのは当然で、だがそれならば感染拡大を孕んだ行為すべてが、同じように制限されるべきだろう。

 

 

 こうした不可抗力的な緊急事態において、改めて経済活動としての演劇を考える。いや、演劇人たちの主張、わからなくはないが「悔しい」って言ってても始まらなくない?と思ってしまう。というか何公演か潰れてもおそらく生活がいきなり破綻することはないであろう舞台人たちは、「それでも開演したい!」ではなく、なぜこうした非常事態に際して、なぜ演劇界が自分たちを護り得る手段を持てていないのかを疑問視しないのか。

 失業保険や休職手当はサラリーマンのものだから。いや、そこで思考停止するならば、現状を糾弾するのもやめたほうがいい。公演が予定通りにならなかった場合のセーフティネットを考えずに舞台の重要性を社会に説いたところで、今まさに疲弊している人々を救えるのか。一公演でも延期ないしは中止すると、それがまっすぐ廃業に通じてしまう演劇界の常態化した不安定さを今こそ改善すべきではないのか。サラリーマンだって公務員だって、なにもしないで恩恵を享受しているわけではない。具体性の乏しい芸術論や根性論、それこそお気持ち理論を持ち出したところで、そしていくつかの公演を無理やり強行したところで、根本的な解決にはならない。

 

 いやほんと「だって失業保険とかないんだもん!舞台はアートなんだもん!」という雰囲気の大きなお友だちが多くて驚いている。演劇界の偉い人たちは継続して失業保険の適応対象の拡大とか、逆に大きな組織をつくって行政に訴えるとかはしているんですかね……軽くググっただけでも日俳連とかは要望書を提出したりはしているけれど、正直今回のパンデミックに差し当たっての舞台系の意見表明は、お気持ち理論で漠然と主張して終わった印象しかないです。

 

 この恐ろしいウィルスが一日も早く終息すること。そして浮き彫りになった、演劇界・舞台界隈の問題点が改善され、実現可能な手段でもって職業としての継続性が担保されることを、いち観客として願っている。

ミュージカル『ラヴズ・レイバーズ・ロスト-恋の骨折り損-』

 「座席にいるのが楽しい」。不思議な感想だが、久し振りにブログを更新したくなった。そもそもシェイクスピアは喜劇よりも悲劇のイメージが強く、それこそ『マクベス』は『メタル・マクベス』の印象が強過ぎた。オーソドックスなシェイクスピア演劇を知らずに「舞台好き」を名乗って良いのか迷うところだが、推しさんが出るから観に行くかと、いつも通りのテンションでチケットを取った。

 

 昨今、観客に対して世間というよりは、興行側の当たりが強くなっている気がする。あくまで個人的な意見で、不愉快に感じられる方もいるだろうと前置きする。けれど多ステできるまま作品を売り出して、売れているものは配慮して譲り合って!!売れていないものは固定客が(後々ばら撒かれる優待やリピチケ特典とかが得られなくても)通って!!という要求が、どれだけ傲慢な要求なのか理解されているのだろうか。はっきり言って、販売システム側でユーザーを認識して、抽選段階でできる限りユニークな数に対して当選権を与えることは可能だろう。少なくともアプリなどを経由して端末依存の電子チケットを持たせるか、アーティストLIVEのように座席位置を当日抽選にして高額転売を防ぐか、果たして最善を尽くしたが最早観客の良心に頼り切るしかない、という状況なのだろうか。

 以前、客層の男女比についてとあるインタビューを読んで落胆したことがある。男性客を連れて行けない女性客でごめんなさい、とすら思った。けれど未だにわからないのは、そこまで男女比にこだわるのなら、券売段階で性別の偏向を加えれば良い話だ。舞台上から見下ろす客席が女ばかりでイヤなら、女性だと申告している人間に当てないようにだってできる。だがそれをせずに売れるまま売って、後から客層に対して要求をするのは卑怯ではないか。男性にも女性にも来て欲しい、初めての人に来て欲しい。そんなこと、作品が男女とも観たくなる内容で、一見さんもチケット取りを頑張れる状況なら、自ずと客層は変わる。その証明を、わたしは『ラヴズ・レイバーズ・ロスト』で震えるような嬉しさとともに実感している。

 

 描かれるのは男女の恋愛模様。なぜシェイクスピアの喜劇を現代化したのかは、BW版を観ればすぐにわかる。シアター・クリエの客席から響く笑い声は時折男性がガハガハ笑う声だったり、女性が共感するような拍手だったり。単純なことだ。客席がどうなるかは、作品がすべてだ。ツイッターでいろいろな方の感想を拝見した。初めてのミュージカルだったけど楽しかった、久しぶりだったけど楽しかった。そしてわたしは、躊躇いもなく観劇にはお金を費やす人間だけれど、いろいろなお客さんと一緒に笑える舞台は楽しかった。

 推しさんの扱いには少し驚かされもした作品だが、こうして誰もが楽しめるエンターテイメント、シェイクスピア作品が称賛されがちな「普遍性」を改めて感じられた。みんなで楽しめるということは、それだけで正義だ。

 

(ちなみにLLLに関してもリピーターチケット特典や、学生チケット特典は実施された。本気で座席位置によるチケット価格の細分化を行えば、全体の利益率は上がると思うのだが、このご時世になにがそれを妨害しているのかわからない。。。)

ミュージカル『SMOKE』再演:날자, 날자, 날자

「言葉というのは 心から取り出した途端に腐り始めてしまう だから一気に 一気に書くのです」

 千穐楽からもうすぐ1週間が経つ。千穐楽公演当日は、終わってしまう、終わってしまうと、まるで呪文のように心の中で唱えていた。だが気づけばたった三人の動きを目で追い、そこで奏でられるセッションに集中した。一瞬も見逃せず、途中まで涙は流れなかった。いつからだろう、込み上げるものが止まらず、涙も鼻水も溢れて止まらなくなったのは。

 

 物語は「海」と「超」という二人の男たちが、「紅」という女を誘拐することから始まる。散りばめられた謎は後半のある時点で一気に明かされ、実はたった一人の詩人の内面を描いていた作品だとわかる。このタネ明かしの鮮やかさは言語化し難く、自分の解釈自体も、正直どこまでもいち個人的なものだとしか言いようがない。しかし劇中の台詞にもあるように、「どこまでも果てがないのが」ミュージカル『SMOKE』で、だからこそ何度も繰り返し足を運びたくなったのだろうと思う。

 

 日野超。「紅」との激しいやりとりから、やっと本心を明かし、「きみは知っているのか」と思わず「紅」に対してすがるように言う後半。その横顔が完全に日野海に観えたことがあり、二役を観られる贅沢さに震えた。

 日野超はそれこそなり代わってしまったあの時点からずっと、「死ぬべき」だと考え続けていた印象だった。その気持ちは練られに練られて、自分でも逃れようのないほど緻密な「超」に観えた。そこからラストの「飛ぼう!」と、椅子に飛び乗って後ろに倒れていく姿は対照的で、「堕ちよう」とするよりは、翼があるから落ちることのできる自由さがあった。解放された「超」は清々しかった。

 木暮超。出演期間が後半になればなるほど泣かされた。しばらく「海」のために闘ってはみたけれど限界で、つい最近「死のう」と思い始めた悩める青年、等身大の苦しみを感じた。どこか代わりになることも受け容れているようで、その献身はあまりにも痛々しく、「海」と一緒にあったかいうどんを食べて欲しいなあとずっと思っていた。後半ほど「紅」に対して頼る比重が増えて、そこに「三人ならだいじょうぶ」と受け止める、どの「紅」も美しかった。ラストで「書けるだろうか」と尋ねるさみしげな笑顔は、一人の人間の挫折と再起を語るには充分過ぎるほどだった。

 大山超。「紅」にも負けないほど「紅い始まり」のようだった。死にたくないけれど「死ぬしかない」男の、世界への怒りと拒絶と絶望が、鉛のように鈍く深く感じられた。そこから「おれには才能がない」と脆さを露わにするところが人間臭く、一層対峙する「紅」の凜とした強さが際立つように思った。

 池田紅。忘れられないのは、「海」が「ぼくにも才能がないから 上手な文章は書けない」と話すシーンの、耐え難いような表情だ。「紅」自身が実は「李箱」であり、彼女自身が「才能がないから そういうお話みたいなものは書けないの」と自虐してしまうことは、鏡合わせの証左だ。それなのに「海」と「超」という二人をたった一人で支え、止めようとする姿は逞しく、それでいて切なかった。

 高垣紅。丁寧に紡がれる台詞の一つ一つが、なにもかもを見透かすようだった。彼女の言う通りにしていれば絶対にだいじょうぶだという確信を抱けたし、「わたしは消えない 消えたりはしない」という叫びも、決まりきった世界のことわりのように凛々しかった。ラストの「ありがとう」は、再演になって「海」が「超」に言う台詞の変更(「海」が鏡を撃つ前の台詞が、「ありがとう」から「ごめんね」に変更されたと思う)もあって、自分自身からありがとうと言われること以上にしあわせなことってあるのだろうかと思えた。

 池田紅と高垣紅(そして彩吹紅)を経て、この物語の色を決めるのは「紅」なんだと改めて教えてくれたのが、元榮紅だ。そこに在る「紅」。彼女に憧れ、焦がれ、それでいて自ら突き放す「超」と「海」の対比こそ、人が夢を追い求める過程を描き出している。抱いただけで励まされるような、それでいていつまでも手に入らないのが夢だとするならば、「紅」とのやりとりはきっと誰しもが一度は経験したことのある自問自答だろう。改めて池田紅・高垣紅・元榮紅(そして彩吹紅)によって示された、母であり姉であり恋人、そしていつの間にか閉じ込め、なくしてしまった自分自身への情熱は、ずっと観ていたくなる可憐さと厳しさ、そしてやさしさがあった。

 大山海。自分に作品との出会いを与えてくれた始まりの役で、一番泣けた。冒頭の海への憧れを歌うような歌(日本語の題名が知りたい)で、優しく絵筆を取り上げ、「超」の書いた文章を胸に歌う姿だけで胸がいっぱいになった。大山さんがインタビューで語ったように、記憶を取り戻してからは「超」の要素が垣間観えたのは、再演ならではだった。

 「超」が、ついに「海」に対して「わからないのか 鏡を見ろよ」と告げる終盤。剥製のように生き、死にたいと叫び続けた詩人の顔に滑り落ちるように変わる瞬間は鮮烈だった。澄み切った少年の瞳が、立派な大人に切り変わるのは、少し恐いほどだった。初演の時には気がつけなかった「紅」、そして自分自身への激しい怒りも不甲斐なさも、誰しもに身に覚えがあるからこそ観ていて辛く、生きていて欲しいと祈るような気持ちになった。

 日野海。一番純粋で、そして現実に引き戻されてからも世界をそのまま受け取っているように観えた。日野海と「李箱」の境目はなだらかで、だから余計に世界はどうしてこの人に対してここまで残酷なんだろう、と思えた。大山超との組み合わせでは、彼らが「超」「海」を逆で演っている時とも全然違っていた。それでいてもしかすると今のお芝居は、それぞれの瞳にお互いがこう映っていたのかもしれない、という副次的な面白さもあった。

 木内海。語弊を恐れずに書くと、初回は藤岡海にとても近いものを感じた。幼さ、純粋さ、一転して天才の失意と挫折。けれど回を重ねるうちに、果たして「海」はいつから「海」だったのかという、突き詰めてしまうとぞっとするような命題を与えてくれた。木内海が「海」である時間は「李箱」の少年時代のように感じられ、いつから「海」が自分を手放したのかを改めて知りたくなったのだ。

 

 そのまま受け取るのであれば、「李箱」が鏡の中の「超」と入れ代わったのは文章を書き始めてからのはずだ。史実も踏まえると、拘置所*1を出て行くのは二十代後半のはず。これまで自分は、「李箱」が「紅」を鏡の中に閉じ込め、「海」と「超」が逆転したのは、そのくらいの年齢になってからだと思い込んでいた。だが木内海の「答えを知り尽くした天才」振りを観ていたら、「あの日」は、必ずしも拘置所に入る直前である、という時間的な保証はなかったのだと愕然とした。

 たった一人に三つの人格、ではなく、たった一人が成長する過程で失い、そして演じ続ける虚像、という物語の捉え方も、もしかしたらできるのではないか。さらに言えば、冒頭の「超」のシーンがある以上、そもそも拘置所自体が現実を描いているのか?ということすらも疑問に思えてくる。ただこの見方をするのであれば、物語は誘拐劇が一転して心理劇に、という構造ではなく、一人の人生を凝縮した象徴的な構造を強めていく。

 ただ、穿った見方をしなければ、突如登場する第三者的な看守の存在こそ、劇中の現実と「李箱」の鏡の中を区別する指標だろう。こうして冷静に振り返ってみればいくつかは言語化できるが、ミュージカル『SMOKE』再演の劇場で得ていた感動と、終演後に得られる胸の奥がすっと持ち上げられるような感覚は、言語化するには大き過ぎる翼だった。たった一年のうちに、それこそ愛煙家としてミュージカル『SMOKE』の煙を胸いっぱいに吸い込むことができた幸運は、一生忘れないだろう。

 

 授けてもらった翼で、今度は自分が翔ぼうと思う。世界はあまりに広く、息苦しい拘置所のような毎日を抜け出した先には、誰もいないかもしれない。いや、どこへ行こうが誰といようがひとりだ。それでもきっとわたしには、この夏をともに過ごした「超」と「紅」と「海」がいてくれる。劇場に通った日々は間違いなくわたしを支え、護り、これからも励まし続けてくれるだろう。それにしたって禁煙はつらいから、再々演が待ち遠しい。

 

〜ここからは漠然とした所感〜

 ミュージカル『SMOKE』に対する気持ちが、初演・大人版・再演で高まり過ぎてどうしようもないけど、禁煙生活マジでこれからどうなるかわらからな過ぎて怖い。今のところ生きてます、としか言いようがない。まずは高垣さん、ご結婚本当におめでとうございます。可憐なのに芯が通っていて、わたしにとっては「綺麗な姉」が一番しっくり来る素晴らしい「紅」を今年もありがとうございました。

 本当にどの役者さんが演じても『SMOKE』は『SMOKE』で、それにしたって組み合わせの妙があるからチケットを増やしまくりました。最終的に再演は20回以上拝見したけれど、初演の時に書いたように、四方囲みの座席すべてに八つの「瞳」を置いておくわけにはいかないから、どこまで観ても観足りなかった。それなのに劇場を出る時には、ふわっと心が軽くなるような気持ちにしていただきました。

 

 推しさん「超」、めちゃくちゃ格好良くて、正直混乱しました。身の回りでは某◯ctさんみがあるとのことで、あ〜それはダメ、一番すきなやつ……と、しんどみがやばい。強がりだけど脆くて、それを隠すように片意地張ってる役づくり、だいすきです。とはいえあの感じで怒鳴られたら、わたしだったら泣く。だからいつも「紅」すごいなあ〜って思ってました(語彙力)。今回は池田紅を一番たくさん拝見できて、夫婦喧嘩でだいたい池田紅が勝つから、時々ちょっとスカッとした気持ちにすらなれました。正直、「紅を困らせんなよ!!生きろ!!」と思ったりもして。でも「紅」はそこで打ち負かして終わり、ではなくて、「もうだいじょうぶ」と「超」を抱きしめるからすごい(語彙力)。木内海との同い歳だからこその殴り合いというか、後半から木内海が物語の絶対的主人になるのが、ものすごく好みでした。それにしたって木内海の「笑い」と「嗤い」、「笑顔」と「自嘲」の使い分けが上手過ぎて怖かった。レコードいじってる時とか天使なのに。お水をこぼしてもキッチリお芝居に組み込んでしまうし、椅子の定位置はさっとリカバーするし、ダンスの時の横顔は端正な王子様だったし……てかあのシーン考えた人、本当に天才、ありがとう……みんな王子様に観えました……木暮海も木内超も観たいです……アンケートに「再々演希望」って繰り返し書いたよ……

 

 鳥頭なので初演の大山海との比較というか、そもそも前日との比較すら怪しいですが、大山海、本当にすごかった。本当に生で拝見できてよかったです。感想が「ありがとう」しか見当たらないって、最高の現場だと思うんですけど、とにかく「ありがとう」という気持ち……一番泣いたのは最後ということもあって千穐楽ですが、その前にも不意打ちで泣かされたなあ〜木暮超・元榮紅・大山海の組み合わせは、今までに観たことのない『SMOKE』に感じられて、泣いたタイミングがいつもと全然違って自分で自分に驚きました。

 とにかく最高の夏でした。ミュージカル『SMOKE』を届けてくださったすべての方々にお礼を言いたいし、強欲な観客なので再々演のプッシュの拍手を!!ただ一番の幸福は、こうして世界に少しずつ不安や争いの空気が立ち込めているこの時に、劇場にいる間は作品に夢中になり、終演後は自分の現実に向き合う「翼」を授けてもらったことです。この作品が演じられ続けることを願っています。

*1:拘置所」なのか「留置所」なのかは正直迷った

ミュージカル『SMOKE』再演:7月感想

「希望をなくし テクニックを手に入れた

 天才にはなれず 剥製のように生きてきた」

 この作品は、すでにふさがった傷跡に鞭打つような作品だ。いやもしかすると、心に負った傷とは、今も心臓が脈打つたびに血を流しているのかもしれない。それを忘れているだけで。忘れているふりをしているだけで。

 

 27歳で夭折した韓国の詩人・李箱。浅学のために初演まで彼をまったく知らず、大人版と再演が決定してから、彼の翻訳された文章に一通り目を通した。そして初めて、初演で語られた「三越デパート」は、植民地時代のそれだったのだと理解できた。大人版の後にも書いた通り、物理的及び民族的に最も近しいといえる韓国よりも、自分のわずかばかりの知識は、はるか遠くの国々に偏っている。

 

 『SMOKE』という作品では、この近しいようで遠く、ましてや会ったこともない詩人を、まるで隣人、もしくは自分自身のように感じられる瞬間が多くある。なぜ泣けるのかは明文化し難く、そしてなぜ晴れやかな気持ちで劇場を後にできるのかは、未だにわからない。

 だが、ただひたすら彼の葛藤、そして彼がたどり着くひとつの結論の証人になりたいと思ってしまう。物語の筋は変わらないのに、結末に行き着くまでの過程は毎公演異なる。もちろんキャストの役替えや、その日の自分自身の状況、好みも影響はしているだろう。けれど『SMOKE』で描かれることは、普遍的かつ当たり前のことだ。それなのになぜか目が離せず、初演と同じように、何度観てもなにかを取り逃がしたような気持ちにさせられる。

 果たして李箱その人が、自らと自らの作品を煙に喩え、それを儚んでいたかはわからない。誰しもが抱える自分の人生なぞ、という諦観にも似たあきらめから、自らの翼でもって生きようと決意していたかもわからない。だがミュージカル『SMOKE』という作品がこうして生まれている以上、少なくとも彼の人生は煙のように立ち消えるものではなかった。

 

 剥製のように生きることは、きっと煙のように死ぬことと等価にはならない。生と死は鏡合わせのようで鏡合わせではない。初演に引き続き、最後に歌われる『翼』という曲に、わたしはやはり命のきらめきを感じた。だから願わずにはいられない。この近くて遠い異国の地で亡くなった、自分とさして年齢の変わらない詩人が、できればこの作品のように最期に希望を取り戻してくれていたら、と。

 

 

 

〜ここからは推しさんに対する感想〜

 推しさんという名の大山真志さんの「超」、メッッッッッチャよかったんですけど、どうしたらいいんですかね……もう強がりでさみしげで、それなのに「海」を護ろうとしつつも護りきれない「超」。そっち!!そっち行くかあ〜!!と初日からずっとニヤニヤしてました。

 クールで冷たい印象はすべて取っ払って、アツい「超」は結構怖い(あの圧の人間にわたしなら多分言い返せない)んですけど、やっぱり絶対的な支配者としての「海」を護りたいし、なのに「紅」に頼らなくてはならない不甲斐なさに足掻いているというか……「紅」が必要なのはわかっているのに認められず、結局「超」が怒っているのは「超」自身で、「わたしはわたし自身を恨んでいる」に繋がるのかななんて思ったり。ご本人のツイッターでも、役に対する解釈とか、相手役に対しての想いをつぶやいてくれるのありがた過ぎる〜「超」の解釈ばりばり合ってて嬉しかったけど、「海」の解釈は間違えそう〜でもその多様性が舞台の面白さ〜〜〜

 木内海との組み合わせを多く観ているのですが、木内海は覚醒してから絶対的に大山超に対して「主人」なところがグワッと現れるのが鮮やかでした。まだ観られていない組み合わせがたくさんあって、オラワクワクすっぞ〜〜〜

 ツイッターでもグダグダつぶやいてるんですけど、マジでみんなミュージカル『SMOKE』を絶対観てくれよな!!!!