『髑髏城の七人』Season月(上弦の月)_2018/2/11昼夜、2/13昼夜

 我慢できない性質なので、先週末と週明けに上弦髑髏城をマチソワした。もちろん平日公演は有給休暇を三途の川に捨之介。さすがに4公演連続で観れば満足できるかと思いきや、やはり髑髏城はわたしを捉えて離さない。

 

 さて先日、初めて訪れた神社でおみくじを引いた。

立ち寄れば そでになびきて 白萩の

花のか ゆらぐ 月の下かげ

 もうまるっとお見通しか、と叫びたくなるくらいの内容だった。上弦の月を見上げれば見上げるほど、花髑髏を思い出す。そして、この作品に巡り逢えて本当に良かったなあと思う。ふとブログを読み返せば、花髑髏を初めて観た日から300日が経とうとしていた。

 月髑髏には希望がある。花鳥風月の最後を飾るのは若手中心の上弦と、声優・2.5次元系のキャリアを築いた俳優さんを多く集めた下弦の月。そのどちらにも、紛れもなく希望がある。20年以上愛され続けた作品が提示してくれたのは、成長し続けることへの明るい希望だ。それはもちろん極で締め括られることも含めて、誰かを楽しませようとするたくさんの人の心意気が感じられるものというのは、やっぱり良いものだ。もっと早くに出逢えていたらと後悔する反面、この髑髏イヤーに立ち会えたことは本当にラッキーだと思う。

 

 捨之介。一人の人間の成長とは、かくも美しいものなのか。変化があったのは2/11昼公演からだと記憶しているが、殺陣のキレというか抑揚や、台詞回しから顔の表情に至るまで、すみずみに神経が行き渡った姿は観ていて爽快だった。それまでは「捨之介」の型にはまって、どこか窮屈そうだったものが解き放たれたような。一幕でのスケコマシ風の笑顔も、二幕での痛みを乗り越えた先の力強い笑顔も、紛れもなく唯一無二の「福士捨之介」だった。終盤は、「ちゅてのちゅけ、ガンバえーーー!!」としか考えられない。もちろん「きいまゆもガンバえーーー!!」だ。と同時に、あの背が高く飄々として、ニコっと笑う捨之介は、記憶の底に眠っていた花髑髏の小栗捨之介をもう一度鮮やかに思い出させてくれた。

 ある役者さんを観て他の役者さんを想起することは、果たして良いのかとも思う。けれどどうして上弦に通い続けているかといえば、不純な動機だが「花髑髏をもう一度鮮明に思い出せるから」ということが大きくある。

 花髑髏はわたしにとって初めての『髑髏城の七人』。一度目にどこか疑問が残り、二度三度訪れるうちに、ずっと観ていたくなった。観る度になにかを取り零したような気持ちになって、終には千穐楽まで、目を皿のようにして観続けた。基本的にハマりやすい人間だと自覚しているが、このハマり具合は小学生の頃に観た『The Lord of the Rings』以来だった。

 自分はしつこい性格だから、すきになった作品は何度も観て、それが与えてくれる楽しさを貪り尽くしてしまうようなところがある。けれど時にその楽しさが重層的過ぎて、まるで楽しさが大波のように押し寄せるような作品に出逢えることがある。『髑髏城の七人』は、まさにそのタイプの作品だった。

 

 無界屋蘭兵衛。なぜ彼(もしくは彼女)が魅力的なのか未だにわからない。単純に言ってしまえば裏切り者だ。蘭兵衛が提示するのは歴史上の人物を題材とした、もしものファンタジー。蘭兵衛が悩んでいるのは織田信長の意志を継ぐか、自らが築いた安住の地を衛るかという、壮大過ぎる悩みであり、明日仕事行きたくねえな、などというわたしの悩みとはおよそ相容れない。つまり感情移入から夢中になっているのではなく、どちらかといえば傍観者だから面白いという、あくまで観客的な楽しみ方をしているような気さえする。

 けれど無界の里を単身去って行く蘭兵衛さんを観ると、泣きたくなるのはなぜなのか。お願いだから止めて、と沙霧や霧丸に言ってしまいたくなるのはなぜなのか。太夫、と声を張り上げる蘭丸の最期の姿を観て、胸を掻き毟られるように辛くなるのはなぜなのか。

 

 それはきっと『髑髏城の七人』という作品が、間違いなく観客席に座る我々を戦国末期の髑髏城に迷い込ませるからに違いない。そして我々は時に無界の里の柳になり、贋鉄斎の庵の苔となり、関東荒野に降っていた雨になれる。またこの空気に浸りたい、この空気の一部になりたいと思わせられてしまう。髑髏城には、前述したような日常的な鬱憤を、秒で振り払って心を生き返らせる力がある。

 

 上弦の三浦蘭兵衛さんの、無愛想でなかなか心を開きそうもなく、けれど過去に縋るような蘭兵衛解釈がわたしは単純にだいすきだ。結局は刀を捨てられない性を持て余し気味にしている蘭兵衛さんを観ていると、二幕でそれを捨てられなくなることを、一幕から伏線的に示してくれているとさえ感じる。どうしてああも刀を投げ捨てるのかと思うが、もしかすると昔の自分を思い出すようでイヤなのかな、と勝手に想像している。そんな妄想の余地が多い点も、みうらんべえさんもとい髑髏城を観ていて楽しい理由の一つだろう。

 クドキのシーンでの幼さは、上弦「無界屋蘭兵衛・蘭丸」ならではだ。それまで若いながらどこか達観したような面持ちで振る舞い、「無能な者ほど数に頼る」と、狸穴二郎衛門を威嚇するように言ってのける蘭兵衛さんが、クドキでは一転して子供のように無防備で、されるがままになってしまう矛盾。花蘭兵衛さんは自ら選んでクドかれたように思えたし、鳥蘭兵衛さんは逃れようのない感じがして、風蘭兵衛さんは殿との再会のようであったから、上弦蘭兵衛さんの陥落は、一幕がオラオラしているだけにマジかよと頭を抱えさせられる驚きがあった。だから花鳥風月の最後でまた新たな蘭兵衛解釈が築城されるとは、と、もちろん蘭兵衛さんだけでなくすべてのことに対して、嬉しいような悔しいような気持ちを抱く。結局、一度髑髏城に足を踏み入れたら最後、我々は中島かずきさんといのうえひでのりさんの手のひらの上で(月髑髏冒頭の安土城での)髑髏ダンスを踊るしかないのだ。

 

 さまざまな役者さんによって一人のキャラクターが多様に演じられる時、この人はこう演じるのかとワクワクできる楽しさは、本当に贅沢で貴重な経験だと思う。なぜって現代においては何れにしても物語の恒常的な普遍性よりはむしろ、オンリーワンであること、それこそ言ってしまえばハマり役であることを善しとされるように常々感じるからだ。

 最近、特定の演者さんから解放された時、舞台脚本はある種特別な普遍性を抱くのではないかと思うようになった。つまりアカ・アオ、若、花鳥風月が成り立ってしまう時点で、『髑髏城の七人』は、水戸黄門やそれこそ近松心中物語のように、古典的な普遍性、観客からすれば途轍もないほど贅沢な楽しみ方のできる物語へと解放されているのではないか。

 長男・蘭兵衛、次男・捨之介、末子・天魔王。花髑髏の三兄弟、三すくみ(蘭兵衛がグー、天魔王がパー、捨之介がチョキ)の関係性に夢中になった、去年の春。今年の冬は双子的に観える天魔王と蘭兵衛、そしておよそ8年前には天にかかずらわってはいなさそうな捨之介の関係性に悶え、劇場を出てからも妄想を拗らせている。至極当然のように花鳥風月での違いを享受しているが、一つの作品がどのように演じられても面白く、それでいて同じ物語として成り立っているというのは、もう奇跡としか言いようがない。

 

 上弦でずっと引っ掛かりを感じていたのは、天魔王という存在だった。だがそれも後半に入って、自分としての解釈はあの蘭丸の最期の場面で決着がついた。自らを庇った蘭丸に見せる天魔王の狼狽は、日を増すごとに色濃く観えた。こうして場面場面を観た印象が、万華鏡のように変わり続けることこそが、観劇の醍醐味だろう。だが普遍性を持ったお芝居だと理解はしていても、心のどこかでまた花髑髏が観たいと思ってしまう自分がいる。

 そうまさに、月の下にいると思っていたら、花の香りにはたと気付くような。結局わたしにとっての髑髏城とは、花髑髏なのだと思い知らされるような。それをまさか月髑髏に通うことで自覚するのは、なんだか不思議な気持ちだった。みんな違ってみんないい。花鳥風月を経て抱くのは、そんな月並みな感想だ。

 

 こうして自分にとっての髑髏城を抱きながら、ぐるぐるとさまざまな髑髏城を眺められる日々は、もうすぐ終わってしまう。普遍的であることも、代替の効かないシロモノを心に築城してしまったことも含めて、ほぼ1年に渡ってわたしたちを楽しませてくれた『髑髏城の七人』には、感謝の気持ちしかない。 

 月髑髏が終われば、Season極が始まる。「天魔王が影武者として本能寺で死に、本物の織田信長が再び天下に手を伸ばそうとするお話」ではないかと時々妄想しているのだが、果たしてどうか。唯一確かなのは、きっとまた夢中になってしまうだろうということだけだ。

 

『髑髏城の七人』Season月(上弦の月)_2018/2/4夜

  本音を言えれば 今のままいたい

 その因果は私で消したい

 覚悟はとうの昔に していたけど*1

 一幕終盤、極楽太夫が歌い上げるその歌の歌詞を理解してからは、ずっとあのメロディが心から離れない。「森蘭丸」を「無界屋蘭兵衛」にした人は、天魔王が髑髏城で戦の狼煙を上げるより早く、捨之介が斬鎧剣を手にするより早く、蘭兵衛が蘭丸に再び戻るより早く、とうに覚悟を決めてしまっていた。

 花髑髏を観ていた頃は、やっぱり「蘭兵衛この野郎……!!」という気持ちが強かった。花髑髏のだいすきな場面の一つは、無界の里を襲撃し尽くした蘭丸が、太夫に刃を振り上げたまさにその時に、嵐のように兵庫が割って入る瞬間だった。青木兵庫の大きな身体が転がるように舞台に出て来ただけで心の底から安心したし、正直、やっちまえ!!と思った。けれど上弦は、もっともっと痛々しいのだ。花蘭兵衛さんは、後悔しているようには観えなかった。蘭兵衛は蘭丸の一部であり、きっかけさえあれば、蘭兵衛であることを自ら選んで捨てることができる人間に観えた。だからなおのことなんで、という気持ちが強まって、彼の選択への悔しさが募った。だが月髑髏における無界屋蘭兵衛は選んでいるか。わたしは上弦下弦そのどちらにおいても、無界屋蘭兵衛は選んではいないと解釈している。ただ、あるべきところに戻っただけなのだと。

 

 この世一人のまことだから

 きみの生きたいように

 最近、『髑髏城の七人』とは、それぞれが抱き続けていた無念を晴らすお話でもあるのではと考えている。捨之介の「今度は間に合わせる」という台詞はわかりやすいが、霧丸は誰かの犠牲の上に生きることをやめ、兵庫はかつて人を斬ったことを認めて、もとは農民であることも認める(兵庫が農民であったことを否定的に捉えているのは、その記憶に、人を斬ったことが必ず付帯するからだと思っているが、それは考え過ぎかもしれない)。

 極楽太夫は、霧丸との会話に関西弁を使う時点で西国の故郷を捨て(小説版を読むと、彼女たちに故郷という概念はないのかもしれないが)、関東へ逃れたが、今回ばかりは自分たちの土地、里への執着をはっきりと明言する。そして蘭兵衛は、「今度こそ天とともに生きる」。彼の無念は、死でもって晴らされる。

 あたしがあんたの想い人だったら良かったろうに。極楽太夫を観ていると、ふとそんな言葉がよぎる。織田信長と極楽太夫は、もしかして年齢が近いのではと想像してしまう。太夫は蘭兵衛と恋人関係になりたいわけではなく、蘭丸を解放できたのは織田信長だけだと知っている。だが自分がもしも織田信長であったなら、彼にあそこまでの後悔を背負わせはしなかったとも思っているように観えるのだ。恋愛関係ではなく、ただただその人間のしあわせを願う時。その人をおよそしあわせとは反対方向に導く存在がいたとしたら、成り代わりたいと思うのは当然の人情だろう。

 

 怖い目を きみはしていた

 初めて出逢った頃のような

 「いくよ、霧丸」。きっと太夫は、蘭兵衛が髑髏城に向かうと知っていた。くすぶり続けた熾火が、爆ぜる理由を見つけてしまったことに気が付いている。だから一度止めはしても、思い留まらせられるのは、せめて霧丸だけだと理解している。捨之介を「いい男」と言う彼女は、過去を乗り越えつつある存在の登場に安堵しつつ、それが発端となって、過去が無界の里まで到達し、大切な人間を搦めとってしまう未来まで覚悟したのではないか。

 ふと、与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』を調べた。人を殺して自分も死ねといって、あなたを育てたのでしょうか。その投げかけは、蘭丸と天魔王に向けられた殿の最後の言葉のようにも思える。「この世ひとりの君ならで ああまた誰を頼むべき 君死にたまふことなかれ」この世であなたはひとりではないのです。ああ、また誰を頼れば良いのでしょうか。弟よ、死なないでください。

 

 月影が満ちた有明 これほどに短く儚く

 現世の轍に咲かさるる 蘭の花の純情

 終わると知っていてもなお、もしかすると蘭兵衛が「捨てられる」のではないかと期待する。その優しさが、結局は無界の里を滅ぼしたことを理解しているから、極楽太夫は無界屋蘭兵衛を殺せる。なんで、と叫んだ後、燃える里の中で、家康でなく自分を殴る太夫は、自分が決着を付けるべきだと覚悟したのではないか。それは「蘭丸」に言葉を遺した殿とは違う、「蘭兵衛」に対する優しさだ。

 

 手前勝手な解釈を述べたが、月髑髏だからこそ妄想できる救いの在り方は、キャスティングを知った時には想像もしなかった。未だに上弦を幾度も観たいと思ってしまう理由はわからない。残り少ない公演期間であとどのくらい受け取れるか、まるで月影をつかむようなマネをしながら、明日も豊洲へ向かう。

*1:劇中歌の歌詞は全部記憶頼りなので間違っているかも

『髑髏城の七人』Season月(上弦の月)_2018/2/2夜

 蘭丸の最期。崩れ落ちながら天魔王を背中に庇った彼は、しっかりと共犯者の手を握っていた。一瞬狼狽えた天魔王は、蘭丸の言葉にハッとして、怯えるようにその手を振り解いた。赤く染まった手のひらが、蘭丸の白い手の中からパッと逃げるように飛び出したのが観えた。まるで双子のように観えていた彼らが、薄皮一枚、ただ一点において絶望的に異なっていたのだと、迫るように感じられた。

 

 今の自分の解釈として上弦の月とはつまり、「天魔王と蘭兵衛・蘭丸が同じ貌の髑髏城」だ。織田信長・捨之介・天魔王が同じ顔という髑髏城の、さらに分岐した姿。上弦の天魔王と蘭丸は、極めて似た存在として観えた。

 

 1月の時点では、わたしは上弦に花髑髏と近しい印象を抱いていた。長男・蘭兵衛、次男・捨之介、末子・天魔王、三すくみの構図だ。だがどうしてもそう言い切るには、違和感があった。違和感の中心は天魔王。彼はあまりにも捨之介を軽視している。およそ天地人として、かつてともに「なにか」に浸っていた瞬間があったとは、到底思えないのだ。最後の最後に至るまで、天魔王が駒としているのはあくまで「殿」と「蘭丸」。捨之介たちに追い詰められ、蘭丸を喪って初めて、彼は頭を掻き毟り、まるで突然の波に砂の城を崩された子供のように、苛つきを露わにする。

 花髑髏に夢中になった理由の一つは、蘭丸を喪った天魔王が、徐々に喪失感を強めたことにある。上演期間終盤から、天魔王は蘭丸の死を嘆いたかのようにわたしには観えた。兄者、と蘭兵衛を半ばおちょくるように接していた彼の本音が、あの一瞬で本物に変わったように感じられたのだ。そう、結局その喪失感でさえも、蘭丸という兄が彼に教えてしまったという矛盾、駒を駒として自覚し切れていなかった人の男の、後戻りできない哀しさがあの場面でひしひしと伝わって来た(というかそう解釈したくて堪らなくなった)。

 だが花と上弦の大きな違いは、捨之介だ。捨之介の八年前、と聞いてしまうと、どうしても拭ようのない違和感を覚える。彼はあまりにも若い。それは演者さんの年齢ではなく、彼は純粋で、かつ甘い人物として描かれているからだ。髑髏城の天守閣に至るまで、いや天魔王の喉元に斬鎧剣の切っ先を突きつけてなお、彼は天魔王を「止めよう」としている。

 

 八年前の捨之介は、霧丸のような少年だったのではないか。地を駆け、盲目的に己の正義を信じ、刃の向いている先を知らないような少年。軽率に熊木衆の存在を信長に伝え、そして青年になった今、自分の行動で傷付き、取り返しのつかない状況になった者たちの存在に胸を痛め続けている。それなのにやはり彼の甘さはまだ残っていて、天魔王を止めるには、殺すしかないことを認められていない。

 だから彼は死にたがる。上弦捨之介は、そもそも「殿」と言葉を交わしたことがあるのかとすら、最近は疑問に思えて来た。あまりにも天魔王や蘭兵衛の執着とは、色が違い過ぎている。捨之介は物語の最後、霧丸に礼を言うその瞬間まで、自分が「天」の影響下にいたことを自覚していなかったのではないか。

 捨之介のラストシーンは、彼もまた天魔王や蘭丸と同じく、織田信長という大き過ぎる天の下に生きた者だという自認と自覚と、そこからの脱却のように観えた。つき纏う影に囚われず、前を向いた霧丸のおかげで、彼はやっと自己肯定できたように観えた。霧丸を救えた自分を得てやっと、彼は彼を主人とする物語を生き始める。そう、骨の髄まで沁みついた織田信長を捨てられたのは、捨之介と、狸穴二郎衛門、ただ二人だけなのだ。

 だからこの物語の中核を担うのは、捨てられなかった二人、天魔王と無界屋蘭兵衛だ。二つの時代の代わり目の、善悪が揺らいで、勝利者が正義とされるような混沌の時期。過去の延長線で生きる者と、過去を乗り越えて生きようとする者の戦い。だからこそ『髑髏城の七人』は、勧善懲悪の物語ではない。

 

 握る刀が鉄パイプに観えると評判の、ステアラ一のオラオラ系蘭兵衛・みうらんべえさん。昨日のクドキシーンは、とても、かなり、控え目に言っても、女性的に観えた。単身髑髏城を訪れた蘭兵衛は、初めは天魔王が誘うように頬に触れようとしても、蝿でも払うかのようにその赫い手を振り払う。だが髑髏の面に魅入られてからは、まるで小さな子供のようにつま先が内向きになり、天魔王にしなだれかかる後ろ姿は、女性のようにも観えた。

 アカドクロの蘭兵衛は男装の女性だった。幻の初演もそれは女性の役だった。これはかなり飛躍的な解釈だと思っているが、上弦の天魔王と蘭丸からは、どちらかというと女性的な男性不信を感じる。無界屋蘭兵衛のつくり上げた色里・無界の里と、女性たちに囲まれた髑髏城・天の間は、ものすごく似ている。ただ一点、極楽太夫という存在を除いては。

 極楽太夫。それは天魔王と蘭丸を隔てた一点を、擬人化したような人でもある。太夫の存在にこそ、わたしは森蘭丸でなく無界屋蘭兵衛の揺るぎない意志を感じる。花髑髏の時にも書いたが、つまるところ無界屋蘭兵衛・森蘭丸という人は、しあわせだったのだろう。

 

 彼は時代の繋ぎ目の両方に、それぞれの人生を築いた。結局どちらを選ぶかは彼の自由であり、その正解はきっと殿の言葉でなければ彼としては決めようがなかったのだろうが、自らが天と仰いだ人物の人生を完遂させるべく生きた天魔王や、否応なしに過去を背負った捨之介に比べれば、余程恵まれている。

 もしも天魔王と蘭丸が双子のような存在だとしたら、天魔王の怒りは至極当たり前に思える。なぜ片方だけが生きろと言われ、なぜ片方だけが次の時代にこれまでを濯いだような繋がりを築いているのか。「殿は俺に死ねと言った」という言葉すら疑わしい。つまり蘭丸が生きろと命じられた以上、自分には死ねと言われなければ天秤が傾いてしまうというような、天魔王の嫉妬が想像できるからだ。

 天魔王が「もしも」を繰り返し反芻しているような存在なら、己の「もしも」を体現しているのは間違いなく蘭兵衛だ。結局、天魔王が覆したかったのは今でも未来でもなく、なぜ生きろと言われたのが己ではなかったのか、という過去の一点に尽きるように思う。

 第三者的に観れば、「蘭丸に伝えろ」とはつまり、「生きろ」と遠回しに言っただけのようにも感じられる。だがそれは、それまで双子のように同等に扱われていた二人を、問答無用に二つの個として分断してしまった言葉なのかもしれない。天秤を大きく傾け、一番と二番に順位付けしてしまうような。

 だが、根本的に天魔王と蘭丸は、本当にただ一点において根本的に違っていた。それは、自分を明るい方向へ導き、そして最早明るい場所を目指せなくなった時には、自分を殺してでも止めてくれる人間を得ていたか、そうでないか。殺してくれる誰かがいない。それが天魔王と蘭丸を別つ、深過ぎる大きな溝だ。

 

 劇中で語られる「織田信長」は、多面的過ぎてよくわからない。自分の最期に及んで、部下に生きろと言う人ならば天下人たる偉人に思えるし、もしもその言葉でもって人の男がどれほど壊れるかを理解していなかったのなら、その手で天下は掴めなかっただろう。

 天魔王と蘭兵衛は、「森蘭丸」の二つの可能性ではないか。信長がどう死のうが、彼らはそこから逃れられなかった。例え生きろと言われても、例え死ねと言われても、紆余曲折を経て自らが言った通り「天魔王と織田の残党森蘭丸は無惨に討ち死になる」。縒り合わされた二つの糸が、途中は解れて全く異なる色になっても、結末では再び一本の糸になる。二本の糸は結局赫く、糸であることを断ち切った者たちとは、同じ時間を生きられない。

 

 これがわたしの昨日の解釈だが、どうにも自信がない。上弦の月は、登城しても登城しても、毎夜異なる月のように不確かで、それでいてなぜか再び見上げたくなる髑髏城だ。

 

 

双子解釈はこのブログを拝読し言語化できました、

素敵な記事をありがとうございます!!

『髑髏城の七人』Season月(上弦の月)_2018/1/14夜

 先日、実生活で初めて誰かが他人を「駒」と呼ぶ瞬間に立ち会ってしまった。誰かとは、わたしの現職における恩人なのだが、事前に「今日はいらないことも言うからな、ごめんな」とわたしに言い含めた上で、最初から揉めるとわかっていた話し合いを始めた。そして彼は、あいつもおれの駒に過ぎない、と言い切った。天魔王さま以外で本当にこんなことを言う人がいるのか!!と驚いたし、その台詞が自分の恩人の口から放たれたことに、わたしは形容し難い思いを抱き続けている。

 

 捨之介と蘭兵衛と天魔王。結局彼らは信長に対して、まったく異なる人物像を描いていたのではないか。捨之介は心のどこかで、信長が死ぬのも致し方なしと思っている節がある。花・上弦の『髑髏城の七人』を観て、8年前を語る捨之介には、少なくとも郷愁はないように観えた。心酔も尊敬も敬愛もしてはいたが、同時に主人の中に併存した残酷な部分を許せていない。ただそれを断罪することも、逆に肯定することもできないどっちつかずの自分を、自嘲自虐し続けている。一方で信長の残忍さに焦がれたのが天魔王、その残酷さに染まったのが蘭丸かなとも思う。

 物語の登場人物というのは、基本的には極端な存在の場合が多い。つまり「信長」という複雑で、歴史的事実を鑑みるに寛大なのか狭量なのかわからない人物を、捨之介、蘭兵衛、蘭丸、天魔王というレンズを通すことで、わたしたちは単純明快に受け取ることができる。終盤、「そんなものが殿の最期の言葉であるはずがない!!」*1と早乙女天魔王が嘆くように叫ぶその一言は、まさに我々がよく見識った人間の、思いもよらぬ言動に直面した際の落胆と失望と怒りによく似ている。

 

 織田信長。彼が舞台上には一切姿を見せないからこそ、その存在はより登場人物たちに、そして観客である我々に重くのしかかる。上弦の月を見上げれば見上げるほど、思い出すのは眩しそうに天を仰いだ小栗捨之介のこと。なぜ捨之介は死にたがりなのか。それは己自身が自覚も自認もはたまた本人からの赦しもないままに、信長の形見であるということを、あの時点でやっと理解したからではないか。「忘れて生きろ」。それは自らの呪縛がいかに強く、残された者たちの人生を否応なしに縛るかを、知っている人間の言葉だ。

 

 二度目の上弦の月を観て、気付いたことがある。殿の最期の言葉に裏切られた天魔王。だがそれは同時に、彼がもっとも信頼されていた証ではないか。その言葉を伝えるために、彼もまた生きろと言われたと同義ではないのか。蘭丸と天魔王。二人はまるで依怙贔屓された者とされなかった者のように観えるが、その実、なにも遺されなかった捨之介に比べれば、完全に勝者だ。三面鏡の正面に信長公が座れば、一枚は蘭丸、もう一枚には天魔王の横顔があるだろう。そこに捨之介はいない。

 だからこそ、『髑髏城の七人』の主人公は捨之介なのだろう。旧時代を生きた人間が新しい時代の先端に触れ、それを拒むのではなく受け容れるためには、昔のほうが良かったと、懐かしく思う気持ちは必要ない。昔を捨て殿を捨てた蘭兵衛さんもまた、主人公足り得たのだろうけれど。彼は昔に囚われて、旧時代を選んでしまった。その対比もまた、捨之介を主人公たらしめているともいえる。

 無界屋蘭兵衛は捨てられない。森蘭丸を捨てられない。この物語で生き残る者たちは、必ず劇中でなにかから脱却する。わかりやすくいえば、霧丸は復讐の刃を未来へ変える。

 

 今夜は珍しい月夜らしい。「見事な満月だ」「いい月夜ですなあ」あの序盤の二言が、二人の共犯関係を現していたのではと思い至ったのは、花髑髏の千穐楽が終わってからのことだった。信長という存在が、彼らを捉えて離さないように、『髑髏城の七人』は、わたしの心に城を建ててしまった。これからなにを観ても、きっとなにかしら思い出すだろう。夜空の月だけで、思い出すほどなのだから。

 

*1:ちょっとうろ覚え

『髑髏城の七人』Season月(上弦の月)_2018/1/9昼

 年明け最初の髑髏城。これまでは豊洲駅から歩いていたが、気分を変えて新橋方面からゆりかもめでステージアラウンド東京へ向かった。前日は雨、劇場の上に浮かぶ雲が、ミッキーの耳をつけた髑髏のように見えた。

 ……と冷静に感想を綴ろうと思ったが、まったくもって気分がノらないから、正直に書こう。わたしは、月髑髏の脚本・演出で、花髑髏が観たかった。というか、Season極が終わったら、もう一度花鳥風月を一巡、上演して欲しい。だってあまりにも劇場を理解し、客層を理解した豊洲髑髏城がそこにあるからだ。

 

 福士捨之介は爽やかで背が高く、飄々としていて、本当に小栗捨之介を何度も何度も思い出させてくれた。「大した街だよ、実際」と無界屋を噛み締めるように見上げる小栗捨之介は、嬉しそうに、だけど少し痛がるかのように笑っていたっけ。なにもかもが違うのに、かつてそこで演じられていた「捨之介」のことが、次々に胸に浮かんでは消えた。

 三浦蘭兵衛さんに至っては、高身長かつ長男気質、色白でムスっと無愛想な蘭兵衛さん、という時点でもう山本蘭兵衛さんのフラッシュバックの雨あられで、いや、もうやめて!!山本蘭兵衛さんに近しいポイントで攻めてこないで!!チケット売り切れてて本当に良かった……三浦くんって殺陣できるんだ……ディオールのプワゾンを愛用してるんだ……なんだ……なんだそれ反則だろ……山本蘭兵衛さんがかつてバラガキだった時みたいな感じがするんだよ……あいつは悪い男だよ……七年後も蘭兵衛さん演ってください……と、山本蘭兵衛さんにひれ伏した民草は、いずれも観に行って頂きたい蘭兵衛さんだった。

 

 花髑髏の時にも散々このブログに書いたが、そもそも「無界屋蘭兵衛」というキャラクターがわたしはだいすきだ。花髑髏に連行した友人が、山本蘭兵衛さんを「闇堕ちしたブチャラティ」と名付けたが、まさにああいう堅物くんで、自嘲気味な後悔と、己じくじくと蝕むような過去を背負っているところがものすごく切ない。「蘭丸」になってしまってからを、本性や二重人格の一つというように演じられる場合もそれはそれで最高ではある。ただわたしは、欲を言えば「天魔王を選んだ場合の蘭兵衛さん=蘭丸」がどうしようもなく破滅的で愛おしいから、できれば三浦蘭兵衛さんも(そして廣瀬蘭兵衛さんも)、蘭丸は蘭兵衛の延長線で演じて欲しい。だがこれは単純に好みと性癖の問題だとも自覚している。

 

 それにしても上弦のクドキシーンはまさに「陥落」といった趣で、それもまた花髑髏を想起させて辛かった(しドキドキした)。信長と天魔王が同じ顔でない場合には、あのシーンはより説得力を持たせなければ「なんだよチューしちゃうのかよ」となってしまう。だがあの契りで、蘭兵衛が蘭丸に呑まれる、もしくは彼が蘭兵衛であるより蘭丸であることを選んだことが如実に示されると、「お前は無界屋の主人、無界屋蘭兵衛だろうが!!」と脳内で小栗捨之介が叫んでくれるようになるから最高だ。そう、まさにそこにはいないが劇中の人物に近しい心持ちでその光景を受け止められた時、わたしたちは舞台に入り込んだかのような錯覚と、泡立つような高揚感を得る。なぜ蘭丸は、蘭兵衛という自分をも見つけてしまったのか。「無界屋蘭兵衛」というキャラクターの、人物の矛盾した魅力が、眼前に突きつけられるようで楽しいのだ。

 殴りたくなるほどに悔しく、それでいてこうなることをまるで捨之介のように予見し、理解してしまえる。ああわたし、髑髏城を観ているんだな、と思える二幕序盤のクドキは、最早形骸化したといえばそうだが、やはりお約束として欠かせない部分であるように思う。

 繰り返しになるが、山本蘭兵衛さんに夢中になった同志たちは、本当に三浦蘭兵衛さんを観て欲しい。昨年の春に咲き誇り、そして散った花髑髏の残り香は確かにあの回る劇場に染み付いていて、そして「無界屋蘭兵衛」というキャラクターが演じ続けられることの中毒性に酔って欲しい。もしかしたら7年後、我々が未だ知らない誰かが、この役を演じてくれるかもしれないと思える希望。そのワクワク感は、またきっとここを訪れたいと、名残惜しいがさっぱりとした気持ちでディズニーランドから帰る道すがらのようで、存外明るい気持ちだった。

 

 Season極が終わったら、また『髑髏城の七人』を上演してくれないだろうか。無茶な願いとは知りつつも、もういろいろな蘭兵衛さんが観たくて仕方がない。女性の蘭兵衛さんも観てみたいし、花鳥風月、目まぐるしく変わり続けた髑髏城をこうしてここまで観られて、本当に良かった。変わり続けることこそ舞台作品の醍醐味だが、徐々に高くなる日差しを感じながら、もう少しだけ髑髏城にいたいと思う。ここに眠る魔王の魂を鎮めるため、そう語った彼も、実はある種の覚悟を決めたあの場所から、離れ難かったのなら面白い。

 

『髑髏城の七人』Season月(下弦の月)_2017/12/25夜

 花鳥風月。最後のチームは若手中心の2チーム制。キャストが発表された際の印象は、もう語弊を恐れず正直に書くが、「マジかよ大丈夫なのかよ」だった*1。第一にそれまでの髑髏城が最高過ぎた。髑髏城は、恰好良い大人の少年ジャンプ、という印象だったから、若髑髏を超える超若髑髏!!とか言われても、「いや別に、それをラストに持ってくる必要はないんじゃないの……」とさえ思った。

 発表された当初はSeason極は明らかにされておらず、花鳥風月の公演を通じて、新しい劇場を使った盛大な集客検分に付き合わされた気分になった。間違いなくわたしの故郷は2.5次元舞台であり、Season月とはつまり、「今流行りの2.5次元が、一体どれだけカネを集められるのか、試してみようじゃあないか」とニヤニヤしているお偉方のしたり顔が透けて見えるようで気持ち悪かった。もしもそれまでと同じような、いわゆる有名どころのキャスティングの中に、2.5次元出身の俳優さんが紛れ込んでいたなら、どれほど嬉しかったか。

 

 けれど結論から言おう。髑髏城は、裏切らなかった。あの回る劇場を、使いこなす演出、より明快になった脚本。『髑髏城の七人』Season月・下弦の月は、これまでの髑髏城を知らない人にこそ観て欲しい作品であったし、なおかつ髑髏城を観ていない若い世代に向けられたものだった。これまでの花・鳥・風は、前作とはここが違うのね、という楽しみがあった。それはある種のノスタルジーであり、髑髏城を観たことがあればあるほど、面白さを増してくれる要素だった。だが月は違う。

 月髑髏は、雲間に忽然と現れる月のように力強く、また大河の流れをものともしない、川面に映る月影のようだった。毎夜浮かぶ月の姿が異なるように、これまでの髑髏城のどれとも違い、それでいてその違いはあくまで太陽の影響であるだけと言うように、紛れもなくそれは髑髏城だった。花・鳥・風を経たからこそのハイブリッド髑髏城。自分と同世代の人間が、数多のベテランが踏み、奮闘した舞台に堂堂と立ち、新たな髑髏城を建設している様は、観ているだけで泣けた。そして作品を託そうと決めてくれたであろう偉い人たちに、もしくは託さなきゃいけない以上は、受け取りやすいようにしてくれた大人たちに、感謝せずにはいられなかった。

 

 一番グッと来たのは、捨之介が天魔王の偽物の鎧を着せられた後、それが主人公補正の強さの一部をちゃんと担う、というところ。捨之介が織田信長の影武者であった点は、今回あまり言及されていなかったように思うが、あの瞬間は、ゾワッと鳥肌が立った。それでこそあの鎧を捨之介に着せた意味がある。

 偽物が本物に打ち勝つ時。本物を失った偽物が、生きるためにはどうするべきか。天魔王と捨之介を分けたものはなにか。つまるところそれは仲間でも胆力でもなくて、過去を捨て生きようという、己自身の意志であるという、大人からの脱却、自立である点が、今回の月髑髏は清々しいほどに明瞭だった。

 

 最近、特定の役者から解き放たれた時に、作品は普遍性を得ると感じるようになった。どの作品の程度が高くて、どれが低いかは決める必要がないと改めて思う。2.5次元原作だから低俗だとか、2.5次元ファンが卑屈になる必要はなく、演じられる劇場の大きさで作品の格が決まるわけではない。作品の普遍性にこそ、眩しいほどのきらめきはきっと宿る。

 いつかは我々も過去になり、現代劇は古典になる。だがいつか遠い未来で、自分と同じようにこの作品に励まされることがあれば、と願えるような作品に出逢えた時。それはとても幸運なことで、そして今、生で観れる機会がある以上、ぜひ劇場で観てもらって、一人でも多くの人の感想を訊いてみたいと思う。

 

 今夜の月は、今年一番大きく見えたらしい。豊洲に昇る月は、千穐楽まで大きくなり続けることだろう。上弦の月も楽しみだが、また当日券に挑んでしまいそうな自分が怖い。

 

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ありがとう2017年、おいでませ2018年

 あけましておめでとうございます。新年を迎え、昨年の観劇記録をさらってみた。ざっと今年の観劇予算の目算を立てたいし、数年以内にNYのブロードウェイに行ってみたいと考えているから、昨年の反省を活かして今年は上手く観劇したいなと考えている。

 一番の反省は、昨年のお正月に立てた「同じ演目の観劇は1回まで」という目標をことごとく裏切る観劇生活をおくったこと。花髑髏なんて9回行った。だが週末は舞台だという心の抜け道があったからこそ、イヤなことにも耐えられた瞬間が数限りなくあった。決して安い趣味ではないが、心の健康維持のために必要だったということにしておこう。

 

 自分でも驚いてしまったのは、とある俳優さんを推すのをやめたのが、つい昨年のお正月のことだったということ。そして新しく応援したい俳優さんに出会えたのも、去年の2月のことで、まあまあ……というかかなりの移り気に笑えて来た。以前のブログに「スキになれるキャパ」について書いた*1が、やはり心のキャパシティというのは限られている。それこそ『SHERLOCK』のシャーロックのように、不要な情報は頭から削除しなくては、精神の宮殿は推しでいっぱいになってしまうだろう。

 

 先日まで放送されていた『監獄のお姫さま』という作品がとても面白かった。それぞれ極悪犯罪者というほどではないが、それなりに罪を背負った女囚のおばさんたちが、冤罪を着せられ刑務所にやって来た「姫」というあだ名の歳下の女の子のために奔走する物語。

 女囚たちの中に一人、「女優」と名乗る登場人物がいた。彼女は若手俳優にハマり、月100万を超える額をその趣味に費やし、最終的には結婚詐欺や横領にまで手を出して、刑務所にいるという設定。彼女がハマった作品は剣道をモチーフにしており、さらには彼女が刑務所でハマっているドラマ番組には黒羽麻璃央さんが出演しているなど、なかなかにこちら側をよく観察した印象だった。そして同時に、自分の後ろをひたひたと付き従っている黒い影にもしも呑まれてしまったら、という最悪の未来を見たようでもあった。

 

 舞台を観ることは会うという行為。これはとある俳優さんが話されていたことで、だからこそ観劇は楽しいし、推したいと思えるし、それがテレビや映画と大きく異なる利点だろうとも思う。その俳優さんの言葉を知るまでは、わたしは推しに「会う」という言葉がものすごく苦手だった。なぜなら舞台やイベントというものは1対複数であり、「会う」という行為には、どうしても相互認知というか、相互に約束を取り付けて、お互いの許諾があってこそ実現できる印象を持っていたからだ。

 演者さんは観客を選べない。わたしたちは観るものを選択できるが、観られる側は、観る人間は選べない。つまりその行為は一方的で、それを相互的に語るのは、ボタンを掛け違えた時のような気持ち悪さを感じていた。だがとある俳優さんが語った、出会えるからこそ我々は、より利便性の高い娯楽よりも、何ヶ月も前から予定を調整し、高いお金を払ってまで舞台を観るのかもしれないという言葉は、説得力があった。けれど未だに、わたしは会ったような「気がする」から観劇は楽しいのだと思っている。ストレートに観劇を、会う行為だとは断言できない。目が合ったような「気がする」から楽しいのであり、もしかしたら日によって演技を変えているような「気がする」から、舞台作品はより鮮烈に観えるのだと思う。舞台とは、作品や役者さんたちと「会うこと」と、受け止める側の人間が強く定義してしまうと、自分の背後の影が濃くなるような感じがする。生身の人間を応援するのは、なかなかどうして業が深い。

 

 つまるところわたしは、自分を応援し切れないから他人を応援しているようなふしがある。誰かを応援できる余裕のある自分がすきだし、会えるという要素に否定的になることで、「理性的なファン」かのような錯覚に酔っている。推しさんには長文の手紙を送り、迷惑かもしれない差し入れを繰り返す時点で、充分理性的ではないにもかかわらず、だ。

 

 誰かやなにかを応援する行為は、一見ものすごく明るい衝動に思える。運動会で我が子を狂ったように応援する親たちの気持ちが、今ならはっきりとわかる。会社や社会という理不尽な世界で生きる大人たちが、走るのが遅いか速いかの単純明快なルール下で起こる競争を応援するのは、かなりのストレス発散になるだろう。しかしながら自分が応援しているのは運動会で奮闘する我が子ではなく、生身の赤の他人であり、せいぜい話せたとしても「お誕生日おめでとうございます!!」「チェキのポーズはハートでお願いします!!」程度の人だ。「リレー頑張ったから今夜はカレーよ!!」と励ませるわけではない。それでも、それでも、舞台上からきらきらと降り注ぐ光と音の波に包まれたくて、今年も劇場に通う日々は続くのだろうと思う。

 

 

2017年に拝見した舞台やイベント。

赤字が昨年に大きく心動かされた作品、かつ誰かに観て頂いて、叶うなら空気の良いカフェで意見交換したかった作品。

☆黒羽麻璃央 オフィシャルサイト発足記念イベント

良知真次 SHINJI RACHI LIVE 【HISTORY ROAD ~COLORS~】

☆生男ch 番外公開放送 ~ALTAR BOYZ -Team GOLD&Team LEGACY~

☆2017年版ミュージカル『手紙』
☆舞台「メサイア-暁乃刻-」

☆ベストオブ・オフブロードウェイミュージカル ALTAR BOYZ 2017 TeamLegacy

☆ベストオブ・オフブロードウェイミュージカル ALTAR BOYZ 2017 TeamGold

☆ベストオブ・オフブロードウェイミュージカル ALTAR BOYZ 2017

 合同スペシャル追加公演

☆内藤大希の秘密の会議室 公開放送 ゲスト大山真志

☆舞台『弱虫ペダル』新インターハイ篇~スタートライン~

☆超歌劇『幕末Rock』黒船来航 BD/DVD発売記念イベント

☆ミュージカル『刀剣乱舞』~三百年の子守唄~

☆ミュージカル「さよならソルシエ」再演

☆ONWARD presents 劇団☆新感線『髑髏城の七人』Season花

☆ミュージカル 王家の紋章

☆黄金週間は?るひまの映画祭!

 『ぼくとしょカウントダウン!』みどりの日上映会

☆ライブ・スペクタクル「NARUTO-ナルト-」~暁の調べ~

☆ミュージカル レ・ミゼラブル
☆ONWARD presents 劇団☆新感線『髑髏城の七人』Season鳥

劇団四季ミュージカル オペラ座の怪人

☆Space Craft ASAKUSA Reginal Theater 『トワイスアップ』

 ~スペースオペラは今はいらない~&大山真志 Special Live

大山真志 生誕!!大山祭2017~Birthday Musical Stage~

☆ミュージカル「しゃばけ」弐~空のビードロ・畳紙~

☆ONWARD presents 劇団☆新感線『髑髏城の七人』Season風

☆Space Craft ASAKUSA Reginal Theater「STAGE秋」 『トワイスアップ』

 ~沈んだ碧は息ができないそんな場所~&大山真志 Special Live

☆PARCO & CUBE 20th peresent 「人間風車

☆PARCO presents 『ロッキー・ホラー・ショー

☆超歌劇『幕末Rock』絶叫!熱狂!雷舞(クライマックスライブ)

☆ミュージカル『刀剣乱舞』~真剣乱舞祭2017~

☆Space Craft ASAKUSA Reginal Theater「STAGE冬」 『トワイスアップ』

 ~自分を偽るそんな夜に本音を語れる雪が降る~&大山真志 Special Live

☆ミュージカル「メンフィス」

☆ONWARD presents 劇団☆新感線『髑髏城の七人』Season月 下弦の月

劇団四季 Disney アラジン

☆ゆく年く・る年冬の陣 師走明治座時代祭

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