『髑髏城の七人』Season風_2017/11/03千穐楽

 劇場からの帰り道、自宅近くは通り雨に降られた後だった。雨の匂いと濡れた枯れ葉に、捨之介を救うべく沙霧たちが駆け抜けた雨の荒野を思い出した。序盤、観客が捨之介たちとともに初めて無界屋を訪れる時、流れる風景には枯れ葉が舞っていた。風髑髏千穐楽は久し振りに、「帰って来た!!わたしは『髑髏城の七人』に帰って来た!!」と思った。

 あけてすぐに観た風髑髏では、そうは思わなかった。前回の感覚は、小学生の頃に映画『The Lord of the Rings』シリーズを狂ったように観ていたわたしが、『Hobbit』を観てもホビット庄に帰って来た、とは思えなかった感覚に似ている。なにもかもがそっくりではあるが、全然違う場所。それはそれで良いが、今回は髑髏城へ帰って来られたという感覚が嬉しくて、あの序盤過ぎるシーンでちょっと泣いた。

 

 もともと仲の良いカンパニーの雰囲気は、開幕の頃から感じられた。ただ、花髑髏の捨之介・蘭兵衛・天魔王の震えるような三すくみの妙や、鳥髑髏の強烈な個性のぶつかり合いのような、このシーズンだからこそ!!という部分は薄かった。良くも悪くも優等生の髑髏城。だが千穐楽でその印象は完全に払拭された。風に色はない。これまでの髑髏城や、これからの髑髏城までも吹き抜けるような、そんな柔軟で力強い髑髏城になっていた。

 

 そもそも『髑髏城の七人』という作品の公演期間を花鳥風月に分け、さらにそれぞれのシーズンが春夏秋冬に重なるようにしてくれた方々には足を向けて寝られないほど感謝している。『髑髏城の七人』Season風は、秋に観てこそ、そして花も鳥もあの時期に観てこその部分が多いにあったのだと改めて思い知った。花を秋に観ても、鳥を冬に観てもダメだ。つまるところ風髑髏の翌日が偶然満月であるような、そんな現実の季節感までもはらんで眼前に繰り広げられる世界こそ、あの荒野に突如ぽつねんと建ち現れた髑髏城のような劇場に相応しい演出であり作品なのだろう。

 生の舞台を観るということは、上演される劇場とも切り離せはしない行為だ。その点、映画やテレビはある程度観客の自由の幅が広く、『ブレードランナー』の続編は、新宿TOHOシネマズで観たいな、などという観客のセルフプロデュースまで可能だ。しかしながら舞台となると、回る髑髏城が観たければ豊洲へ行くしかない。観客がその劇場を訪れる価値まで付与するような作品づくりというのは、なかなか難しいのだろうと思う(例えばこれを帝国劇場のフルオーケストラで観たいな、と思う作品が多々ある時点で、劇場の場所性とそこで上演される作品の内容が天秤の上で平行な作品は数少ないのではないだろうか)。

 

 千穐楽が特別なのは当たり前だが(新感線ならお煎餅ももらえるし)、開幕直後のお芝居を知っているからこそ、言い回しの微妙な変化や、滑らかになった殺陣に拍手をおくれたことが嬉しかった。上演期間中、同じクオリティのものを提供すべきでは、という気持ちもないわけではない。けれどそもそも舞台を観ることの楽しさには、同じことが一度としてない、という贅沢さも多分に含まれている。自分が目にした回が特別つまらなかったのかもしれないし、特別面白かったのかもしれない。舞台上がどんなに素晴らしくても、隣や前にいる人のせいでメチャクチャになることはよくあるし、それでも安くはないお金を払ってしまうのはなぜなのかと最近よく考える。少なくとも同じ舞台に何度も通いたくなる衝動には、次に観る回は会心の出来の1回かもしれない、という淡い期待があるように思う。

 

 向井屋蘭兵衛さんの殺陣は、正直に言って花・鳥に比べればもの足りなかった。けれど千穐楽で演じ分けられた蘭兵衛と蘭丸を観て、ああ、この蘭兵衛さんは刀を握りたくない人なのだ、と思うことができた。すべての蘭兵衛が同じでないから楽しい。それこそ女蘭兵衛だってまた観てみたいし、もっと「熟成に、熟成を重ねた」蘭兵衛さんだって観たい。

 「無界屋蘭兵衛は死んだ!!」風蘭丸が叫んだその一言は、無界屋蘭兵衛を葬り去って狂喜する蘭丸の独り言のように感じられた。これまでの蘭兵衛さんはいずれも、己のうちにある蘭丸と蘭兵衛を切り離すことに苦労しているように観えた。ああ、風蘭兵衛は違う。まるでジキルとハイドのように、それこそ捨之介と天魔王のように、同じ顔をしてはいるが、まったく別の人なのだと納得できた。

 

 「狸穴二郎衛門を演じました徳川家康です」と千穐楽で挨拶された生瀬勝久さんは、本当に台詞を聴かせる力が強くて、この方の『人間風車』が観たかったなあと帰り道に思ったり。そういえばそこには鳥捨之介がいたなともぼんやり考えた、これは余談。結局、なんだかんだ言って月髑髏も楽しみになっている時点で、もう大人しく豊洲で回る日々を楽しもう。

 昨日見上げた空には、うっすらと秋雲に覆われた向こうに十五夜が淡く光っていて、風が吹いた今夜は、満月が昇っている。

 

楽しいフリをし続けていると楽しいのかもしれない

 2017年ももう残りわずかだ。今年ほど、観劇を趣味にしていて救われた年もないと思うから、年の瀬を前に振り返っておきたい。そしてこれまでの自分の所謂「オタク活動」について、今思い、感じていることを言葉に(ってはてなブログが言ってた)。

 2月。『ALTAR BOYZ』との衝撃的な出会い。TeamGOLDのプレビュー公演は忘れられない。あっという間に貯金はチケットに変わり、寒風吹き荒ぶ新宿歌舞伎町に通った日々は懐かしい。

 3月。『さよならソルシエ』再演に泣いた。円盤化されないことにも泣いている。なぜか今年出会った作品はことごとく映像化が未定で、そのことがブログを綴った要因の一つにもなっている気がする。こぼれ落ちていく記憶を、どうにかして繋ぎ留めたいという思い。

 4月。『髑髏城の七人』Season花。自分が生まれる以前から続いている作品と、こうして出会えた幸運に感謝している。もし7年後に知っていたら、悔やんでも悔やみ切れないだろう。その時ステージアラウンドはもうないのだから。

 

 思えばわたしがTwitterアカウントで交換や譲渡を始めたのは、『うたの☆プリンスさまっ♪』というジャンルにハマっていたからだ。Twitterで譲渡交換、というのは、Twitterアカウントである意味全世界に対してなにかを募集するツイートをし、リプライやDMで諸々お互いの了承が取れると、グッズやチケットを郵送なり手渡しなりでやりとりすることだ。この行為はまったくの非公式なやり方で、素晴らしく気持ちの良い取引(わたしたちはさもそれがビジネス上のものであるかのように振る舞う)の場合も、トンデモ野郎に個人情報を渡してしまうことも、すべては自己責任、である。

 この闇市場のような仕組みを思いついて始めたのは誰なのか知りたいくらいだが、少なくとも4年前くらいにはもう定着していた。その後『仮面ライダー鎧武』『PSYCHO-PASS』など、ジャンルを転々としたわたしは、『幕末Rock』2.5次元舞台作品との出会いを果たした。

 

 人間とは不思議なもので、結局のところスキになれる物事の定量は決まっているようだ。舞台にお金を遣うようになって、自然とアニメグッズからは遠のいた。スキになれる定量は、自分のお財布と連動していると言えなくもないが、正直実生活での恋愛沙汰があった時には舞台もグッズもどうでも良かったので、わたしとしては心のキャパの問題だと考える。

 端的に言えば、自分が現状観劇に費やしている金額は、ある種依存症と言われても仕方のない額だと思う。数ヶ月前からチケットを購入し、絶対に観たい公演なら、仕事だってズル休みする。当日はできるだけ清潔感のある洋服を着ていたいし、応援している俳優さんにはプレゼントだってしたい。観劇の前後には美味しいものを食べたいし、それを写真に撮ってTwitterにアップしたい。とにかく楽しいフリをしたいのだ。毎日の仕事は特に面白いわけでもなく、つい最近片想いは自然消滅したし、自宅に戻れば愛する夫と可愛い我が子がいるわけでもない。いるのはPVCでできた冷たいフィギュアと、ペラペラのブロマイドや塗装が剥がれるアクリルキーホルダーくらいだ。そして誰に向かって楽しいフリをしたいのかといえば、結果的に「自分に向かって」としかいいようがない。これはどのジャンルであろうが、同じようにオタク活動をしていると人たちがよく口にする、この行為は精神安定剤、という言葉に帰結する。スキのキャパは、わたしに必要な精神安定剤の量だ。

 

 最近のオタク女子の典型に漏れず、わたしは『弱虫ペダル』にもハマって、ロードバイクを購入している。ロードバイクに乗っている間は、なぜか「前を向け、遠くを!!」という台詞が頭の中でこだまする。この行為に意味はあるのか、費やした時間とお金はなにをもたらすのか。今のわたしにはわからない。けれど間違いなくこの一年は、劇場に通い、応援している人へ手紙を綴って、客席から拍手をおくるそのひと時が、俯いているわたしを前に向かせ、遠くへと運んでくれたと思う。

『人間風車』_2017/10/09東京千穐楽

 本当はまっさらな状態で臨むべきだったと思うが、怖い怖いと聞いていた『人間風車』、東京千穐楽公演を観てきた。人間性を疑われること覚悟で書くが、全然怖くなかった。強いて言うなら、平川がサムに童話を無理やり聞かせるシーンが怖かった。あと、小杉が平川にお金を貸すシーンと、小杉がアキラに激昂するシーン。ああいう男子って身近にいたし、今までなんとかならないものはなかった系男子、の恐ろしさは、女性なら共感してくれるのではないだろうか。話が逸れた。

 

 なぜ怖くなかったのか。それはあまりにも平川が最初からキレッキレのキャラだったからだ。平川、誰よりも賢そう。平川、サムよりも人を殺せそう。そう、成河さんは上手過ぎるというか、ちょっとあのカンパニーで突出してしまっていた。童話なんて用いなくても充分人を洗脳できそうだし、なんなら全員自分が殺して、その罪を誰かに擦り付けることすら、やってのけてしまいそうに観えた。

 「サム」とはずっと、平川の第二人格なのかと思っていた。親もとい大人に好かれる童話を書け、と言われる平川が創り出した、想像上の「大人のファン」。だから物語をすべて覚えているし、サムのつくったものは平川がつくったものだと疑われる。けれどどうやらそうではないらしいと、アキラの弟云々の箇所で明言されて、それなのに銃で撃たれても死なない「モンスター」になってしまったあたりから、恐怖は一気に虚構じみてしまった。

 

 「殺されるほどの奴じゃない」、小杉という小悪党が死んだ後の台詞が印象的だった。劇中で死ぬ登場人物たちは、誰もが殺されるほどの罪を犯したとは到底思えない。そんな彼らを平川は容赦なく断罪し、サムを使って殺してしまう。平川はみんなが死んでしまってから、生きるしかないと言うが、結局一番恐ろしいのは平川ではないか。彼だけが劇中で唯一、誰の物語にも振り回されない。ただ一度、国尾と小杉の企みに気がつけない以外は。

 要するに平川だけが、メタ的な存在に観えた。平川の機嫌を損ねれば、彼の人生の登場人物たちは否応なしに消去される。しかも平川は、わずかばかりの罪悪感と恐怖を抱くだけで、サムという死刑執行人が動き出す。

 だからラストの悪魔かなにかからの着信は、かなり取ってつけた感があった。電話をかけて来る悪魔というのも緊張感に欠けるし、せっかくあれだけ本当はなにを考えているのかを隠せる平川ならば、メタ的な発言をしても良かったのではないか。純粋で他人を信じやすく、子どもたちがだいすきで、貧乏ながら夢を追いかけている男、という設定ですら、「平川の思い描いた物語」であったとしても今回は良かったのではないだろうか。

 もしそんな人間が現実にいたら。そう、誰かの機嫌を損ねただけで、その人の物語から強制退場を強いられててしまうかもしれない。そんな薄ら寒くなるような感触が、一見人畜無害な平川というキャラクターにはあった。

 

きっと世界はいつの時でも信じ続けてそして始まる

 ミュージカル『さよならソルシエ』再演の配信が終了してしまった(正確に言うと、ストアでギリギリに購入してさえいれば、9/29までは視聴可能だったようだ)。昨夜は日付が変わるまで配信を観ていて、Twitterでも視聴している方が多くて、上映会みたいで楽しかった。

 

 さて、わたしはミュージカル『さよならソルシエ』の初演も観ていた。初演も千穐楽公演を観た。これはちょっと自慢になるが、初演も再演も千穐楽を最前列で観た。とてもラッキーな経験をさせてもらった作品だと思う。

 初演、単純に良いミュージカルだなと感じた。もともと美術はすきだから、フィンセント・ファン・ゴッホが悲劇的な人生を歩むのは識っていたけれど、それを遡って肉付けして、さらに彼の側にいた人物にスポットライトを当てた、そもそもの原作に破綻がなかった。けれどミュージカルにした付加価値は見当たらなかった。機械人形のようなテオドルスと、朗らかなフィンセントはどこかちぐはぐに観え、その他の登場人物たちも、あくまで「その他の人々」に観えた。だから再演も、また「モンマルトルの丘」が聴けたら良いな、程度の軽い気持ちで観に行った。だが。

 なにかが違う、そう感じたのは、オープニングの一曲、平野良さんが演じられるフィンセントが登場した時からだった。会場が初演とは段違いの音響設備だったこともあり、ピアノも真っ直ぐ響いていた。ピンスポットで浮かび上がり、振り向きながら歌い始めた平野さんもといフィンセント。そしてそこからはなにもかもが違っていた。記憶の中では磁器の人形のようだったテオドルスは、活き活きとした人間になっていた。黒尽くめの衣装も、優しい彼が選んだ戦闘服のように観えた。

 若い芸術家たちも、皆漲るように熱く情熱的で、憤りや悔しさをキャンバスにぶつけるしかない彼らの代弁者として、テオドルスが立ち上がった過程がすんなりと理解できた。それなのに、テオが一番美しいと思う絵を描くフィンセントは、怒りを知らなかった。

 テオの歯痒さは、観れば観るほどわかった。もしもフィンがゴーギャンロートレックや、パリに溢れる労働者階級の人々のように怒りに満ちて、それを糧として筆を取るような人だったならば。だがそうであったら、きっとフィンの絵は違う絵になっていて。あちらを取ればこちらが立たず、結局兄弟は、二人で一人の卓越した人物、となるしかなかった。

 

 誰かのために絵を描こうとしたことなんてないよ。中盤、フィンはテオに向かって語る。絵がすきだから。けれどこうも語る。ぼくはきみに、すきなものを見つけて欲しい。ぼくに絵を与えてくれたのは、きみだから。そしてフィンセントが初めて怒るのは、他ならぬテオドルスのためだった。ふざけるな!!と声を荒げたのは、テオのため。そしてテオのさだめを裏付けるべく取ったフィンの筆は、果たしてかつてと同じ絵を描いたのだろうか。

 終盤、場面は大きく変わって、おそらくは現代の美術館に移る。ゴッホの有名な連作『ひまわり』がないことに不満げな青年を平野さんが演じるが、このシーンがわたしは一番すきだった。一説によるとこの自画像は、弟テオを描いたものだと言われている、そんな説明を聞いた青年は一言、へえ、とだけ頷く。そしてその響きには、その逸話が真実であろうがそうでなかろうが、この絵は魅力的だな、という響きがあったように思う。力強い芸術に触れた時に、誰もが持ち得る過去への畏敬と感慨のようなものが声に滲んでいた。

 

 『さよならソルシエ』という虚構の物語の最大の魅力は、なによりも過酷だった現実が、結局は物語にハッピーエンドをもたらしているという点にある。テオが塗り変えようとした事実は、塗り変えられたかどうかは別としても、現在ゴッホの絵は(そう、100年後の人々でさえも)、魅了しているという事実に帰着する。我々はこの虚構が結局はバッドエンドであることを知っているし、かつテオの思い描いた通りに帰着することも知っている。始まったその時から、幕が降りる瞬間まで。それがどうしてこんなにも心揺さぶるのか、それは間違いなく、透明な音楽と歌で綴られるからだ。間違いなく、ミュージカルであったからこそ、彼らの物語は儚く繊細で、かつ時間を閉じ込めたかのように美しかった。

 

 ここからは単なる愚痴。配信されている以上、ミュージカル『さよならソルシエ』再演の映像は間違いなく存在している。いつもTVに繋いで観ていたから、大きな画面にも耐えられるだけの画質があることもわかっていて。それなのに円盤化されず、もしかするとこれから先、誰の目にも触れないままになるなんてことを考えると、思わずテオのように脚を踏み鳴らしたくなってしまう。もちろん舞台作品は、劇場で観てこそのものだ。けれど初演と同じく、ミュージカル『さよならソルシエ』再演にも、上演終了後にその世界に触れられる機会が、生まれ続ければと願っている。
〜きっと世界円盤はいつの時でも信じ続けてそして始まる売られる〜

『髑髏城の七人』Season風_2017/09/17夜

 花に魅せられてから花鳥風月の髑髏城も折り返し、季節は秋になった。台風直撃の関東平野、11回目のステージアラウンド東京。

 風髑髏のPVは、BGMがアカドクロだったということもあり、一人二役も含めてよりアカドクロ的なものになるかと思っていた。花は若髑髏を、鳥はアオドクロを、そして風はアカドクロを踏襲しているような印象だったからだ。だがそもそも月髑髏自体が97年版リスペクト、というわけではないようだから、あくまでPVの音楽だけが歴代髑髏城を遡っているだけなのかもしれない。それでも期待していたのは骨太で無骨な髑髏城だったから、今回の風髑髏は少し肩透かしをくらった気分だ。

 ここからはあくまで初日あけてすぐの感想、として書き残しておこうと思う。わたし自身は、これまでの97年版、アカ・アオドクロ、若髑髏を映像で、花・鳥・風髑髏を劇場で観ている。そのうち若と花が一番すきな人間ということは、最初に明記しておきたいと思う。

 

 なによりも驚いたのは、客席をわずかに回転させることで、映像演出時にものすごい臨場感と、浮遊感が演出されていたこと。これは3回目でなければ観られなかった演出で、いのうえさんの手腕に改めて震えた。鳥までは、あくまで左右の動きに合わせて舞台上に拡がりがもたらされたり、流れて行く映像を読むための横方向の移動が行われていたように感じた。だが今回は回転することで足場が不安定になり、そこから映像に取り囲まれるような錯覚を得られて、とても楽しかった。

 いのうえさんのインタビューにあった通り、

ピンスポットがなかったり、フットライトがなかったり、と、今思い返せばかなり暗い中、花髑髏は展開されていた。今回は天井からの照明が幾筋も左右から重なって、とても美しく演者さんたちを照らしていた。これも回を重ねたからこその演出であり、幾度となく登城したからこそ観えた景色で嬉しくなった。だからこそ、粗が目立っているのかもしれず。

 

 まず一番の問題だと感じたのは、「誰が喋っているのかわからなくなる瞬間」が多々あったこと。特に無界屋のシーンでは、誰がなにを話しているのかわからず、かつ衣装も似ているから、太夫が紛れてしまっていた。荒武者隊に関しても、強烈な個性を発していた一人を除いて区別がし辛く、だからこそ襲撃のシーンは今までで一番客席が放置されてしまった印象受けた。あのシーンまで、その他大勢だった彼らが、死に際でそれぞれの矜持や覚悟を魅せるからあのシーンはより残酷に観えたのではないか。かつそこから、生き残った太夫が、「あたしだけはね」と答えるしかなかった状態から、「あたしも行くよ!!」と再び銃を手に取るから最後の殴り込みがより一層手に汗握るものになっていたと思う。 

 ステージアラウンドの音響に難があるのはわかっている。けれどできれば襲撃のシーンで泣いて、そして再び髑髏城へ向かう彼らに心の中で「頑張れ!!」と叫びたいので、なにかしら変わって欲しいなあと思っている。

 

 次に殺陣。それぞれ違う髑髏城なら、いっそそれまでばっさばっさと人を斬っていた人が、ガラリと変わっていても良かったのではないかと思えた。また襲撃のシーンの話になってしまうが、わたしは服部半蔵が飛び込んで来るシーンがだいすきで、もう若髑髏のあのシーンは何度観たかわからないほどだ。

 花でも蘭丸と半蔵の刃には火花が散るようで、「やるな!!貴様、名は」、の呼びかけにとても重みがあった。半蔵、今来てくれたのは嬉しいけど、遅いよ!!なんでもっと早く来てくれなかったんだよ!!あんたら、みんな一緒だ!!という気持ちにさせてくれたあの殺陣の緊張感があったからこそ、強大な権力をものともせず、改めて「捨之介のために」たった6人で髑髏城へ向かう彼らを応援できた。だが今回はどうしても天魔王と蘭丸が恐ろしくは観えず、たまたま無界屋に入れてくれたからみんなを襲撃した、半蔵も、いよいよ殿が危なくなったから来た、という印象を持ってしまった。半蔵、明らかに手を抜いているでしょ。半蔵なら、この二人をすぐに倒せるでしょ!!と別の感情を抱いてしまった。

 ヒリヒリするようなやりとりを交わしながら天下を争っている人々。天魔王と蘭丸、そして徳川の軍勢はそうであって欲しかった。だからこそそんな彼らを前時代的なもののように扱う兵庫や、「覆い被さっていた天を振りはらってくれた」沙霧がより鮮やかだった。殺陣で示せないなら、中途半端にやらなくて良い。それこそ蘭丸は持っている拳銃や毒霧を吹くとか、そんなトンデモ設定で良かった。とにかく今のままの殺陣では、豊臣軍もとい徳川軍を髑髏党が相手取るなど絵空事に近く、そしてなぜ蘭兵衛が蘭丸に戻らざるを得なかったのかが、結局は不明瞭なままなのだ。

 ただ、一幕最後の魅せ場、蘭兵衛さんが髑髏城へ向かう路は大幅に演出が変わっていて、今までのそれとはまた違った意味で美しかった。歌や映像は少し視線を散らしたかったのかな、と感じたが、斜面を登りきった先にある髑髏城、というのは禍々しくも恐ろしく、そこへ向かう背中がより小さく儚げに観えた。

 

 どうしてこうも要望が噴出するのか。正直、鳥髑髏にはハマらなかった。こういう髑髏城なのかあ〜と思って、劇場で1回、表情を観たくてライビュで1回。それで満足できた。なぜか風髑髏には、こうして欲しい、ああして欲しい、という思いが溢れ出てしまう。どうしてか。自分でもまだよくわかっていない。

 次の風髑髏への登城は千穐楽公演になる。秋も深まり、もう冬という季節だろう。思えば花の時も最初はなんとなく消化不良で、なぜこの作品がここまで人々を魅きつけるのか知りたくて、二度目の観劇で完全にやられてしまった。最後の公演まで、怪我なくカンパニーの成功を祈る。それとともに、なんとなく感じられたカンパニーの仲の良さから、これまでの髑髏城にない風が吹くと信じている。

ミュージカル『しゃばけ弐〜空のビードロ・畳紙〜』2017/09/10千秋楽

 実は初めて本館のほうの紀伊國屋ホールへ行った。古いし椅子は軋むし、椅子の背もたれが低過ぎるし、座席に傾斜がなくて後ろの方に迷惑じゃないかハラハラするし、でも、空気に演劇が染み込んでいる良い空間だった。

 

 さて本題。しゃばけはもともと原作がすきで、数年前のテレビドラマもすきで、前作も千秋楽を拝見していた。出版スピードが早くて原作には追いつけてはいないが、愛着のあるシリーズだ。さらに今回は屏風のぞきと松之助兄さんのスピンオフ。前作から引き続き屏風のぞきは藤原祐規さん、松之助兄さんはフィンセント兄さん……ならぬ平野良さん。

 構成はほぼ2部構成で、欲を言えば2時間のお芝居とはいえ間に休憩を挟んで欲しかった。それくらい、屏風のぞきの活躍する『畳紙』は明るく感じたし、松之助兄さんが義弟である若旦那のもとへやってくる前日譚『空のビードロ』は辛く苦しい状況に、ビードロから透かした光が漏れ差すような作品だった。

 

 まずは『畳紙』。なによりお雛ちゃん役の岡村さやかさんの歌声が良く響いて、これは褒めているのだけど、しゃばけというよりディズニー映画を観ているような気分になった。前作のように人間に害をなす「妖」が登場するわけでもなく、ある意味人間のすれ違いを妖である屏風のぞきが解決?するわけだから、奇妙に思えるのはまさに「人間」であって。

 「わたしはしあわせ」と確信を持ったお雛ちゃんがその後どうなったかは、ちょっと原作の記憶があやふやなので読み直すとして、ただただ、わたしの夢にも屏風のぞきが現れてはくれまいか、と願わずにはいられない。

 屏風のぞきという役は、まさに藤原さんにぴったりの役。口も回るし頭も回る、好きなものは好きと言い、嫌いなものは嫌い、良くも悪くも人は人、他人は他人、けれど奥底に優しさが揺るがずにあるというのは、あのクラブスレイジーの支配人にも通ずるような。  

 過去の役と比べてしまうのはもしかしたらとても失礼なことかもしれないが、それでも。Zsさんを演じられた藤原さん、フィンセント兄さんを演じられた平野さんを知っているからこそ、今回の佇まいがより美しく観えたのも事実だ。演技の違いと、愛着のある役者さんを観られる楽しさというものは共存し得る。

 

 ただ、前作に引き続き鳴家が幼い子どもだったのは、わたしはあまり得意ではなかった。結局は若旦那を無理やりにでも出さなくてはならないのも歯痒く、そもそも主人公がいない状況でシリーズとして物語を完遂し得るはずもなかったのではないか、などとも思ってしまった。少しこじんまりとしていた世界観が、より狭く、閉塞感が少し増したようにも感じられた。今回は前作を観ていない友人と一緒に観に行ったが、スピンオフだから前作はそこまで必須でないはず、と話していたため、申し訳なかった。前作と繋げたいのなら、しっかりとした説明の歌を挟むなり、なにかしらもう少しだけケアが欲しいところだった。

 

 とはいえ平野良さん演じられる松之助さんのお話は、「妖」よりも「人間」のほうが余程恐ろしいという、『しゃばけ』シリーズ全体に流れる通念のようなものが端的に現されていて、観ていて清々しい気持ちになれた。

 原作は読んだはずだが記憶の彼方で、ただ松之助さんがビードロを拾うあたりから、それが誰のものであるかとか、結末をぽろぽろと思い出した。特に松之助さんが道を踏み外しそうになる瞬間は、「平野屋!!」って叫びたいくらいに平野さんの危うい演技と歌声が素晴らしくて、それはやっぱり3月の『さよならソルシエ』で観た平野さんの横顔と、同じでいてまったく違っていた。平野さんの目玉のほうがビードロより余程きらきらしていたのも観えて、カーテンコールで「仔犬のような顔で」って表現されていたのも頷けた。

 

 メサイアシリーズを観返しでもしたら、それこそ「お兄ちゃん」だし、泥沼に絡め取られてズブズブと沈んで行く未来しか見えないから、今は怖くて「観たい」という気持ちに頑張って蓋をしている。

 今回、冒頭で登場してから『空のビードロ』が始まるまでの小一時間、役柄も鑑みて、裏でこれからどのくらい俳優を続けられるかな、なんてことを考えてた……などと仰っていたけれど、本当に平野良さんは生粋の役者さんだと思うし、もっと評価されて欲しい演者さんの一人だ。だって狂う演技を歌で現せる役者さんなんて、滅多にいないと思う。あと、全員にキスしたいなんて冗談を笑わずに言える役者さんも、滅多にいないはずだ。

 

ミュージカルしゃばけ

観劇前の戯言として

 今日発表された『髑髏城の七人』Season月のキャスティング。なぜ自分がこんなにもワクワクしないのかを考えた。おかしい。花どくろを観て以来、毎日風どくろと月どくろのキャスティングを考えるだけで楽しかったのに。

 花どくろのライブビューイングで風どくろのキャストが発表された時、わたしは劇場にいた。ぐるりと客席を取り囲むスクリーンに、松山ケンイチさんらそれぞれ衣装を身につけたキャストのみなさんの映像が映って、風もないのに劇場に豪風が吹き抜けたかのようだった。一人二役が帰ってくる。それだけで劇団☆新感線さんと主催側の粋な計らいにワクワクして、なんだか清々しい気持ちになれた。

 

 もともと、わたしを舞台へと導いたのはいわゆる2.5次元作品と呼ばれる作品だった。今から3年前、ゲームとアニメがぶっ飛び過ぎた原作で、これを舞台化するなんて、と興味半分で銀河劇場を訪れたのを覚えている。だがそこで繰り広げられていたのは、原作と同じようにつくり込まれた衣装で歌って踊る俳優さんたちの熱い世界だった。ペンライトをキャラクターのモチーフカラーに合わせて振れと言われて、最初はライブみたいな感じかな、と思っていたが、ライブで振るのとはまた違う楽しさがあった。わたしたちが求められているのは舞台作品世界における「観客」であり、間違いなくペンライトを振っている間は、お芝居に組み込まれてしまうのだ。

 それから3年。最近は舞台化することが最早当たり前のような風潮もあり、そして同時にその流れに辟易している自分もいた。稚拙なパフォーマンスに、仲の良いカンパニーアピール。時折流れてくる若手俳優の炎上ネタ。なんだか時々いたたまれない気持ちになった。

 

 最近、2.5次元出身の舞台俳優さんが、2.5次元でない作品でも多用されることが増えた。友人の推しさんが出るからとつき合ったとあるミュージカル。なぜか2.5次元系の俳優さんが、グッズだけは厚遇されていてよくわからなかった。アクリルキーホルダーやブロマイド。こういうのが好きでしょう、そんな風にこちらを見ている意図を感じた。商売として、売れているものを模倣するのは当たり前のことだが、なぜか悔しかった。

 

 俳優さんを応援する理由ってなんだろう。わたしは、俳優さんのパフォーマンスが観たいからから応援している。応援したいと思うひとは舞台が中心のひとが多いから、身勝手ではあるが舞台に出続けてくれることを望んでいる。舞台出演はテレビで言われるように「下積み」ではないと思うが、嘆かわしいことにこと日本においてはそう捉えられがちなのも知っている。けれど生で観ていたいなあ、そんな気持ちにさせてくれたひとを、テレビで観たひとよりは応援したくなってしまう。

 2.5だからレベルが低い。2.5だから幼稚。そんなことは贔屓目承知で全然ないし、エンターテイメントの優劣ほど、数値化できないことはないと思っている。だが今回のキャスティング発表を受けて、わたしはやはり考えてしまう。沙霧という重要な女性キャラクターが男性になったこと。2.5次元作品で多くのファンを獲得したであろうキャストが、ひとまとめにされていること。そこにまたあの視線を感じてしまう。こういうのが好きでしょう、という、こちらを無遠慮にカテゴライズして上から見降ろすようなあの視線。

 

 『髑髏城の七人』との出会いは、本当に衝撃だった。いつか、わたしが応援している俳優さんがあの作品に出てくれたら。そう願わずにはいられない魅力と、懐の深さを感じた。わたしが勝手に感じている違和感は、感じているほうがおかしいのはわかっている。もしも自分が応援している俳優さんがひとりでもいれば、文句も言わず、チケットの心配をしていただろう。けれどこのザワザワとした気持ちは、これまではなかった。

 観る前の戯言として。そして本当に生で観られるかわからないけれど、ただひたすらに成功を祈りながら。