超歌劇『幕末Rock』絶叫!熱狂!雷舞(クライマックスライブ)

 

 「音楽的青春」。『幕末Rock』において、作詞作曲を数多く手がけられたテルジヨシザワさんが超歌劇雷舞観劇後につぶやいた言葉だ。そう、まさに超歌劇『幕末Rock』は、わたしの観劇人生において代替の効かない青春だった。

 

 2014年の初演千穐楽天王洲銀河劇場に響いた『生きてゆこう』。その音圧が頬を震わせるようだった『LAST SCREAM』。そして作品を象徴する『五色繚乱』。ゲーム、アニメを受けとめ続けていた自分が、初めて作品内に入り込み、そこの一部となった気がした。初演は千穐楽含め二回観劇したが、生であることはここまで色鮮やかで、変化に富み、そして目が離せないことなのかとつくづく驚かされた。

 続く再演。毎日六本木ブルーシアターに足を運び、初めて舞台作品に「全通」した。客席はいつも満席で、少ししつこくなったアドリブシーンに苦笑しながらも、より結束の増したカンパニーの熱情(パッション)と、周りで一緒に楽しむ贔屓・煌(ファン)の熱情に、もう毎日がお祭りのような気分だった。

 今思えばメインキャストの変更なしに再演なんてことは、舞台公演においては奇跡だった。当時のわたしは観劇というハマりたての娯楽に浮かれ、それこそキャスト変更なんてことは考えたこともなかった。再演の千穐楽、なんの前触れもなく劇中歌を歌い出した客席は、本当に超歌劇で描かれる江戸の民のようで、バカみたいに楽しかったのを覚えている。

 再演千穐楽は自分の誕生日だった。作中にも誕生日が近いキャラクターがいて、早めに誕生日祝いをしようというアドリブまであった。まさか自分の誕生日に、だいすきな作品の千穐楽を観て、さらに「ハッピーバースデー」という単語まで聞けるなんて、もう勝手に運命を感じてしまうほどの経験だった。

 2016年、続編の黒船来航公演が発表された。そしてわたしは、ついに、観劇に時間とお金を遣っている人は誰しもが経験するであろう、キャスト変更という壁にぶつかった。

 

 昨日、超歌劇『幕末Rock』は終わりを迎えた。ファイナルと銘打って上演された雷舞(ライブ)公演。楽しかった。楽しかったが、こうも思った。初演と再演の記憶がない状態で、この絶叫!熱狂!雷舞(クライマックスライブ)を観たかった、と。前述した続編・黒船来航公演からは新たに、ペリー・ジュニアというライバルキャラクターが登場した。わたしはこのキャラクターがだいすきで、だからこそ初演・再演を支え続けたキャストとの絡みがどうしても観たくなってしまった。ファイナルならば新旧のキャストが、なんて、無謀な願いをまた叶えて欲しいとさえ思った。

 黒船来航における客席の空席は、再演の夏を共有した仲間たちが、数多く去っていったような気がして悔しかった。それでもわかってしまうのだ。自分だって、龍馬が良知真次さんでなくなったら、間違いなく超歌劇からは離れたか、足が遠のいたと思う。それは新旧キャストのどちらが良いという話ではない。

 

 キャストが変わっても、『幕末Rock』は『幕末Rock』だった。超歌劇は超歌劇で、それでも、わたしの夢中になった超歌劇『幕末Rock』は、もう終わったのだと思った。2015年に終わったんだ、終わったことを認めたくなかったけれど、もうそれもやめよう。昨日の前楽で『五色繚乱』を聴きながら、ただただその現実を俯瞰で見つめるような気持ちになった。

 

 雷舞千穐楽徳川慶喜を演じられたKIMERUさんが、超歌劇『幕末Rock』と出会ってなにか得たものはあった?と客席に尋ねた。得たものしかなかった。初演で生の舞台から差す光に魅了され、再演で同じキャストの進歌を体感できた。初演長州のいない世界もそれはそれで楽しかったが、再演の『生きてゆこう』を今でも覚えている。昨日の劇場を赤く染めた『LAST SCREAM』、涙が溢れて止まらなかった。青春が終わっても人生は続く。音楽とはなんだ?楽しんでいこうぜ。超歌劇『幕末Rock』という作品に出会えたからこそ、今の自分がある。

超歌劇(ウルトラミュージカル)『幕末Rock』公式サイト

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今度生まれかわっても、また一緒に、Rockやろうぜ……

 ゲーム、アニメ、そして舞台と、『幕末Rock』という作品の展開の最後として始まったのが超歌劇(ウルトラミュージカル)*1幕末Rock』だ。わたしはそもそも『幕末Rock』のアニメがだいすきで、その流れで超歌劇の初演も観た。ゲーム・アニメ自体、トンデモ豪華キャスティングで展開された作品なので、ぜひたくさんの方に観て欲しいのだが、今日はその舞台について。超歌劇『幕末Rock』が、わたしの観劇ライフの始まりだった。もともと映画や漫画、アニメは浴びるように摂取していたが、舞台となると別だった。超歌劇初演も、1回くらい試しに観ておこうか程度の、ある種怖いもの見たさで足を運んだようなものだった。

 

 初見。KIMERUさん演じられる、徳川慶喜の歌声にビビり倒し、あれは勝てないでしょ……と友人と話したのを覚えている。キャストも格好良かったね、程度の感想しかなく、こういう世界なんだ、としか思わなかった。舞台は駆け足の『幕末Rock』としか感じられず、歯痒い印象だった。けれど、なぜかもう一度観たくなった。当時から、『幕末Rock』は舞台で終わりです!!という公式からの圧は遠回しに伝わって来た。それでもフワフワした状態では『幕末Rock』という作品から離れ難かった。消化不良というか、とにかくこのまま『幕末Rock』とさよならしたくないな、ただその想いから、わたしは銀河劇場へと向かった。

 あと一回観られればいいや、というテンションだったので、前楽から当日券に並んだが、サクっと落選した。銀河劇場からは歩いて帰れるからそのまま帰ることもできたが、友人が駆けつけてくれることになった。なにやってんだ、と思いながらも前楽の間はスタバで時間を潰し、千穐楽の抽選を待った。結局、千穐楽の当日券抽選には、100人以上が並んでいたような気がする。数時間後、わたしは「舞台の千穐楽」という楽しさに初めて圧倒され、隣の見ず知らずのお姉さんと、キャ〜とか言いながら笑い合うなんて、想像もしていなかった。センセー推しだったお姉さん、まだ超歌劇『幕末Rock』を観ているだろうか。

 

 あれから3年。その間にわたしは転職もして、舞台に足繁く通うようになり、3年前とはまったく違うオタク活動をしている。なぜ自分がここまで魅了されるのか、常々考えているのだが、まだ答えは見つからない。見つかってしまえば、もしかしたら趣味としての楽しさは完了してしまうのかもしれないが。

 その間、超歌劇『幕末Rock』は、メインキャストをそのままに、初演をブラッシュアップした再演、メインキャスト変更を経て続編を上演してくれた。舞台作品において我々を悩まし続ける所謂「キャス変」問題をも、超歌劇『幕末Rock』でわたしは初めて学んだ。語弊を恐れず書くが、わたしは初演メンバーがだいすきだった。初演と再演の間で開催された今はもうないパルコでのイベント、目の前にメインキャストがずらりと並び、メインキャストの変更なく再演を告げられた時には、応援していた気持ちが全肯定されたようで、泣きながら拍手したのを覚えている。再演時、初めて「全通」した六本木ブルーシアター。この賛否両論ある劇場も、先日ラスト公演を終えた。たった3年のうちにいろいろなものはめまぐるしく変わっていて、それこそ超歌劇が続いていること自体が奇跡だ。だがどうしてもわたしはキャス変を受け容れられず、再演の円盤は、実は一度しか観ていない。

 

 それでもやはり超歌劇『幕末Rock』が、わたしに舞台を教えてくれた。誰かを「推す」ということ、全通する過酷さ(作品を正しく受け取るための体力的に自分はひ弱だと思い知った)、キャス変がなにをもたらし、なにを奪うのか。舞台の楽しさも、苦しさも、超歌劇『幕末Rock』が教えてくれた。そんな作品が明日、ついにファイナルと銘打って、雷舞(ライブ)公演を始める。楽しみのような、さみしいような。漏れ伝わる大阪公演の情報を読みながら、ついに終わるのだなと思う。

 

 超歌劇『幕末Rock』の煌(ファン)が口を揃えて言う、観客も舞台の一部。あの一体感は、超歌劇でしか得られなかった。舞台の左右にはパトランプがあって、それが光っている間はペンライトを点灯して良い、というのが超歌劇ルール。昨今はペンライトを使用して良い公演が増えたが、作品の一部であることを能動的に始終求められるのは、超歌劇だけだ。燃え盛る炎も、観客が赤いペンライトで演出しなければならないなんて、なかなかに観客への要求が高い舞台だと思う。けれどそれが楽しいのだ。無心にペンライトを振り、舞台上からレスポンスを求められる時、観客であるわたしたちは否応なく超歌劇『幕末Rock』の住人となり、日常からは切り離される。それこそが観劇の醍醐味であり、楽しさを形成するひとつだと思う。つらつら書いたが、超歌劇『幕末Rock』を生で観ずに一生を過ごすのはあまりにもったいないので、ぜひあの熱情(パッション)を劇場で体感して欲しい。楽しいことは保証する。

 

初演がGYAO!(もう『さよならソルシエ』再演配信含めて頭が上がらないです)

にて無料配信中!!!!

これさえ観れば、あなたも立派な超歌劇民!!

とにかく観るぜよ!!!!

明日から始まる

超歌劇『幕末Rock』絶叫!熱狂!雷舞

(クライマックスライブ)

 

はまだまだチケット発売中!!!!

一緒にRockするぜよ!!!!

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*1:()内が読みがなです。雷舞と書いてライブです

『髑髏城の七人』Season風_2017/11/03千穐楽

 劇場からの帰り道、自宅近くは通り雨に降られた後だった。雨の匂いと濡れた枯れ葉に、捨之介を救うべく沙霧たちが駆け抜けた雨の荒野を思い出した。序盤、観客が捨之介たちとともに初めて無界屋を訪れる時、流れる風景には枯れ葉が舞っていた。風髑髏千穐楽は久し振りに、「帰って来た!!わたしは『髑髏城の七人』に帰って来た!!」と思った。

 あけてすぐに観た風髑髏では、そうは思わなかった。前回の感覚は、小学生の頃に映画『The Lord of the Rings』シリーズを狂ったように観ていたわたしが、『Hobbit』を観てもホビット庄に帰って来た、とは思えなかった感覚に似ている。なにもかもがそっくりではあるが、全然違う場所。それはそれで良いが、今回は髑髏城へ帰って来られたという感覚が嬉しくて、あの序盤過ぎるシーンでちょっと泣いた。

 

 もともと仲の良いカンパニーの雰囲気は、開幕の頃から感じられた。ただ、花髑髏の捨之介・蘭兵衛・天魔王の震えるような三すくみの妙や、鳥髑髏の強烈な個性のぶつかり合いのような、このシーズンだからこそ!!という部分は薄かった。良くも悪くも優等生の髑髏城。だが千穐楽でその印象は完全に払拭された。風に色はない。これまでの髑髏城や、これからの髑髏城までも吹き抜けるような、そんな柔軟で力強い髑髏城になっていた。

 

 そもそも『髑髏城の七人』という作品の公演期間を花鳥風月に分け、さらにそれぞれのシーズンが春夏秋冬に重なるようにしてくれた方々には足を向けて寝られないほど感謝している。『髑髏城の七人』Season風は、秋に観てこそ、そして花も鳥もあの時期に観てこその部分が多いにあったのだと改めて思い知った。花を秋に観ても、鳥を冬に観てもダメだ。つまるところ風髑髏の翌日が偶然満月であるような、そんな現実の季節感までもはらんで眼前に繰り広げられる世界こそ、あの荒野に突如ぽつねんと建ち現れた髑髏城のような劇場に相応しい演出であり作品なのだろう。

 生の舞台を観るということは、上演される劇場とも切り離せはしない行為だ。その点、映画やテレビはある程度観客の自由の幅が広く、『ブレードランナー』の続編は、新宿TOHOシネマズで観たいな、などという観客のセルフプロデュースまで可能だ。しかしながら舞台となると、回る髑髏城が観たければ豊洲へ行くしかない。観客がその劇場を訪れる価値まで付与するような作品づくりというのは、なかなか難しいのだろうと思う(例えばこれを帝国劇場のフルオーケストラで観たいな、と思う作品が多々ある時点で、劇場の場所性とそこで上演される作品の内容が天秤の上で平行な作品は数少ないのではないだろうか)。

 

 千穐楽が特別なのは当たり前だが(新感線ならお煎餅ももらえるし)、開幕直後のお芝居を知っているからこそ、言い回しの微妙な変化や、滑らかになった殺陣に拍手をおくれたことが嬉しかった。上演期間中、同じクオリティのものを提供すべきでは、という気持ちもないわけではない。けれどそもそも舞台を観ることの楽しさには、同じことが一度としてない、という贅沢さも多分に含まれている。自分が目にした回が特別つまらなかったのかもしれないし、特別面白かったのかもしれない。舞台上がどんなに素晴らしくても、隣や前にいる人のせいでメチャクチャになることはよくあるし、それでも安くはないお金を払ってしまうのはなぜなのかと最近よく考える。少なくとも同じ舞台に何度も通いたくなる衝動には、次に観る回は会心の出来の1回かもしれない、という淡い期待があるように思う。

 

 向井屋蘭兵衛さんの殺陣は、正直に言って花・鳥に比べればもの足りなかった。けれど千穐楽で演じ分けられた蘭兵衛と蘭丸を観て、ああ、この蘭兵衛さんは刀を握りたくない人なのだ、と思うことができた。すべての蘭兵衛が同じでないから楽しい。それこそ女蘭兵衛だってまた観てみたいし、もっと「熟成に、熟成を重ねた」蘭兵衛さんだって観たい。

 「無界屋蘭兵衛は死んだ!!」風蘭丸が叫んだその一言は、無界屋蘭兵衛を葬り去って狂喜する蘭丸の独り言のように感じられた。これまでの蘭兵衛さんはいずれも、己のうちにある蘭丸と蘭兵衛を切り離すことに苦労しているように観えた。ああ、風蘭兵衛は違う。まるでジキルとハイドのように、それこそ捨之介と天魔王のように、同じ顔をしてはいるが、まったく別の人なのだと納得できた。

 

 「狸穴二郎衛門を演じました徳川家康です」と千穐楽で挨拶された生瀬勝久さんは、本当に台詞を聴かせる力が強くて、この方の『人間風車』が観たかったなあと帰り道に思ったり。そういえばそこには鳥捨之介がいたなともぼんやり考えた、これは余談。結局、なんだかんだ言って月髑髏も楽しみになっている時点で、もう大人しく豊洲で回る日々を楽しもう。

 昨日見上げた空には、うっすらと秋雲に覆われた向こうに十五夜が淡く光っていて、風が吹いた今夜は、満月が昇っている。

 

楽しいフリをし続けていると楽しいのかもしれない

 2017年ももう残りわずかだ。今年ほど、観劇を趣味にしていて救われた年もないと思うから、年の瀬を前に振り返っておきたい。そしてこれまでの自分の所謂「オタク活動」について、今思い、感じていることを言葉に(ってはてなブログが言ってた)。

 2月。『ALTAR BOYZ』との衝撃的な出会い。TeamGOLDのプレビュー公演は忘れられない。あっという間に貯金はチケットに変わり、寒風吹き荒ぶ新宿歌舞伎町に通った日々は懐かしい。

 3月。『さよならソルシエ』再演に泣いた。円盤化されないことにも泣いている。なぜか今年出会った作品はことごとく映像化が未定で、そのことがブログを綴った要因の一つにもなっている気がする。こぼれ落ちていく記憶を、どうにかして繋ぎ留めたいという思い。

 4月。『髑髏城の七人』Season花。自分が生まれる以前から続いている作品と、こうして出会えた幸運に感謝している。もし7年後に知っていたら、悔やんでも悔やみ切れないだろう。その時ステージアラウンドはもうないのだから。

 

 思えばわたしがTwitterアカウントで交換や譲渡を始めたのは、『うたの☆プリンスさまっ♪』というジャンルにハマっていたからだ。Twitterで譲渡交換、というのは、Twitterアカウントである意味全世界に対してなにかを募集するツイートをし、リプライやDMで諸々お互いの了承が取れると、グッズやチケットを郵送なり手渡しなりでやりとりすることだ。この行為はまったくの非公式なやり方で、素晴らしく気持ちの良い取引(わたしたちはさもそれがビジネス上のものであるかのように振る舞う)の場合も、トンデモ野郎に個人情報を渡してしまうことも、すべては自己責任、である。

 この闇市場のような仕組みを思いついて始めたのは誰なのか知りたいくらいだが、少なくとも4年前くらいにはもう定着していた。その後『仮面ライダー鎧武』『PSYCHO-PASS』など、ジャンルを転々としたわたしは、『幕末Rock』2.5次元舞台作品との出会いを果たした。

 

 人間とは不思議なもので、結局のところスキになれる物事の定量は決まっているようだ。舞台にお金を遣うようになって、自然とアニメグッズからは遠のいた。スキになれる定量は、自分のお財布と連動していると言えなくもないが、正直実生活での恋愛沙汰があった時には舞台もグッズもどうでも良かったので、わたしとしては心のキャパの問題だと考える。

 端的に言えば、自分が現状観劇に費やしている金額は、ある種依存症と言われても仕方のない額だと思う。数ヶ月前からチケットを購入し、絶対に観たい公演なら、仕事だってズル休みする。当日はできるだけ清潔感のある洋服を着ていたいし、応援している俳優さんにはプレゼントだってしたい。観劇の前後には美味しいものを食べたいし、それを写真に撮ってTwitterにアップしたい。とにかく楽しいフリをしたいのだ。毎日の仕事は特に面白いわけでもなく、つい最近片想いは自然消滅したし、自宅に戻れば愛する夫と可愛い我が子がいるわけでもない。いるのはPVCでできた冷たいフィギュアと、ペラペラのブロマイドや塗装が剥がれるアクリルキーホルダーくらいだ。そして誰に向かって楽しいフリをしたいのかといえば、結果的に「自分に向かって」としかいいようがない。これはどのジャンルであろうが、同じようにオタク活動をしていると人たちがよく口にする、この行為は精神安定剤、という言葉に帰結する。スキのキャパは、わたしに必要な精神安定剤の量だ。

 

 最近のオタク女子の典型に漏れず、わたしは『弱虫ペダル』にもハマって、ロードバイクを購入している。ロードバイクに乗っている間は、なぜか「前を向け、遠くを!!」という台詞が頭の中でこだまする。この行為に意味はあるのか、費やした時間とお金はなにをもたらすのか。今のわたしにはわからない。けれど間違いなくこの一年は、劇場に通い、応援している人へ手紙を綴って、客席から拍手をおくるそのひと時が、俯いているわたしを前に向かせ、遠くへと運んでくれたと思う。

『人間風車』_2017/10/09東京千穐楽

 本当はまっさらな状態で臨むべきだったと思うが、怖い怖いと聞いていた『人間風車』、東京千穐楽公演を観てきた。人間性を疑われること覚悟で書くが、全然怖くなかった。強いて言うなら、平川がサムに童話を無理やり聞かせるシーンが怖かった。あと、小杉が平川にお金を貸すシーンと、小杉がアキラに激昂するシーン。ああいう男子って身近にいたし、今までなんとかならないものはなかった系男子、の恐ろしさは、女性なら共感してくれるのではないだろうか。話が逸れた。

 

 なぜ怖くなかったのか。それはあまりにも平川が最初からキレッキレのキャラだったからだ。平川、誰よりも賢そう。平川、サムよりも人を殺せそう。そう、成河さんは上手過ぎるというか、ちょっとあのカンパニーで突出してしまっていた。童話なんて用いなくても充分人を洗脳できそうだし、なんなら全員自分が殺して、その罪を誰かに擦り付けることすら、やってのけてしまいそうに観えた。

 「サム」とはずっと、平川の第二人格なのかと思っていた。親もとい大人に好かれる童話を書け、と言われる平川が創り出した、想像上の「大人のファン」。だから物語をすべて覚えているし、サムのつくったものは平川がつくったものだと疑われる。けれどどうやらそうではないらしいと、アキラの弟云々の箇所で明言されて、それなのに銃で撃たれても死なない「モンスター」になってしまったあたりから、恐怖は一気に虚構じみてしまった。

 

 「殺されるほどの奴じゃない」、小杉という小悪党が死んだ後の台詞が印象的だった。劇中で死ぬ登場人物たちは、誰もが殺されるほどの罪を犯したとは到底思えない。そんな彼らを平川は容赦なく断罪し、サムを使って殺してしまう。平川はみんなが死んでしまってから、生きるしかないと言うが、結局一番恐ろしいのは平川ではないか。彼だけが劇中で唯一、誰の物語にも振り回されない。ただ一度、国尾と小杉の企みに気がつけない以外は。

 要するに平川だけが、メタ的な存在に観えた。平川の機嫌を損ねれば、彼の人生の登場人物たちは否応なしに消去される。しかも平川は、わずかばかりの罪悪感と恐怖を抱くだけで、サムという死刑執行人が動き出す。

 だからラストの悪魔かなにかからの着信は、かなり取ってつけた感があった。電話をかけて来る悪魔というのも緊張感に欠けるし、せっかくあれだけ本当はなにを考えているのかを隠せる平川ならば、メタ的な発言をしても良かったのではないか。純粋で他人を信じやすく、子どもたちがだいすきで、貧乏ながら夢を追いかけている男、という設定ですら、「平川の思い描いた物語」であったとしても今回は良かったのではないだろうか。

 もしそんな人間が現実にいたら。そう、誰かの機嫌を損ねただけで、その人の物語から強制退場を強いられててしまうかもしれない。そんな薄ら寒くなるような感触が、一見人畜無害な平川というキャラクターにはあった。

 

きっと世界はいつの時でも信じ続けてそして始まる

 ミュージカル『さよならソルシエ』再演の配信が終了してしまった(正確に言うと、ストアでギリギリに購入してさえいれば、9/29までは視聴可能だったようだ)。昨夜は日付が変わるまで配信を観ていて、Twitterでも視聴している方が多くて、上映会みたいで楽しかった。

 

 さて、わたしはミュージカル『さよならソルシエ』の初演も観ていた。初演も千穐楽公演を観た。これはちょっと自慢になるが、初演も再演も千穐楽を最前列で観た。とてもラッキーな経験をさせてもらった作品だと思う。

 初演、単純に良いミュージカルだなと感じた。もともと美術はすきだから、フィンセント・ファン・ゴッホが悲劇的な人生を歩むのは識っていたけれど、それを遡って肉付けして、さらに彼の側にいた人物にスポットライトを当てた、そもそもの原作に破綻がなかった。けれどミュージカルにした付加価値は見当たらなかった。機械人形のようなテオドルスと、朗らかなフィンセントはどこかちぐはぐに観え、その他の登場人物たちも、あくまで「その他の人々」に観えた。だから再演も、また「モンマルトルの丘」が聴けたら良いな、程度の軽い気持ちで観に行った。だが。

 なにかが違う、そう感じたのは、オープニングの一曲、平野良さんが演じられるフィンセントが登場した時からだった。会場が初演とは段違いの音響設備だったこともあり、ピアノも真っ直ぐ響いていた。ピンスポットで浮かび上がり、振り向きながら歌い始めた平野さんもといフィンセント。そしてそこからはなにもかもが違っていた。記憶の中では磁器の人形のようだったテオドルスは、活き活きとした人間になっていた。黒尽くめの衣装も、優しい彼が選んだ戦闘服のように観えた。

 若い芸術家たちも、皆漲るように熱く情熱的で、憤りや悔しさをキャンバスにぶつけるしかない彼らの代弁者として、テオドルスが立ち上がった過程がすんなりと理解できた。それなのに、テオが一番美しいと思う絵を描くフィンセントは、怒りを知らなかった。

 テオの歯痒さは、観れば観るほどわかった。もしもフィンがゴーギャンロートレックや、パリに溢れる労働者階級の人々のように怒りに満ちて、それを糧として筆を取るような人だったならば。だがそうであったら、きっとフィンの絵は違う絵になっていて。あちらを取ればこちらが立たず、結局兄弟は、二人で一人の卓越した人物、となるしかなかった。

 

 誰かのために絵を描こうとしたことなんてないよ。中盤、フィンはテオに向かって語る。絵がすきだから。けれどこうも語る。ぼくはきみに、すきなものを見つけて欲しい。ぼくに絵を与えてくれたのは、きみだから。そしてフィンセントが初めて怒るのは、他ならぬテオドルスのためだった。ふざけるな!!と声を荒げたのは、テオのため。そしてテオのさだめを裏付けるべく取ったフィンの筆は、果たしてかつてと同じ絵を描いたのだろうか。

 終盤、場面は大きく変わって、おそらくは現代の美術館に移る。ゴッホの有名な連作『ひまわり』がないことに不満げな青年を平野さんが演じるが、このシーンがわたしは一番すきだった。一説によるとこの自画像は、弟テオを描いたものだと言われている、そんな説明を聞いた青年は一言、へえ、とだけ頷く。そしてその響きには、その逸話が真実であろうがそうでなかろうが、この絵は魅力的だな、という響きがあったように思う。力強い芸術に触れた時に、誰もが持ち得る過去への畏敬と感慨のようなものが声に滲んでいた。

 

 『さよならソルシエ』という虚構の物語の最大の魅力は、なによりも過酷だった現実が、結局は物語にハッピーエンドをもたらしているという点にある。テオが塗り変えようとした事実は、塗り変えられたかどうかは別としても、現在ゴッホの絵は(そう、100年後の人々でさえも)、魅了しているという事実に帰着する。我々はこの虚構が結局はバッドエンドであることを知っているし、かつテオの思い描いた通りに帰着することも知っている。始まったその時から、幕が降りる瞬間まで。それがどうしてこんなにも心揺さぶるのか、それは間違いなく、透明な音楽と歌で綴られるからだ。間違いなく、ミュージカルであったからこそ、彼らの物語は儚く繊細で、かつ時間を閉じ込めたかのように美しかった。

 

 ここからは単なる愚痴。配信されている以上、ミュージカル『さよならソルシエ』再演の映像は間違いなく存在している。いつもTVに繋いで観ていたから、大きな画面にも耐えられるだけの画質があることもわかっていて。それなのに円盤化されず、もしかするとこれから先、誰の目にも触れないままになるなんてことを考えると、思わずテオのように脚を踏み鳴らしたくなってしまう。もちろん舞台作品は、劇場で観てこそのものだ。けれど初演と同じく、ミュージカル『さよならソルシエ』再演にも、上演終了後にその世界に触れられる機会が、生まれ続ければと願っている。
〜きっと世界円盤はいつの時でも信じ続けてそして始まる売られる〜

『髑髏城の七人』Season風_2017/09/17夜

 花に魅せられてから花鳥風月の髑髏城も折り返し、季節は秋になった。台風直撃の関東平野、11回目のステージアラウンド東京。

 風髑髏のPVは、BGMがアカドクロだったということもあり、一人二役も含めてよりアカドクロ的なものになるかと思っていた。花は若髑髏を、鳥はアオドクロを、そして風はアカドクロを踏襲しているような印象だったからだ。だがそもそも月髑髏自体が97年版リスペクト、というわけではないようだから、あくまでPVの音楽だけが歴代髑髏城を遡っているだけなのかもしれない。それでも期待していたのは骨太で無骨な髑髏城だったから、今回の風髑髏は少し肩透かしをくらった気分だ。

 ここからはあくまで初日あけてすぐの感想、として書き残しておこうと思う。わたし自身は、これまでの97年版、アカ・アオドクロ、若髑髏を映像で、花・鳥・風髑髏を劇場で観ている。そのうち若と花が一番すきな人間ということは、最初に明記しておきたいと思う。

 

 なによりも驚いたのは、客席をわずかに回転させることで、映像演出時にものすごい臨場感と、浮遊感が演出されていたこと。これは3回目でなければ観られなかった演出で、いのうえさんの手腕に改めて震えた。鳥までは、あくまで左右の動きに合わせて舞台上に拡がりがもたらされたり、流れて行く映像を読むための横方向の移動が行われていたように感じた。だが今回は回転することで足場が不安定になり、そこから映像に取り囲まれるような錯覚を得られて、とても楽しかった。

 いのうえさんのインタビューにあった通り、

ピンスポットがなかったり、フットライトがなかったり、と、今思い返せばかなり暗い中、花髑髏は展開されていた。今回は天井からの照明が幾筋も左右から重なって、とても美しく演者さんたちを照らしていた。これも回を重ねたからこその演出であり、幾度となく登城したからこそ観えた景色で嬉しくなった。だからこそ、粗が目立っているのかもしれず。

 

 まず一番の問題だと感じたのは、「誰が喋っているのかわからなくなる瞬間」が多々あったこと。特に無界屋のシーンでは、誰がなにを話しているのかわからず、かつ衣装も似ているから、太夫が紛れてしまっていた。荒武者隊に関しても、強烈な個性を発していた一人を除いて区別がし辛く、だからこそ襲撃のシーンは今までで一番客席が放置されてしまった印象受けた。あのシーンまで、その他大勢だった彼らが、死に際でそれぞれの矜持や覚悟を魅せるからあのシーンはより残酷に観えたのではないか。かつそこから、生き残った太夫が、「あたしだけはね」と答えるしかなかった状態から、「あたしも行くよ!!」と再び銃を手に取るから最後の殴り込みがより一層手に汗握るものになっていたと思う。 

 ステージアラウンドの音響に難があるのはわかっている。けれどできれば襲撃のシーンで泣いて、そして再び髑髏城へ向かう彼らに心の中で「頑張れ!!」と叫びたいので、なにかしら変わって欲しいなあと思っている。

 

 次に殺陣。それぞれ違う髑髏城なら、いっそそれまでばっさばっさと人を斬っていた人が、ガラリと変わっていても良かったのではないかと思えた。また襲撃のシーンの話になってしまうが、わたしは服部半蔵が飛び込んで来るシーンがだいすきで、もう若髑髏のあのシーンは何度観たかわからないほどだ。

 花でも蘭丸と半蔵の刃には火花が散るようで、「やるな!!貴様、名は」、の呼びかけにとても重みがあった。半蔵、今来てくれたのは嬉しいけど、遅いよ!!なんでもっと早く来てくれなかったんだよ!!あんたら、みんな一緒だ!!という気持ちにさせてくれたあの殺陣の緊張感があったからこそ、強大な権力をものともせず、改めて「捨之介のために」たった6人で髑髏城へ向かう彼らを応援できた。だが今回はどうしても天魔王と蘭丸が恐ろしくは観えず、たまたま無界屋に入れてくれたからみんなを襲撃した、半蔵も、いよいよ殿が危なくなったから来た、という印象を持ってしまった。半蔵、明らかに手を抜いているでしょ。半蔵なら、この二人をすぐに倒せるでしょ!!と別の感情を抱いてしまった。

 ヒリヒリするようなやりとりを交わしながら天下を争っている人々。天魔王と蘭丸、そして徳川の軍勢はそうであって欲しかった。だからこそそんな彼らを前時代的なもののように扱う兵庫や、「覆い被さっていた天を振りはらってくれた」沙霧がより鮮やかだった。殺陣で示せないなら、中途半端にやらなくて良い。それこそ蘭丸は持っている拳銃や毒霧を吹くとか、そんなトンデモ設定で良かった。とにかく今のままの殺陣では、豊臣軍もとい徳川軍を髑髏党が相手取るなど絵空事に近く、そしてなぜ蘭兵衛が蘭丸に戻らざるを得なかったのかが、結局は不明瞭なままなのだ。

 ただ、一幕最後の魅せ場、蘭兵衛さんが髑髏城へ向かう路は大幅に演出が変わっていて、今までのそれとはまた違った意味で美しかった。歌や映像は少し視線を散らしたかったのかな、と感じたが、斜面を登りきった先にある髑髏城、というのは禍々しくも恐ろしく、そこへ向かう背中がより小さく儚げに観えた。

 

 どうしてこうも要望が噴出するのか。正直、鳥髑髏にはハマらなかった。こういう髑髏城なのかあ〜と思って、劇場で1回、表情を観たくてライビュで1回。それで満足できた。なぜか風髑髏には、こうして欲しい、ああして欲しい、という思いが溢れ出てしまう。どうしてか。自分でもまだよくわかっていない。

 次の風髑髏への登城は千穐楽公演になる。秋も深まり、もう冬という季節だろう。思えば花の時も最初はなんとなく消化不良で、なぜこの作品がここまで人々を魅きつけるのか知りたくて、二度目の観劇で完全にやられてしまった。最後の公演まで、怪我なくカンパニーの成功を祈る。それとともに、なんとなく感じられたカンパニーの仲の良さから、これまでの髑髏城にない風が吹くと信じている。