ゲキシネ_髑髏城の七人 Season花

 どうしたって人は忘れてしまう。ステージアラウンド東京で『髑髏城の七人 Season花』を観てからもう2年の月日が流れようとしている。WOWOW放送版は何度も観ているが、正直花髑髏の音響は舞台で聞いたそれとは大きくかけ離れていて、だからこそ今回のゲキシネ化への期待は大きかった。映画館の画面に小栗捨之介が大きく映し出された時、わたしは再びあの関東平野に帰ってきたのだと思った。

 正直に言おう。ゲキシネ版は舞台版の30%濃縮還元版だった。まだ記憶に残っている小栗捨之介の晴れやかだがどこか寂しそうな笑顔や、山本蘭兵衛さんの朴念仁だが無界の里に優しく注がれていた視線、そして天を仰いだ成河天魔王の視線の先にあったもの。カメラによって切り取られた視界は、否応なしに世界を切り取った。劇場で垣間観えた小さくもその一挙手一投足でもって感じられた機微は、画面の外へ追いやられている。しかしそれでもなお、映画館に関東平野はあったのだ。

 兵庫のきっかけ出しで降り始める雨。生きようと決めた太夫の声色の変化。兄さが鎌を手に取っただけで、なんであんなにアツい気持ちになれるのか。2年前に夢中になって通った舞台が、そこにもうこれ以上は色褪せないかたちであった。それだけで充分だった、きっと繰り返し観返しては、わたしは記憶の残滓を取り戻す。ゲキシネ花髑髏は、わたしの還元されてしまう前の記憶を呼び覚ます。

 と同時に、自分も沙霧のように前を向かなくてはならないと思う。しのぎを削るエンターテイメント業界の先端を、劇団☆新感線は走り続けている。『偽義経冥界歌』の初日は大阪遠征をした。初見の感想としては、「これは最早メタル髑髏城では!?」と、やはり繰り返し観返すことで、スルメのようにじわじわ日常生活へ侵入して来る楽しさの実感があった。追いかけるしかできないけれど、追いかけるくらいはできるから。劇団☆新感線を応援し続けたい。もう、決めたんだ!!

 

ありがとうステアラ!!ありがとう劇団☆新感線!!

 夢ならばどれほどよかったでしょう

 未だに豊洲のことを夢にみる

 忘れ物を取りに帰ったなら

 確実に開演には間に合わない

 

 戻らない幸せがあることを

 最後にあなたが教えてくれた

 中古車買えそうなチケット代も

 今にして思えば足りなかった

 

 きっともうこれ以上 観えづらいことなど

 ありはしないとわかっている

 

 あの日のドクロでさえ

 あの日のメタマクさえ

 そのすべてを愛してた ステアラとともに

 胸に残り離れない 寒い塩素の匂い

 雨が降り始めたら目指せ無界の里

 眠ろうキャラメルを歯の裏につけて

 

 

 新年あけましておめでとうございます。昨年も観劇に支えられた一年だった。昨日の『メタルマクベス』disc3大千穐楽がなかなかに感慨深い演出をしてくださったこともあり、2年間を振り返っておきたいと思う。

 ステージアラウンド東京には、2017年は13回、2018年内に18回、合計で31回足を運ぶことができた。もともとわたしは新感線ファンではなく、2017年に大ハマりした舞台『ALTARBOYZ』に出演されていた常川藍里さんの鳥髑髏への出演が、観劇のきっかけだった。鳥髑髏を観るなら花髑髏も観ておこう、そんな軽い気持ちだった。以前書いたブログと重複するが、とにかく「小栗旬山本耕史古田新太?!おトクじゃん(人はなぜTVが初見の芸能人を呼び捨てにしがちなのだろうと常々思う)!!」という淡い期待しかなかった。回転する劇場で酔うのではないか、帰り道に頭痛になるのではないか、今にして思えば瑣末な心配事だけを胸に豊洲から歩いたのを覚えている。

 正直なところ花髑髏の一幕までは、「フ〜ンこういう感じなんだ。みんなカッコイイね」くらいの心持ちだった。確かにタイトルバックは精悍で、本水や回転機構にも驚かされたけれど、心を鷲掴みというほどではなかった。

 だが二幕、まさかの山本蘭兵衛さんが敵方に回り、小栗捨之介は捕えられ、無界の里は焼け落ちてしまった。狸親父と呼ばれていた男があの徳川家康であり、それぞれの闘う理由と再び髑髏城を目指す決意を観て、心の底から「がんばれ〜!!」と思ってしまった。笑って、迫力の殺陣にどきどきして、そして舞台上の「彼ら」に目が釘付けになった。舞台上から押し寄せるお芝居の圧に、浮かび上がる七人のシルエットに、できる限りの拍手をおくった。こんなもの、観たことがなかった。わたしは社会人になってから劇場に足を運ぶようになったために観劇年数はまだ十年にも満たない。けれどこれを見逃してはいけないという勘だけは働いた。そして何度観てもなにかを取り逃がしてしまったような気がして、繰り返し繰り返し豊洲に足を運んだ。

 

 舞台のなにが楽しいかと考える時、それは変わることにあるように思う。他のエンターテイメントと一番違うことは、提供されるものが毎日毎回毎秒違うことだ。帰り道、「きっと今日の捨之介が一番だった」と思わせてくれるからに他ならない。自分が時間とお金を遣い、幸運を携えて勝ち得た座席からの景色を唯一無二の時間にしてくれる。それが他と比べてより優れているということではなく、舞台が持ち得るエンターテイメントとしての強みだと思う。はっきり言って舞台を観ても腹は膨れないし、チケット料金のために腹が空くことのほうが多い。けれど自分が楽しかったなあ、と思える作品に出会えた時の感動は、チケットを購入しようと思った過去の自分に感謝することができ、それこそ観る前と観た後の世界を変えるような力がある。変わるということは、そこに「人間」を感じられると言い換えられるかもしれない。こんな楽しいことが、自分と同じ時刻、空間に立っている人間からこちら側に届くことがあるんだという、生々しく現実味のある感動。それはわたし自身が仕事上他のエンターテイメント業界に足を突っ込んでいることもあり、少し羨ましさや悔しさも孕んだ上で、劇団☆新感線の舞台を観ている間、常に感じることだ。

 

 『メタルマクベス』に関しては語り出すとキリがないが、一番ゾッとしたのは「マクベス夫妻の寝室にあるぬいぐるみ」だ。disc1にはゴリラとウサギのぬいぐるみがベッドに置いてあり、disc2ではキツネだけ、そしてdisc3ではぬいぐるみがなくなっていた。カーテンコールでdisc3の長澤マクベス夫人が「一卵性夫婦」という単語を用いていたが、このぬいぐるみはマクベス夫妻がどれほど相手に依存しているかを示しているように感じられた。

 ぬいぐるみは一見すると子供っぽい、甘える対象のようにも思えるが、一方で相手を置き換えられるくらいそれぞれの個が確立しているかどうかも示していたのではないだろうか。disc1は互いに依存しているのではなく、互いに異なる個々人であるから二人を現したようなぬいぐるみを寄り添うようなかたちで置いておける。disc2は実はマクベスのほうがより夫人に依存しているようにわたしには思え(夫人が彼を必要としなければそもそも将軍にはなれない心根が優し過ぎる男に観えた)、だからこそ夫人だけが「彼」に似たぬいぐるみで彼を俯瞰して見ることができるように感じられた。だがdisc3ではぬいぐるみは消え、寝室には缶ビールが溢れ、キッチンドランカーのように酒をあおる夫人が酒を飲まなくなれば代わりにマクベスが酒をあおるようになるという、結局夫婦の総摂取量は同じでは?という共依存の仕方がぬいぐるみの不在に重なって観えた。替えが効かない鏡写しの小さな人間が、二人になってしまったために大きなことをしでかしてしまって不幸になる。遠い時代の架空の人物の破滅を描いているだけなのに、それでもやっぱりなぜそうなったのだろう、とシェイクスピアから四百年後になった我々が感じたように、何百年後の人類も『メタルマクベス』を観て思うのだろうか。……ここまで書いて、disc1のぬいぐるみがゴリラとウサギだったか正直怪しくなって来たので誰か教えて欲しい……楽しいと大体軽く記憶喪失になるから自分が信じられない……

 

 こうしてすべてのバージョンを観て、一番自分にとってしっくり来た『メタルマクベス』はdisc1だった。そもそも原作の『マクベス』に対してわたしはなぜかマクベス=ベテラン将軍のイメージが強くあって、「ここを逃してしまったら、およそ自分たちが王になることなんて叶わない」という夫妻の共犯関係に根付く根本的な衝動は、若気の至りよりはむしろ長年渦巻いていた野望と不満とわずかな希望が煮詰まり切った結果のように思えていたからだ。あとは単純に好みの問題で、橋本さとしさんと濱田めぐみさんの歌声がだいすきなんだ……千穐楽で一緒に出て来た“じゅんさと”のコンビを観て、当時を知らないのに勝手に胸いっぱいになったりもしたし……

 

 昨日の大千穐楽では、カーテンコール後に花髑髏〜disc3までの走馬灯もといステージアラウンド総集編映像のプレゼントがあった。交通アクセスや座席の視界、トイレ問題など、メチャクチャ快適な劇場とは言い難い劇場だったが、劇団☆新感線のステージアラウンド東京興行を見届けることができて本当によかった。前人未到の試みに、勇気ある一歩を踏み出してくださったスタッフ・キャストのみなさん全員にお餅を差し上げたいくらいだ。そして2年前に花髑髏のチケットを取った自分自身も、「よくやったと褒めて」あげたい。

 

 あんなに側にいたのに

 まるで嘘みたい

 とても忘れられない

 それだけが確か

 

 

『メゾン・マグダレーナ』に対して今思うこと

 「思いは言葉に。」というのがはてなブログのキャッチコピーのようであるし、遅ればせながら日本に到達し定着しつつある#MeTooの影響としてではなく、あくまで一個人の所感をいつも通りに書き記しておきたいと思う。

 

 11月18日、株式会社CLIEが運営するTwitterアカウント及びプレスリリースを下敷きにしたであろう演劇系メディア(ステージナタリーげきぴあエンタステージなど)が、CLIE新作として『メゾン・マグダレーナ』が2019年2月に上演されることを発表した。「あの、マリアさんが帰ってくる!」の一言つきで作品のフォントデザインも前作同様の、まさに「帰ってくる!」という状態での発表だった。

 正直に言えば、第一報を目にした時の自分は「帰ってくるんだ!(観に行くのは)どうしようかな」という気持ちだった。『マグダラなマリア』シリーズは前職の職場の先輩からDVDを借りて知った。当時はマリア・マグダレーナ役の湯澤幸一郎氏が逮捕されたことは知らず、けれど今でも自宅に過去作の円盤がある程度のファンだ。だが単純に「観たい!」となれなかったのは、今現在のわたしは湯澤幸一郎氏が児童福祉法違反で逮捕され、実刑判決を受けたことを知っているからである。

 

 形容しがたいモヤモヤとした気持ちをまったく違う観点から明らかにしてくれたのは、もし彼が演出家の立場を利用して「横領」の罪に問われたのであれば、果たして株式会社CLIEは復活の場を与えただろうかというあるツイートだった。つまり今回の復帰は、「お金を盗む」ことよりも「児童福祉法に反する」ことが犯罪として軽視されているのではないかとも言えるのだ。例えば会社員で横領を行い、実刑判決を受けた人間が同じ職場の同じポストに復職できるだろうか。

 実刑判決を受けた人間がスポットライトを浴びてはならないと言っているのではない。株式会社CLIE及び『メゾン・マグダレーナ』復活を大々的に謳ったプロデューサーの吉井敏久氏は、なぜ同じポストを用意したのかということを疑問に感じている。現に湯澤氏が同社の舞台作品に俳優として復帰した際には、ここまでの反発や不快感は示されなかったはずだ。今回の復活を疑問視しているのは、「未だに代替公演を経験した観客や関係者がおり」、「約束された公演内容がいち演出家・主演俳優による犯罪行為で踏みにじられた」にも関わらず「嫌が応にも当時を想起させるであろうことを復活と称して行って、それが拍手とともに受け容れられる」と思っている人間がいることにある。そしてそれにGOを出してしまう会社組織が、これまで数々の素晴らしい舞台作品を提供してくれた会社であることに驚きと落胆を感じざるを得ないのだ。

 

 これからどうするのかと言えば、会社組織として危機管理能力に欠けると感じられる組織が担保する舞台公演のチケットを購入するのは危険だから控えるだろう。昨今券売は半年以上前から行われることも珍しくなく、だが今回の復活でもって会社の印象が上向き、なおかつ利益が出ると判断する組織が果たして今後も継続的にその責務を全うしてくれるかは、はなはだ疑問だ。ちなみに吉井プロデューサーが11月24日に発表した声明文のドメインはclie.asiaであるから、会社としての発表と受け取られても差し支えないのではとすら思う。

 このブログタイトル通り、わたしは株式会社CLIEによる『Club SLAZY』シリーズがだいすきだ。今一番応援している俳優さんにもその作品を通じて出会えたが、この状況では、吉井敏久氏のインタビューでCSLの立ち上げは彼ではないと言っている箇所だけが希望のようにすら思える。徹頭徹尾、彼がプロデュースしたという作品がすきで、なおかつ今回の復活に疑問を抱いている方の胸中は想像に余りある。

 

 というかマジに大丈夫かよ。この世には星の数ほど演出家や脚本家志望の人間がいて、けれど劇場で上演されるなんてチャンスは数えるほどしかないのに、株式会社CLIEのプロデューサーがイタリアに行ったりツイキャスまでして復活させたかった企画作品はこれしかなかったのかと思うと本気で心配になる。CLIEから発表されている作品はこれだけではないし、すでに数ヶ月先の公演チケットや円盤を予約している方も多いだろう。改めてチケットを買う行為とは見えない権利を買っているに過ぎず、観客としてできるのは客席から拍手をおくるかおくらないか、お金を支払うかどうかの判断だけだと思い知らされる。だいたい「劇場でパンティを振る」ことがコンプライアンス的にダメなら『マグダラなマリア』が提示していた世界観はすべてダメだと思うが。

 前述したプレスリリースを下敷きに掲載したであろう演劇メディアも、結局企業の二次宣伝媒体でしかないのだと残念に思う。掲載される時点での倫理判断基準はどこにあるのか、受け手の判断基準だけが問われ続け、チケットを買うのは自己責任だと言われ続ければ、ただでさえ敷居の高い「観劇」という行為はますます公共性を失って、遅かれ早かれ「一部の方々」と称される人間たちだけのものになるだろう。

 

今回の件に関してのさまざまなツイート、ブログなどを拝見致しました。現状メディア媒体に掲載されているものを言及させて頂きます:

ミュージカル『SMOKE』_나는 여자도 남자도 아닌 그저 예술가

 千穐楽、5人で歌い上げてくれた『翼(という楽曲らしい、韓国版を観た方のブログなどから知りました)』。天才を夢見た天才の、短か過ぎた人生がもしもこんな希望に溢れたものだったなら、そう願わずにはいられない歌だった。誤解のないよう書くが、5人で歌ってくれたのは千穐楽の挨拶からの延長線で、作品自体は完結した後だったから、本当にファンサービスで行なってくれたのだと思う。

 先日、とある「ファンはファンという身分を得たストーカー」というようなツイートを拝見してから、確かにそうだよなあ、よくよく考えれば異常だよな、と思いながら、ミュージカル『SMOKE』は完全に大山真志さん目当てでチケットを取った。だがこの作品は、正直キャストさんが変わっても観に行きたいと思わせる普遍性を備えていた。舞台上の彼らに共感するために、「海」ほどの境遇や悩みを抱えている必要はなかった。誰しもが一度は思ったであろう「自分は何者で、どこへ行くべきなのか?」という根源的な疑問を、たった一人の内面を描くことで観客に真正面からぶつけてくる。何事も受け取り方は自由だし、好き嫌いも分かれるだろうが、今のわたしには本当に刺さる作品だった。観ていてつらいような胸が締め付けられるような、それでいて充足感と解放感もあって、キャストさんたちが口々に述べたように、言葉にすれば腐ってしまうような感動がそこにあった。

 もっとチケットを増やしておけばよかったとずっと後悔しているが、結局だいすきな作品を満足するほど観られたことはないし、それは永遠に不可能なことなのだろう。たとえ全公演観たとしても、四方囲みの客席に8つの瞳を置いておくわけにはいかないから、すべてを観れたことにはならない。わたし、というか誰しもの心に「超」や「紅」がいて、絶望しかけるたびにああして自分を押し留めてくれているのなら、人間の生命力とは素晴らしいものだなと改めて思えた作品だった。

 

〜ここからは推しさんに対する感想〜

推しさんすごいよかった……ずっと少年のような役柄なのかと思っていたところ、ふと現れる「李箱」や、「超」や「紅」と同じ机を向かい合わせて、鏡合わせの動きをするシーンは二度目、三度目に観た時にアッと気づかされて、気づいてしまうと涙が込み上げた。「超」と「紅」はきっと物語冒頭で語られる「男の子が捨ててしまった袋」なんだろうなあと自分は思っていて、それはある種の病気なのだとしても、肺病のように単純に身体を蝕むものではなくて、むしろ「海」を護ろうとする彼の命のきらめきを観たようだった。

 「紅」をふわりと抱き上げて、星の中で踊る推しさんの横顔を観ていたら、ア〜もう勘弁して〜ずっとこのまま踊っていられたらいいのにね……と思った。「超」との境目が曖昧になって、同じ動きで互いを見つめ合う瞬間の迫力に、こういう高まりを肌で感じられる瞬間のために劇場に通っていると確信を得た。ラスト、拘置所から出て行く「海」の表情は忘れられないし、千穐楽のカーテンコールで、それこそ4人の守護天使のような「海」の心たちに囲まれて、晴れやかな表情で原稿用紙を放り投げた姿に、拍手をおくれて本当によかったと思う。あの『翼』という歌は、別の側面から観れば死期が迫った人間のレクイエムのようでもあるが、自分はあくまでカンタータ的な生命への讃歌と受け取りたかった。

 ミュージカル『SMOKE』は、今のわたしにとっては本当に必要な作品だった。生で観たかった作品は数あれ、やはり出会うべき作品とは出会うべき時に出会っているのかもしれず、その出会いをくれた推しさんには感謝している。本番のそれとはまったく別のものだと理解しつつも、音源として繰り返しあの煙のような世界を感じたいなあと思う。煙草を吸ったことはないけれど、喫煙者の気持ちを初めて理解してしまったかもしれない。飛ぼう、剥製のような人生を。せめて自分たちくらいは、愛してあげよう、自分が紡いだ文章を、自分を。

 

本国版を観劇された方々のブログも、大変興味深く拝読させて頂きました:

 

自分の備忘録として本国版の映像など:


それでも通う、すきなものはすき

 観る前から泣きたくなっているのはなぜだろう。彼が綴る言葉がすきだった、彼が語る言葉がすきだった、彼が演じる芝居がすきだった。年明けに予定されている舞台、もちろん最速先行で千穐楽のチケットをおさえた。来年も楽しみがあるのは素晴らしいことだと思っていた。今は、「ボディブロー」を食らったように、吐きそうで、悔しくて、つらい。

 

 昨年、ある舞台に十回近く通った。初めてそこで彼を観た、生の芝居の揺らぎを勝手に解釈しては、その贅沢な余韻を豊洲の帰り道に反芻するだけで、明日も仕事を頑張ろう、生きようと思えた。それから違う作品であっても、彼目当てにいくつかの作品を観た、指先まで漲っているお芝居がすきだった。くるりくるりと変わる表情や、真摯に綴られるブログやメルマガの言葉がすきだった。

 あのインタビューは読むべきではなかったと、今ものすごく後悔している。まっさらな気持ちで、舞台上だけ、作品から受け取れるものだけを受け取れば良かった。けれどわたしは読んでしまった、そしてあれが公にされた以上、わたしはこの気持ちを抱きながら劇場へ向かうしかない。「男性客を連れて行けない女性客でごめんなさい」と。

 ただ同時にこうも思う、観客の客層に性別の偏向があったとして、それのなにがいけないのか。女性が偏って集まっている場所が不自然な場所で、観客が平均値に近付けば良いのなら、それこそ舞台なんていう閉鎖空間はその成り立ちからして間違っている。観客の数を敢えて制限し、そこにいられる権利を商売にしているのだから、そこにある性別の不均衡さは観客に負わされるべき不都合ではない。いっそ券売の段階から、男女比が平等になるように売ってみてはどうか。劇場に女が多過ぎること居づらい場所とされ、女が男を連れて来ることを提案される意味がわからない。興味のない人間が一人来れば、確実に劇場にある座席は一つ減るというのに、なぜ興味がある人間が座席の減らし合いのようなことを推奨されなくてはならないのか。

 

 演劇が娯楽だと思われているから男性が少ないというのも、そこまでの論調からすれば、「演劇は女のものだと思われているから男が少ない」と言われているように感じられた。けれどそれをなぜ観客が、女性客が改善しなくてはならないのか。そしてそれを繰り返し発信することの意図はなにか。それこそ敢えて喩えるが、不良の溜まり場になっているコンビニで、そこにたむろしている不良たちに向かって、不良でない人たちを連れて来てくださいと言っても、客層の不均衡は到底解決されるはずがない。そして警鐘のように発せられた言葉が、これまで応援になるであろうと思って続けられて来た、観劇オタクたちの「できる限り劇場に足を運ぶ」という行為を、根本から否定するとは思わなかったのか。

 同じ人間が複数回同じ作品を観るということは、間違いなくその作品を生で観る人間の絶対数を減らすことだ。繰り返しになるが、求められたチケット代という対価を支払って、そしてあくまで自由意志に基づく行為だが、クソ面倒臭いチケット先行や発見に時間を費やして座席を埋めた行為は、つまるところ彼の善しとする観劇行為からは逸脱した行動だったのか。またそうであるならば、求められていない、そもそも来て欲しくないと発信されている場所に、一万円前後のお金を払って通うなんて、わたしにはできない。これまでもこれからも、舞台という閉鎖空間へ、自発的に行きたがらない人間を連れて行こうとは思わない。それはきっと誰かの観劇体験を阻害することにも繋がりかねないし、興味のない人間が座るほど、劇場は広くはないと思うからだ。女性客と括られる、「観客」でなく「女性客」とされるくらいなら、まだジャガイモのほうが余程肩身の狭い思いはしなくて済んだ。まだ泣きそうだ、いや、気づいて居ないだけで、もう泣いているのかもしれない。

みんな『メタルマクベス』disc1を観て

 「ドクロの次はメタルが回る!!」そんな新聞広告より先だったか、後だったか。豊洲のステージアラウンド東京で『メタルマクベス』の上演が決まり、わたしは早速ゲキシネ『メタルマクベス』のチケットを取った。

 正直に言って一幕は置いて行かれた感があり、原作のおぼろげな「マクベス」像と物語を照らし合わせては、「舞台本番以外の劇場で、マクベス、の名を言ってしまうと不幸なことが起きるんだよな」とか、「松たか子さんカワイイな〜」「しぇんしぇ〜しゅじゅちゅせんがかえ!?」とか考えていた。髑髏城からまったく学習がないと言うべきだが、その後二幕での盛り上がりと決着、天才と謳われるシェイクスピアの名作が、昭和チックなメタルバンドの小さな結末とリンクして行く物語のうねりに圧倒され、そして涙した。

 内野聖陽さん演じられる「ランダムスター」という男は、特に野心的というわけでも、自分に酔っているわけでも、妻に翻弄され過ぎるわけでもない。それこそ夢破れた数々のバンドのヴォーカリストの最大公約数的な人物だ。それなりに人望もあり、才能もあるが、どこかでなにかを間違えた男。どこかで人生を滅茶苦茶にしてしまった人間。だがそれを、彼は不幸だったと他人が断罪することは決してできない。「ランダムスター」そして「マクベス」が、果たして不幸だったのかは、最後まで誰もが知り得ないことなのだ。

 

 髑髏城から鋼鉄城へと変貌を遂げた回転劇場は、それはそれは派手で豪華でグロテスクで、これは年内にブッ壊れるのでは、と思えるほどに酷使されていた。花髑髏から通い続けている劇場だが、作品ごとに劇場の特性を活かした演出があり、この場所でしか得られない劇場体験という意味では今もっとも衝撃的な作品かもしれない。低い位置での動きが減ったために、客席をぐるりと囲んだ塀のようなもので演者さんの動きが観えないということは大幅に改善された(とはいえ2回目の観劇の際に前方に身長が高い方が座った際には、舞台のほとんどが観えなかった)。

 前置きが長くなったが、とにかく今回のdisc1で伝えたいのは、橋本さとしさんカッコイイ!!ということだ。とにかくカッコイイ。どうしようもなくカッコイイ。初回は7月下旬に観劇し、このまま8月いっぱい走り切るのか……?と不安に思うほど力強くリッチで(この形容詞が正しいかはわからないが、とにかくリッチな感じなのだ)、まさに舞台の中央に立つべき存在感だった。8月に入ってからの観劇で、7月に感じていたものは失礼なほどの杞憂で、よりパワフルにそして哀愁たっぷりに演じられる「ランディー」と「マクベス橋本」には最早、尊さすら覚えている。

 対する濱田めぐみさんは、『王家の紋章』でその歌声に一度圧倒されていたが、その想像をはるかに凌駕していた。登場シーンには、「ミュージカルとしてのグレードが上がった」という、茶化したような台詞があるが、茶化さずにはいられないくらい、彼女の歌声は回転劇場をガッツリ包み込む。ステアラの音響とは……?と、これまで散々絶望してきた劇場機構にさえ希望が持ててしまうから不思議だ。

 橋本じゅんさんは、なぜにあんなに愉快なのか。ランディーに叱られれば、小学校低学年のカブトムシがだいすきそうな少年にしか見えず、物語終盤の魅せ場では、勇猛果敢な「エクスプローラー」にしか観えない。「ランダムスター」および「マクベス橋本」が、本当に地獄の住人になったその時とは、間違いなく親友である「エクスプローラー」もとい「バンクォー橋本」を殺害した瞬間だ。

 二幕にはじゅんさんのソロがあるが、そこでの演出も、極髑髏の発展形が観られる。正直なところ城の描写は視覚情報が多過ぎて、かえって小さな城郭に思えた。もう少し想像の余地があってもと思わなくもないが、ただ、風髑髏で「“風”だ!!これは間違いなくSeason“風”だ!!」と演出による胸の高まりを感じた人間からすれば、間違いなく『メタルマクベス』でもって、ステージアラウンドという劇場の可能性がまた一段階押し上げられた印象を受けた。……というか演出のいのうえさんは、きっとまだ隠し球を持っている。今後のdisc2/3で、また我々がアッと驚くような仕掛けでもって、あのクソ劇場革新的な劇場を、荒廃した未来都市へと変貌させるだろう。

 それにしてもレスポールJr.役の松下優也さんは、数年前のミュージカル『黒執事』の印象があったが、素晴らしく「坊ちゃん」で、かつソロ曲を敢えて1曲にしたあたりが余計に王子感を強めていた。『明けない夜はSo Long』しか、彼の歌声とキレッキレのダンスを見ることはできないから、ファンは絶対通ってしまうだろう。そこまで考慮しての演出かどうかはさておき、間違いなく応援したくなってしまうJr.は、初演の怨み晴らさでおくべきか的なJr.とまた違っていて、マクベス夫人とのラストシーンなどは純な説得力があった。

 

 どうやらチケットの売れ行きは芳しくないらしいが、そもそも最前列だろうが最後列だろうが同じ値段かつ髑髏城より基本的には500円の値上げ、という強気過ぎる券売には、劇場に作品を人質に取られた印象が拭えない。だいたい情報量の少ないPVだけで、一万円以上する舞台にお客が来るとは到底思えない。

 先日WOWOWで放送された花髑髏のライヴビューイングの映像は、音響レベルやカメラワークからしゲキシネのように映像化された価値は感じられないし、このままゲキシネ化されず、あれが花髑髏になってしまったらどうしようと思う。ライビュが我慢できるのは、「同時刻に上演されているものをタイムラグなしに覗き観ているという感覚」があるからで、それを映像作品として観てくれと言われるとがっかりする。だからこそ、それでもとにかく『メタルマクベス』disc1を今のうちに劇場で観て欲しい。クソ座席の関係で舞台の半分が見切れるかもしれない。後方に下がっても良いから座席をかえてくれとお願いしても、本日は満席です、の一点張りかもしれない(ここまで観えないと言われ続けながら、全席完売させてしまう運営には正直呆れる)。「ブランケットを敷いて頂いて……」「いや、そんなことをしたら、今度はわたしの後ろの方が観えなくなりますよね?」というやりとりをさせられるかもしれない(実体験です)。

 けれどそれでも『メタルマクベス』disc1を観て欲しい。千穐楽を迎えてしまえば二度と観ることは叶わない。急に幼児化してキャラメルにはしゃぐランディーも、カールした金髪がウザめなマクベス橋本も、失意の底にありながら夫人の肩をしかと抱き寄せる鋼鉄城の主人も、あとたった数回でいなくなってしまう。今週末が自分にとっては最後のdisc1観劇だ。『髑髏城の七人』Season花からのひよっこ新感線ファンだが、これからも劇団☆新感線を追いかけ続けようと思う。

 明けない夜はない、デス・フォー・ステージアラウンド

 


『Indigo Tomato』と『修羅天魔』

 久し振りにブログを書いている。去年は観劇すればほぼ必ず書いていたけれど、正直かなりつまらない作品に出会うことも、実生活もいろいろあって滞っていた。そもそも不平不満をブログに書きたくないのは、スキよりキライのほうが、余程明文化しやすいからだ。

 

 さて、とある週末に『Indigo Tomato』と『修羅天魔』を観た。初めて訪れた博品館劇場はこじんまりとしていたが、そこで提示された世界は明るく直線的で爽快で、観劇後にトマトジュースが飲みたくなるような、清々しい初夏にぴったりのミュージカルだった。まずは主演の平間壮一さん。なぜか上弦の月ではお世話になりました、という気持ちになりつつ観ていたが、本当にすべてがシームレス。彼だけ兼ね役がなく舞台に立ちっ放しで、さらには障害を持った青年の役。得てしてなにかハードルを抱えた人間が登場するミュージカルは急に歌い出すとチグハグな印象を受けたりするものだが、それがまったくなかった。

 高ぶった気持ちが自然と歌になり、歌だからこそ観客として物語を享受できる感覚。平間さん演じられるサヴァン症候群のタカシの、人生の何分の一かのひとときを劇場にいる全員で共有できる感覚。画面越しに観ていたらきっと得られない登場人物との近しい距離感は、舞台を観たという実感に繋がっていった。

 大山真志さん演じられるユーゴという役も、舞台で出会えたからこその説得力があった。アメリカと日本にルーツを持ち、社会的にはテレビ番組の司会者として成功しているユーゴにとっても、「世界は居心地の悪い場所」。タカシが自分を宇宙人のように感じているのと同じように、社会的強者であるはずのユーゴもまた、息苦しさを感じている。どんな苦しさが正しいか、どんな苦しさが報われるべきか、このミュージカルでは、苦しさの順位付けが行われなかった点がとても良かった。

 苦しさは絶対評価であって、相対的に比べられるものではない。想像できるようにサヴァン症候群という障害があり、両親を喪って経済的にも恵まれないタカシと弟のマモルは、最終的にはタカシの数学の才能でもってある程度まとまったお金を手にする。けれどそれでタカシが息苦しくなくなるわけでも、マモルの夢が約束されるわけでも、ましてやタカシとマモルの、いなくなった母親が帰って来るわけでもない。観客が知れるのは、タカシが優しい人々に出会い、そして少しだけ変わることだけだ。けれどたった2時間のうちに、切り取られた一瞬でもって泣ける体験こそが、紛れもない「劇場体験」なのだろうと思う。

 例えるなら赤ちゃんが歩き出す一歩を観た時の感動のようであり、刹那的ではありながらそれは絶対的にも思えて、こういうひとときのために劇場へ通っているんだよなあと、観劇することの価値を改めて確かめられた。

 

 翌日は二度目にして自分にとっては最後の『修羅天魔』だったが、これもまた舞台観たぜー!!という感覚を得ることができた。

 『髑髏城の七人』という作品は、わたしにとって特別な作品だ。おそらくはここ最近で一番足繁く通った作品でもあり、自分がエンターテイメントとして舞台表現に求め得るすべてを実現してくれたような作品のひとつだ。縁あって花鳥風月・極をすべて現地で観ることが叶ったが、このドクロイヤー立ち会えたことは本当にラッキーだった。その髑髏城のマイナーチェンジ版としての『修羅天魔』。

 斬った張ったがだいすきな自分としては物足りなさもあったが、主人公・極楽太夫の着物にあった蓮のごとく登場人物たちが力強く生き抜く様は、前述した通り、同じ空気を吸いながら、誰かの人生を部分的に垣間観れる演劇空間ならではの楽しさに満ち満ちていた。ラストは髑髏城ファンならニヤリとせずにはいられない演出で、花捨之介のごとく、「おそれいったよ、いのうえさん」と、もうこの劇場では観られないであろう七人のシルエットを、網膜に記憶に焼きつけたいほどだった。

 2日間の観劇を通して、やっぱり演劇っていいなあ、という思いに浸っている。まずそこに実体として「ある」ことがいい。舞台上で繰り広げられているのは紛れもなくフィクションであるのに、実体としては現実で、それが映画やテレビドラマの体験とは違う価値になる。フィクションが実体を持っていること、それは途轍もなく説得力のあることだ。

 

 俳優の成河さんのブログから引用すると、

いつからか、「考えさせる演劇」と「楽しむ演劇」を分けて考える、というのが一般的になってきていることです。これはちょっと同意出来ません。なんとなくですが、「ストレートプレイ」と「ミュージカル」という言葉で分ける時も、単にそのくらいの意味で使う人が多いような印象を受けます。その考えのもとでは「共感出来るかどうか」が観劇の大切な要素になり、「好きか嫌いか」が満足の支柱になってきます。

 物語に共感できる、というのは褒め言葉だ。だが人間はそこまでたやすく共感し得ないし、現に『髑髏城の七人』に共感しているかといえば、間違いなく共感してはいない。最近は『アベンジャーズ:インフィニティ・ウォー』にハマっているが、別に世界を背負って立つヒーローや地球外生命体たちに共感しているわけではない。観劇を支えているかに思える「共感」は、もしかすると説得力がある、と言い換えたほうが正しいのかもしれない。

 あまりにかけ離れた2作品の劇場体験の、そのいずれもが楽しかったことに共感という言葉はそぐわない。物語だとわかっていても、そこにいて欲しい、そうであったらと願わせてしまう説得力。生身のお芝居に感じる楽しさの根幹には、矛盾や不公平に満ちた現実世界を離れて物語に説得されることで、癒される部分があるのかもしれない。単純に言えば現実逃避であり、けれどその逃避が、わたしを現実に向き合わせる推進力になっている。