ちゃんとしたコーヒーは冷めても美味しいし

 舞台の感想をこうしてブログに綴るようになって、もうすぐ5ヶ月が経つ。趣味のひとつが観劇になってから数年、もっと早くからこうしてきちんと言葉にしておくべきだったと思う。実生活でも、モレスキンの日記帳を買って自分にプレッシャーをかけたのが良かったのか、飛ばし飛ばしではあるが日記が続いている。これまでまるで日記が続かない人生だったから、自分に驚きつつも続けている。

 当初、感想は400字以内におさめようと思った。原稿用紙一枚分。学生時代から原稿用紙にぴったりおさまる文章を書くのがすきだった。ちょっと気持ち悪い性分だが、わたしはファンレターもワードの原稿用紙ウィザードで書いてから手書きで清書している。「書く」のではなく、頭の中の言葉を吐き出すように「打つ」文章は、知らず知らずのうちに長くなりがちだ。それをいざ手紙に書き起こせば、とんでもない枚数の手紙になったりもして、自分にドン引いたこともあった。

 

 さて2月。『ALTAR BOYZ』に出会い、推しが増えた。というより『Club SLAZY』の1作目を映像で観て以来、推したくて推したくてたまらなかった俳優さんが、どうしようもないくらい最高の作品に出て、どうしようもないくらいカッコ良かった。しかも前々から応援していた俳優さんも、チームは違えどその作品に出演していて、もう自分史上最高の2月だった。

 当時のブログ、なんとか400字以内にまとめようとしていたが結局はあきらめた。だって大山真志さんのマシューは信じられないくらいハートフルであったかくてエネルギッシュで、良知真次さんのアブラハムは嘘でしょ、というくらい生真面目で一本気で一生懸命だった。そのおふたりが今のわたしにとって「推し」なわけだが、『ALTAR BOYZ』に関してはもう「箱推し」、スタッフ・キャストさん含め全部をまるっと推している。推していない部分は映像化してくれない点くらい。版権元の意向でもあるらしいから、これは余談だ。

 

 3月。『さよならソルシエ』再演。正直初演はあまり響かなかった。それが再演になって、なにがそこまで心に響いたのかはわからない。けれどとにかく感動が波のように押し寄せて、泣くのを忘れるくらい心が震えた。

 初演はもちろん主人公のひとりであるフィンセント・ファン・ゴッホが亡くなるシーンで泣いたが、今回は結末を知っている。最後はまた泣かされるんだろうな、そんな漠然とした思いを抱きながら着席した。幕があいたM1、フィンセントを演じる平野良さんの歌声があまりにも透明に響いて、昨年観たそれとはまったくの別物だった。兄弟の歌声は会場を吹き抜けるように響いて、無機質に思えたテオドルスというキャラクターが、とても不器用で愛すべき人間に思えた。終盤、現代の美術館に飾られたゴッホの絵を見上げて平野さんが「へえ」と微笑むシーン、この物語を果たしてハッピーエンドと呼べるかはわからないが、間違いなく観て良かったと思えた。

 

 4月。『髑髏城の七人』Season 花。日本初の360度シアターこけら落とし公演を観ずに、なにが趣味は観劇♡じゃ、と当日券で挑んだのが間違いだった。そもそも回転する時点で楽しいのは当たり前で(ディズニーランドのダンボに乗りながら舞台を観られるのだから楽しくて当たり前)、あの浮遊感には妙な中毒性がある。初めての劇団☆新感線作品、王道中の王道エンターテイメントは狂おしいほどに切なく、気が遠くなるほど豪華で面白い。観劇から1ヶ月、我慢が効かずにこれまでの『髑髏城の七人』で映像化されているものは、すべて購入してしまった。観劇の神様は笑っているだろうが、お財布の神様は泣いている。

 とはいえ1年に渡るロングラン公演の目撃者になれた奇跡には、感謝しかない。とにかく山本蘭兵衛さんを観てくれ。自分でもブログを読み返すと徐々にズブズブと夢中になっている過程がわかって、こんなはずじゃなかったと思いつつも後悔はまったくしていない。

 

 昨年、だいすきだった作品も一区切りを迎え、少し走りきったような気分になっていた。何事も3年続けば人生において特別な意味を持ち始めるが、わたしにとっての観劇という行為は、もう熱くて触れられないものではなくなっている。少なくとも去年末は、識り過ぎたと思っていた。夢から醒めた感覚に近い。

 観劇は惰性では続けられない。お金も時間も要るし、自分が費やしたエネルギーは自分が一番覚えている。だからこそ恐ろしかった。数時間、数年後の自分が振り返った時、この行為を徒労と思うのではないか。少し大人になったふりをして、深呼吸して距離を置こうかなとさえ考えた。けれどやっぱり、楽しい。

 立ち上がれば触れられるほどの距離に演者さんがいて、毎日同じようで同じ瞬間が一秒とてない世界。それに浸る数時間は、わたしにとってやっぱり特別で離れがたい。きっと、ずっと燃え続けいたら燃え尽きてしまっただろう。最近になってやっと、観劇という趣味が身体の臓器の一部になった気がする。わざわざ命じなくても処理対象を判断して(時々食べ過ぎることはあれど)、きちんと自分のエネルギーへ変えてくれている実感がある。なにより年明けから、素晴らしい作品の数々に出会えたことが大きい。たまたま興味本位で食べたものが、メチャクチャ美味しかった、そういう奇跡がずっと続いている。

 知ってしまったことは忘れたくても忘れることはできないから、知ったら知っただけ賢くなるしかないのかもしれない。最前列から観える景色はやっぱり他と比べれば別格で、中日より千秋楽のほうが拍手はあたたかく聞こえる気はする。けれど舞台という生物の表現において、一瞬たりとて同じ瞬間はない。だから自分が観た瞬間は二度と訪れない。去年までは火傷しながら飲み込むように舞台を観ていた。今年からは、目の前に素晴らしいものが溢れ過ぎていて困るくらいだけれど、ゆっくり咀嚼して、自分の糧にしていきたい。

ミュージカル『レ・ミゼラブル』プレビュー公演_2017/5/22夜

 想像以上に舞台上は暗い。だがそこに灯される本物の松明や蝋燭の光は、まるで当時のパリを再現するかのようにくっきりと観えた。全編を通して聴くことができるフルオーケストラの演奏も圧巻で、流れるようなメロディと音のボリューム感は生演奏ならではだ。

 一番印象的だったのはジャベールの最期のシーン。本当に橋の欄干から、轟々と落ちる水底へ落ちていくようだった。舞台構造を逆転の発想で捉えていて、そうするのか!と驚かされるから、ぜひあれは劇場で観るべきシーンの一つだと思う。結構ぞっとしてしまう。

 コンビニでチケットを発券した際に、店員さんが、「『レ・ミゼラブル』、良いねえ。一度は観てみたいと思ってるんだ」と言いながら手渡してくれた。わたしは微笑み返すしかできなかったが、つまりはそういうものなのだろう。30年の歴史を持ち、帝国劇場で繰り返し演じられる演目とはつまり、それだけ観たくても観られない人がいるということだ。

帝国劇場 ミュージカル『レ・ミゼラブル』

ライブ・スペクタクル「NARUTO-ナルト-」~暁の調べ~_2017/5/21昼

 忙しい人のためのナルト。ざっと抱いた感想はまずそれだ。原作の見せ場を切り取り、歌でもって繋ぎ合わせ、物語はスピーディーに展開される。正直AiiAの音響では説明的な歌詞は聴き取り辛く、惜しい!と思う場面は何度かあった。またプロジェクションマッピングによる視覚効果は、センターブロックからでないとその演出意図はわからないだろう。

 だがイタチとサスケの因縁という点では、「なぜサスケは木の葉を潰しにかかるのか」と「イタチ兄さんは結局なにがしたかったのか」が、生身の人間が演ってくれることでやっと理解できた。原作を読んだ時点では、自分は思考が幼くて理解できていなかった。今でこそ次世代に託すという気持ちがなんとなくはわかるし、今回一番泣けたのはイタチ兄さんとナルトの対話シーンだった。なにより原作をまた読み返したくなる、それは2.5次元化することの一番の価値だろう。

 それにしてもカカシ先生とヤマト隊長の無駄遣いは贅沢過ぎでは……

 

www.naruto-stage.jp

『髑髏城の七人』Season花_2017/05/15夜

 ライブビューイング当日の劇場は、どうなっているのだろう。それは自分への建前として、ステージアラウンド東京を訪れるのも4回目になった。あと何回来られるか。

 前方1〜4列の中央列はすべてカメラのために空席で、5列センターにもカメラ。すぐ後ろに座った人からの視界はだいじょうぶだったのかなとは思ったが、とても贅沢な撮影方法だった。わたしが慣れ親しんだ2.5次元の舞台世界では見たことのない光景だった。カメラは特等席に座らされていた。後方中央、両サイドにも全体用のカメラ。これは映像化を期待せざるを得ない。演者さんの音声のほうは心なしか高めに聞こえたような気がして、もしみんなで演じ分けをしていたなら凄い。劇伴と効果音も、若干大きめだった気がする。

 

 内容的な変更はなかったが、二幕の最初、蘭兵衛さんが髑髏城をゆっくりと進む場面が省略されていたように思う。これは少し現地の休憩が押したからだろうか。ラストのカーテンコール、かなり熱烈な拍手だったが、強制的にSeason風のキャスト発表になってしまって残念だった。やはりライブビューイングは一長一短、劇場の客席が取り残されるような感じはどうしたって拭いきれないらしい。

 とはいえライブビューイングの映像クオリティはかなり納得のものだったらしく、Twitter等でいろいろな方の感想を観ているとわくわくする。ゲキシネという、単純な映像収録でない舞台映画には本当に驚かされているが、これ以上楽しみを増やさないで欲しい。少しだけ、現地より映画館にいたほうが良かったのかな、などと思ったり思わなかったりした。

 

 今回初めて10列より後方で観劇したが、ステージアラウンド東京は、もっと座席位置によって料金体系を見直すべきだろう。前に身体が大きめの人が座ると、ほとんど観えない。今回は前の方が比較的小柄で助かったが、それでも観えない部分が絶対的に存在する。たとえ米粒のような大きさでも、全体が観えることと、なにをどうしようが見切れる部分があるのは似ているようで全然違う。現状の大雑把な料金設定は間違っているし、適切な価格が観え方の不公平感を少しでも肯定できれば、それぞれの満足度も上がるはずだ。

 

 さて本編。どうしてこんなにも切ないのだろう。回を重ねる度、その切なさは増している。カーテンコールが近付くことがいやでいやでたまらなくなる。おそらくこれが「感情移入」という代物なのだろうが、Season花のキャラクターたちとは別れ難く、そして予定しているだけでこういう別れは4回あることになる。一年間、一つの作品を観続けられるなんて経験をしたことはないから、もう恐ろしくて、それこそ知らなければ良かったとすら思ってしまう(お金もなくならないし……)。

 無界の里を見渡し、実際、とつぶやく捨之介の淋しげだが感慨深い笑み。蘭兵衛さんがある決意を胸に、巡る風景に背を向ける時。天魔王が自らを庇う存在に一瞬、本当に僅かに狼狽える瞬間。胸がいっぱいになる、としか言いようがなく、王道中の王道とも言える展開に涙は出ないまでも、酸素がたくさん詰まった血液が脳内を駆け巡るような、「ああ、エンターテイメントだなあ!!」と叫んでしまいたくなるような美しさと快感がある。

 

 それにしても小栗捨之介は、観る度に格好良くなっていて、千秋楽あたりは格好良さで死人が出るのではないか。殺陣はより鋭く、飄々とした物言いはリズミカルで、すらりと立つ姿が清々しいのに過去が彼に覆い被さっていることが観て取れる。初見時は終盤に疲れが観えたが、さらに疲れているはずの今回は階段すら流れるように駆け降りるし、乱闘の場面でも沙霧をちょいちょい庇いながら闘っていた。視野がとにかく広く、全員を繋げるように演じているのがなんとも小気味好い。ちなみに友人の隣で観ていた方は、捨之介が出て来る度にうっとりと祈るように指を組んでいたというから、罪な男にもほどがある。

 

 最早うわごとのようにTwitterやブログに書き綴っている、山本耕史さん演じられる無界屋蘭兵衛さん。何度観ても新たな発見があり、何度観てももう一度観たいと思ってしまう。

 自分でも蘭兵衛さんのどこが響いたのかわからないが、ものすごくすきなキャラクターの一人になった。小説『髑髏城の七人』では、蘭兵衛という男はとあるものを預かり、大切にしている。その描写が切なくて、またそれを脳内でどう再生しようが誰にも咎められることはないから、わたしはいつも花蘭兵衛さんにご登場頂いている。あのくだりはなかなか舞台では描き辛いが、「無界屋蘭兵衛」というキャラクターを実に端的にあらわす小説オリジナルの演出だ。小説に関しては、同じ蘭兵衛さんファンと読書感想文を交換したい。

 きっと彼は、一度壊れてしまった人間だ。それを金継ぎのように太夫たちがなんとか繋ぎとめていて、蘭兵衛さん自体もそれを善しとしていた。だが過去はそれをじくじくと蝕み、ついには破壊する。二幕、残酷に嗤う彼が、これまで観た中で一番強く嗤っていて、納得できない作品を叩き割った人間のような印象を抱いた。一度ばらばらになった己の欠片を、一つずつ丁寧に集めてしまっていたのに。生まれ直したそれは、また違う輝きを放っていたが、彼は廻る時に抗い過去に戻る。全体を観よう観ようとしていたのに、結局は蘭兵衛さんばかり観てしまった。反省はしているが後悔はしていない。だってそれくらい、山本蘭兵衛さんには震えるような華がある。

 

 三すくみ。そんな関係は観ていてとても面白い。花捨之介がチョキで、花蘭兵衛はグー、花天魔王がパー。わたしにはそんな風に思えるのだが、きっとこれは観た人それぞれに解釈があるはずだ。そしてどの解釈であっても、万雷の拍手をおくりたくなるのはどうしてか。切なくなるほどのエンターテイメント。

 関東の片隅で、史実に少しだけ金継ぎをして描かれる物語は、きっとまだとば口なのだろう。

 

『髑髏城の七人』Season花_2017/05/03昼

 三回目の髑髏城。前回、「これがmy千秋楽♡」と心に決めてはいたが、やすやすと財布の紐を解いてしまった自分が情けない。

 

 観劇後、2011年と1997年の『髑髏城の七人』の映像*1を観て、また小説版も読んだ。通称「若髑髏」と呼ばれる2011年版は兎にも角にも森山未來さん演じられる天魔王が恐ろしいやら美しいやら格好良いやらで、Season鳥が待ち遠しくなった。けれどそれは、花が終わっている未来なのだから切なくなる。

 1997年版はやはり「捨之介と天魔王は同じ顔」という設定の筋が通っていて、かつそれを古田新太さんがケレン味たっぷりに演じられるものだからもう面白くて仕方がない。

 『髑髏城の七人』という作品のこれまでの変遷は、どこか『STAR WARS』シリーズと似通っている部分があるとわたしは思っている。アクが強いがハマる人にはハマる作品が、次第にたくさんの人を魅了し、最終的には大資本すら味方につける。そして最大公約数的な面白さまで提示できるようになる。この変化には感謝しかない。『髑髏城の七人』がもしも1997年で終わっていたら、わたしたちはあの豊洲の不思議な劇場で、『髑髏城の七人』を観ることはなかっただろうから。

 けれど失われたものもあるのだろうと思う。「捨之介と天魔王は同じ顔」。これは失ってはならない背骨だったのではないか。1997年版と小説を知った今では強く思う。話の筋としては小説版が一番すきだ。兵庫と極楽は自然の成り行きで固い絆を持つようになるし、蘭兵衛に関しても、空白が少なく、その変貌の描かれ方は血で描いたように鮮やかだ。そして捨之介と沙霧の関係がなんとも切ない。

 

 とはいえわたしにとっての髑髏城は、やはりSeason花だ。捨之介は飄々として爽やかで、蘭兵衛は過去の重さに血を吐き続けている。天魔王は道化師のようでいて油断なく周囲を睨め回し、兵庫はどこまでもまっすぐ。極楽は透き通っていて優しく、沙霧は胸を張って己の拳で(時には飛び蹴りで)道を切り拓く。

 

 作品との出会いは、運命のようで偶然だ。そもそも当日引換券で向かったあの日の第一衝動は「回る劇場を観もせずに、なにが趣味は観劇♡じゃ」と思ったからだし、「小栗旬山本耕史なんておトクだな♡」くらいの心持ちだった。それがここまで魅了されるとは。観劇の神様がいるなら、お礼を言いたいくらいだが、お財布の神様は泣いていると思う。

 

 さて今回は、前方のブロックではあったが上手のかなり端のほうで観た。なんとなく山本蘭兵衛さんばかり観るのは気が引けたから、「捨之介と蘭兵衛のアイコンタクト」に注目した(結局蘭兵衛さん……)。いよいよ終盤へ向けて小栗捨之介の距離の取り方に遠慮がなくなり、これまた爽やかな笑顔をバシバシみんなに向けている。特に蘭兵衛には、やはり昔馴染みという表現だろうか、目が合うとニコっとする瞬間が何度かあった。だが蘭兵衛は特に表情を変えるでもなく、ぷい、と顔を背けてしまう。それが蘭兵衛を唯一「朴念仁」たらしめているように感じられるし、捨之介の表面上の笑顔の下に眠る暗闇を、蘭兵衛は知っているのだと結末から逆算もできる。

 そのアイコンタクトを初めてまっすぐ返すようになるのは、蘭兵衛でなくなってから。それがなんとも切ない(「切ない」って何回書いたかな……)。腹の底で渦巻く過去への血反吐を吐ききってしまった蘭兵衛が、亡霊となってやっと、捨之介の視線を受け止められる。

 「織田信長」という男への解釈は、若髑髏の描き方が実に秀逸だと思う。天魔王は信長のような西洋に傾いた装いで現れるし、遺された者たちに神のように崇められている男の存在感は、最早生きてさえいるようだ。それは遺された捨之介・蘭兵衛・天魔王の三人が「若い」から、ということも大いに影響している。だが花髑髏における信長とは、過去になりつつある存在。だからこそ蘭兵衛が、結局はそれを乗り越えられないことが悔しい。

 

 なぜもっと早く出会えなかったのだろう。舞台をよく観るようになってから、そんな取り留めもないことをよく考える。だが前述した通り、作品との出会いは運命のようで偶然、そして必然なのだろう。幼い頃、母親に連れられてなぜかリバイバル上映で『STAR WARS』旧三部作を歌舞伎町の映画館で観た、というより観させられた。当時のわたしに響いたのは、カチカチに固められちゃうハン・ソロと、死にそうなヨーダだけだった。結局わたしにとってのヒーローは、その数年後に観たアナキンでありパドメで、師匠はオビ=ワンと回転攻撃をキメるマスター・ヨーダになった。

 『髑髏城の七人』も、きっと花髑髏からでなければこんなにもすきにはならなかった。そしてステージアラウンド東京でなければならなかった。あと何回、豊洲へ向かうことになるのだろう。一年後に観る髑髏城は、どんな景色なのだろう。

 記憶を手繰り寄せながら、花髑髏との別れが名残惜しくてたまらない。

 


*1:ちなみに『髑髏城の七人』の映像は以下の劇団新感線映像系の公式サイト

から入手するのが現状安価だし、公式に還元できる気がする。また豊洲HMV等では購入すると先着でゲキシネの招待券(1組2名!!)をくれるので、かなりお得に購入できる。

『髑髏城の七人』Season花_2017/04/26昼

 二度目の髑髏城。当日券があまりにも良いお席で、ドキドキしながら入場した。先行を逃した方は、あきらめずに当日引換券へのチャレンジを超絶お勧めする。たった2回の経験談だが、どちらも前方で観ることができた。

 良席に驚き過ぎて、360度回転シアターのくせに350円のあんぱんを買って食べながら深呼吸した。360円にすると、おつりのレギュレーションがメチャクチャ面倒になるから350円なのだろう。ちなみにあんぱんは天下の銀座・木村屋さんで、餡の中に求肥も入っていてとても美味しい。求肥入りをもっとアピールしたほうが良いと思うし、夢見酒入り!!とか言って赤いあんぱんも売れば良いのに、などとくだらないことも考えた。

 

 さて。二度目になれば初回よりはゆったりした気持ちで臨めるかと思いきや、それはやはり無理な話。話の筋が頭に入っているぶん、要所要所にグッと来るシーンが増えた。しかも同じシーンであっても、初見の時とはまったく異なる印象受けるシーンもあって、これだから生の舞台観劇はやめられないと思う。

 

 まずは捨之介。殺陣のキレが増して、飄々とする表情に余裕が増えていた。序盤、雨の中にタイトルが浮かび上がるシーンでは、照明の関係で捨之介の背中に小さな虹が観えた。良い男は振り切れると虹まで出せちゃうらしい。ちょっと憎たらしいくらい格好良くて、それでいてなにもいらない、そしてこれからどうとするわけでもない、という雰囲気が実に爽やかだった。雪駄履きであのアクションの連続。小栗旬さんの足の親指と中指の間の皮膚があまり痛くなりませんようにと願う。

 沙霧。信じられないくらい身軽。アクションの部分や自身が捕まっている部分では、さりげなく周りをフォローしているのも垣間観えた。沙霧はよく刃物を突きつけられるが、上手く切っ先が自分に向くように動き、刃先がぶつかりそうになるのも受け流している。それだけでなく現されている性格にしても、あんなに視野が広くて健気なかわいい女の子って滅多にいない。わたしが捨之介ならきっとずっと見ていたくなる、そんな風に思わせてくれた清野菜名さんには感謝しかない。

 極楽太夫。演技を間近で拝見でき、彼女の人間らしい美しさがより伝わった。そして余計に、蘭兵衛この野郎!!という気持ちが高まった。初登場シーン、花魁姿で無界屋のセットから下を見降ろす太夫は、まるでつくりもののようだが、一度話し始めればくるくると移り変わる表情がとても華やかだった。

 

 今回で大きく変わった印象の一つは、この極楽太夫と蘭兵衛の関係性だ。「決めた男がいる女を口説くなんて野暮はしないぜ」、捨之介の台詞にある通り、最初は彼らをまるで夫婦のような男女の関係だと思った。だからこそ口説きに応じてしまう蘭兵衛はどうしようもなく裏切り者に思えたし、あの場面は太夫と(おこがましいにもほどがあるが生物学上は)同じ「女」として許しがたかった。

 だが今回、無界屋の主人と太夫は、まるで兄妹のように観えた。なにが変わったのか、いやそもそもなにかを変えたのかすら客席からではわからないことだが、二度目の彼らは、プラトニックな関係に思えた。兵庫に対する蘭兵衛は、妹を取られそうになって自らを諌めながらもモヤモヤする兄のようだったし、蘭の花を蘭兵衛に託す太夫も、まるでどこにも行かないでと兄の手を引く妹のようだった。

 さらに口説きの場面では、奈落に引きずり込まれるように夢見酒を「呑まされていた」蘭兵衛が、今回は自ら「呑もう」としているようにも観えた。だからこそ女としての怒りより、仲間としての怒りが勝つ。「馬鹿野郎!」と脳内で捨之介が叫んだし、自分が兵庫なら殴り飛ばしたいだろう。話は逸れるが、これが「キャラが立つ」ということなのかもしれない。どんな場面に対しても、そのキャラクターの反応が想像できてしまう楽しさ。髑髏城は、驚くべきことにそんな登場人物しかいないのだ。結局のところ蘭兵衛に対しても、そうせざるを得なかったと思ってしまう。

 

 二度目の観劇の一番の理由は、山本耕史さん演じられる無界屋蘭兵衛さんをまた観たい!という身も蓋もない衝動。殺陣を間近で拝見すると、それこそ一秒ごとに発見がある。蘭兵衛の殺陣はゆっくりじっくり相手を伺って、無駄なく相手を「斃す」殺陣なのに対し、口説き以降のそれは相手を「殺す」殺陣になっている。かつての仲間たちを殺した後に、忌々しそうに刃先の血糊を袖で拭う彼は、間違いなく人を斬るひと。「なんで!」と叫びたくなる。まるでこれまでの縁を断ち切るように、過去に魅入られた彼はどこまでも虚ろだった。ただし、最期の一瞬を除いては。

 

 前回は観えなかった足さばきもよく観えて、蘭兵衛さんの初登場場面では、優雅に振舞いながらも意外に脚元が池の水で盛大に濡れていた。捨之介とは違う、踏みしめるたびに過去の重さに軋むような蘭兵衛さんが、なにも言わず巡る景色に背を向ける時。二度目だからこそ先がわかって余計に切なかった。あの魅せ方はステージアラウンドの非常に非情に回ってしまう感じをよく現わしている。動き始めた時は、廻り出せば止まらない。蘭兵衛はそれを知りながらも、逆行することを選ぶ。

 

 花髑髏に関しては語り始めるとキリがない。目の前でピタリと止まった成河天魔王のきっちり整った顔が、喋り出せば見る影もなく世の中をせせら笑う男の面のなかに隠れてしまうであるとか。兵庫の台詞回しが進化していて、もう少年漫画のヒーローにしか観えなかったこととか。古田新太さんの贋鉄斎の一人称が「ぼく」なのは、なぜか何度観ても面白いとか。狸軍勢は出て来るのは遅過ぎるが、これぞ時代劇!という鮮やかさがあるとか。

 

 今日も豊洲で誰かが回っていると思うと、なぜだかワクワクする。関東・豊洲の片隅に、突如として現れたあの劇場で、観た人なりの髑髏城が着々と築城され続けているからだ。

 

ミュージカル『王家の紋章』_2017/4/23マチネ

1階後方下手寄りセンターブロックにて観劇。

 

 最も印象的だったのは、濱田めぐみさん演じるアイシスが嫉妬にかられ、隣国ヒッタイトの王女を焼き殺すシーン。これぞミュージカル!濱田めぐみさんの歌声を今回初めて生で体感したが、アイシスの想いも悲しみも怒りもすべてが歌にのって帝国劇場に響くさまは、ただただ見事としか言いようがなかった。

 かたやヒーロー・ヒロインのメンフィスとキャロルが水色で彩られるのに比べ、アイシスは様々な色で照らされる。まるでオシリスとイシス、そんな風に歌っていた二人が、最終的には沈む太陽を背にくっきりと別れてしまうのは切ない。あの短時間で、嫉妬さえなければ彼女は誰よりも立派な女王になれていただろうに、と思わせる濱田さんはすごい。

 今回、平方元基さん演じるイズミル王子も含めて、いわゆる物語上はヒール役のほうにばかり心動かされた。心なしかカーテンコールの拍手の大きさも、自分と同じように感じた人は多かったのかな、と思ったりした。

 

www.tohostage.com