『髑髏城の七人』Season花_2017/06/11前楽

 髑髏城へ通ったこの初夏の日々は、なぜかいつも晴れていた。地下鉄有楽町線豊洲駅、中央改札から地上へ出るとゆりかもめの入口がある。いつもそこは通り過ぎて、大きな車通りからは横にそれた海沿いの道を歩いた。

 

 『髑髏城の七人』Season花の千秋楽から、1週間が経とうとしている。自分の記憶力のなさに泣けてくるが、何度も何度も観て、観る度に心震わせたはずの景色が、少しずつ曖昧になっていくような気がする。曖昧というか、断片的な球のようになっていく。それでもその記憶を呼び戻せば、なんともいえない幸福な気持ちになれるのだから単純だとも思う。

 

 前楽、ただただ祈るような気持ちで観ていた。誰も怪我しませんように、あと1回、このカンパニーが満足できる公演ができますように。意味のわからない観客だと自分でも思う。けれどとにかく自分を魅了して、ワクワクする日々を過ごさせてくれた「作品」に対する、感謝の気持ちがとめどなく溢れ続けた。

 

 冒頭、「降ってきやがったな」という兵庫のきっかけ出しから、おそらくはメインテーマ的な劇伴が流れ始めただけで、もうグッと来てしまって泣いていた。沙霧と荒武者隊が、わちゃわちゃと走っているだけで楽しい。少し遅れてついて行く捨之介の横顔がとても穏やかで、そして心なしかこれからなにかが始まりそうな予感にも満ちていた。

 蘭兵衛の初登場時、沙霧はウメガイを構え、突如現れた男を小動物のように警戒する。捨之介も同じく沙霧を庇うように右手を上げているが、途中、髑髏党を滑らかに斬り倒す男が「誰か」判ると、ふわりと笑って沙霧に武器を納めさせる。その動きだけで、かつての朋友にまた生きて出会えた捨之介の、隠しようのない嬉しさがこちらにまで伝わって来た。

 おそらく5月下旬頃から小栗捨之介さんが始めた、無界屋の面々に紛れて「おかえりなさいましぇ〜」と蘭兵衛に向かってふざけるところも健在で、ちょっと嬉しくなった。

 

 「すまんな、太夫」から、無界屋を眺め、そして振り返ることなく走り去る山本蘭兵衛さんの表情がくっきり観えたことも印象的だった。そしてそのシーンで初めて泣いた。その前の「兵庫!」と叱責する場面も、無界屋蘭兵衛というひとがあの土地で過ごした時間がひしひしと感じられて、だいすきだった。語られない余白を想像する自由を与えてくれる脚本と、演出と、お芝居があったからこそ、ここまで自分は夢中になれたのだと思う。

 「見事な満月だ」、「いい月夜ですなあ」。この二つの台詞が、もしかすると二人の共犯関係を早々に明かしていたのではないか、と気がついたのは千秋楽が終わってからだった。時系列的に、同じ月の日であってもおかしくはない。花天魔王と花蘭丸の関係性は、一度自分の中では受け取り方に決着がついたから、あとは映像になるまで待とうと思っている。

 ラスト3公演、カーテンコールで天を見つめる成河天魔王さまの口もとには、間違いなく満足げな笑みがうっすらと浮かんでいた。その真意はなにかのインタビューで明かされたらと願うばかりだが、わたしとしては、からっぽの仮面の下の「人」が、終にはひとになったのだと信じたい。それこそ「からっぽの仮面か。確かにこれが天魔王かもしれん」。彼もまた、亡霊に魅入られたひとりだったと思いたくなる、切なくて優しい笑みだった。

 

 捨之介が、本当にぎりぎりまで死にたそうな顔をしていたのも記憶に残っている。縄を解かれてもなお、彼はじっと地面を見つめていた。だが家康の静かな決意と、三五の相変わらずなたくましさ、そして兵庫と太夫、兄さの眩しさを受けてやっと、捨之介は面を上げる。まるで朝焼けが眼に滲みるかのように天を仰いで、沙霧に笑顔で飄々と笑い返すのだ。「柄じゃねえよ!!」。まさに彼らしいと観客が思ってしまう、一言を置き土産にして。

 

 正直、『髑髏城の七人』という作品は、夕方から観た時のほうがわたしはすきだった。

 宵闇が迫る時間帯から劇場へ入って、できる限りの拍手をして、少し古風な豆電球風の照明に照らされた劇場を後にするのがだいすきだった。いい舞台を生で観たなあ、そんな感慨を抱きながら、暗い道をすたすた歩いて、地下鉄に乗る。無機質な電車に揺られながら、醒めてしまわないうちに興奮混じりの独り言をスマホに叩き込むのがすきだった。

 けれどもし、前楽と千秋楽の2日間、劇場を取り囲む空気が夜だったなら、いたたまれない気持ちになったのではないだろうか。劇場を出れば傾きかけたあたたかな太陽が雲の隙間にあって、劇場はまだ電球以外の光にもちゃんと照らされている。そんな状態が、「終わりじゃないよ」と言ってくれているようで嬉しかった。もう取り壊しが決まっているらしいあの奇妙な劇場が、また来てね、と言わんばかりに無意味に電球を光らせている。そんな終わり方のほうが、Season花という作品には、相応わしい景色のように思えた。

 

ありがとう『髑髏城の七人』Season花!!

 劇場は、そこにあるのが当たり前な印象を抱きやすい場所のひとつだ。帝国劇場など、歴史ある劇場を訪れた際には特にそう感じる。壁一枚隔てた向こう側で限られた観客へ限られた非日常を提供しながら、日常に溶け込む場所。劇場に通うようになってから3年が経ち、それなりにお気に入りの劇場、というものができ始めた(天王洲銀河劇場と、世田谷パブリックシアターが「場」としてすき)。

 

 IHIステージアラウンド東京で今日千秋楽を迎えた『髑髏城の七人』Season花。そもそもの作品自体に自分がどれだけズブズブにハマってしまったかは、自分が一番わかっている。

 9度、ステージアラウンド東京を訪れた。もうすでに2020年までで取り壊しが決まっている、まるで髑髏城のようなあの劇場。単純に、わたしはあの劇場の心意気は粋だと思う。世界にひとつしかないものを日本へ持ち込んだ資本側の勇気と、1年を背負った劇団☆新感線さんにはやはり拍手をおくりたい。

 とはいえ今回はまず、あの特殊な劇場での座席位置がもたらす変化について書きたい。同じ座席に2回座る、という面白体験を3回したから、そこも含めて自分への備忘録も兼ねて。座席位置とそこからの景色を、なるだけ話の内容をフラットにして考えたいと思う。

 

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04/14 6列下手

04/26 2列センブロ

05/05 3列上手

05/15 14列センブロ

05/27 5列センブロ

06/04 3列上手(5/5と同じ席)

06/10 6列下手(4/14と同じ席)

06/11 2列下手

06/12 2列下手(6/11と同じ席)

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04/14 6列下手

前が通路の席が来て、単純にラッキー!!と思った。だがしかし、最前列と舞台の間にはまあまあ高い塀のようなものがぐるりと取り囲んでおり、脚元はもちろん、座り込んだ演技は一切観えない。だが視界は良好だし、初見時はここをオススメする。

 

04/26 2列センブロ

楽しいに決まってるよ、当たり前だよ!!前に男性が座られたので視界は遮られた部分があるが、まあそこは、それこそ回るのでだいじょうぶ!!2回目でこの位置が来てなければ、わたしはこんなにハマらなかった……あの時悪魔に魅入られたんだ……

 

05/5 3列上手

回転時、今までで一番重力を感じた。ふと中学数学を思い出し、円心と円周の距離とか、そういうのを考えてみたけどやめた。どうやら円の外側にいるほうが回る抵抗を体感するようだ。回転系の動きが苦手な人は、中心近くに座ると良いかもしれない。

 

05/15 14列センブロ

傾斜少ない。舞台の奥で芝居をしてくれている時は良いが、あとは確実に前の人の頭が視界に入る。とにかく前に座高が高い人が来ませんように、前のめりと首が座ってない人が来ませんようにと祈る。劇場妖怪に勝つにはもう運しかない。けれど拍手や、客席からの笑い声は前方席より良く聞こえて、それらに包まれているようで楽しい。

 

05/27 5列センブロ

演出意図は一番理解できる気がする。視界は1〜4列の座席に遮られるが、ここの位置から観たスモークの美しさと雨は忘れられない。ここはこう「魅せて」るのね!!となんだか演出家さんと対話している気分になれた。複数回観て、全体のおさらいをしたい時はここからの景色が多分オススメ。

 

06/04 3列上手(5/5と同じ席)

前列は本当に寒いので、夏場は特に注意だ。3日間ステージアラウンドに通った今、まさに喉が痛いです。ブランケットは貸し出ししているが、今日はなくなったと耳にしたので次回以降は確実に持参する。回るだけで風が超冷たい。とはいえ演者さんのためだから、こちらが防寒すれば済むことだ。

 

06/10 6列下手(4/14と同じ席)

自分の初回と同じ席、ということでなんだか運命感じてしまったラストソワレ。まさか翌日と翌々日も同じ座席とは思ってなかったね。やはり観やすいし、ここまで来ると脳内で360度カメラが回り始めるから、もう記憶が下手の概念を失っている。今思えば、前方列よりは見切れが少なかった。

 

06/11 2列下手

近い〜ハッピ〜嬉ピ〜と言っていられないのがこの席。泣いたよ。そりゃ泣いたよ、前楽でさ。でもさ、贋鉄斎さんの水車観えない。天魔王さまの地球儀観えない。無界屋襲撃で、蘭丸がしゃがみこんだら柱で観えない。蘭兵衛さんの屍体が観えない!!

けれどラストは信じられないくらい「生きるよ!!あの子たちのぶんまでね!!」という気持ちになれる席だった。家康さまにも、兵庫にも太夫にも惚れた。沙霧ちゃんはなんであんなにカワイイんだ。兄さ、褒美の金のうち、小さい袋しか持って行かないところが性格を現していて美しい。

 

06/12 2列下手(6/11と同じ席)

千秋楽は今までの総浚いのような。視界が開けた状態で、ラストの大回しに拍手ができたことがなにより嬉しかった。あと下手前方席は、見返り蘭兵衛さんと目が合った錯覚を感じられるから実質タダでした。

 

 千秋楽を観終えて、なんだか過充電されたバッテリーのような心持ちがする。85公演のうち9回。プロの、プロによる、最高のエンターテイメントを観た。多分もう引き返せないし、引き返す気もない。このドクロイヤーを生きて生きて生き抜こう。本気って、これだけ魅力的なのか。大人になるって良いな、生きてて良かったなあ。そんな漠然としたことを考えた。

 良いエンタメとはなんだろう。きっとこの答えは、誰にもわからないし、誰にでもわかるのだろう。どうとも形容できないし、どうとも形容できる、でも強いていうなら、心臓のあたりがちょっとだけ浮く感じ。『髑髏城の七人』Season花に夢中になった初夏の日々は、ずっとそんな状態で過ごせた。本当に本当に、この作品を届けてくれた方々に、大感謝だ。

 もうすぐSeason鳥が始まって、次はSeason風、Season月。でも今は少しというかかなりというか夢見酒を煽りたいほどには、寂しい。

 『髑髏城の七人』Season花、だいすきだ!!ありがとう!!

 

『髑髏城の七人』Season花_2017/06/10夜

※ネタバレあり

※台詞は後で戯曲本をもとに修正する予定です

 

 幸運なことに2日連続で観劇した。実は今日の千秋楽も観劇する。本当は迷ったのだが、「自分のすべきことは自分が一番わかっている」という心持ちでチケットを増やした。

 

 さて10日の観劇。かなり泣いてしまった。最後の花ソワレ。天魔王を庇い、蘭兵衛もとい蘭丸は死ぬ。「愚かな奴め」、天魔王はそんな憎まれ口を叩くのだが、その言い方が、形容し難い哀しみに満ちていて、弱々しくて、まるで迷子になって泣いている子供のようだった。今まで誰も信じなかった男が、誰かを信じた男に護られた哀しさ。天魔王は無理やり高く嗤って–というか泣き笑いしたように観えた–髑髏城の奥へと逃げ込む。今にも倒れてしまいそうで、もうなにもしなくったって、彼はそのまま死ぬんじゃないかと感じた。

 

 今の自分の解釈としては、花捨之介は死にたがりの主人公、花蘭兵衛も死にたがりの二枚目、花天魔王はからっぽの命、という印象がある(みんなお姿が二枚目なのは当たり前で、役柄が二枚目だから悔しいくらい格好良いのよ蘭兵衛さん)。けれど天魔王のそもそもの衝動が、正直なところよくわからないのだ。

 天魔王の仮面の扱い方からしても、信長に蘭兵衛ほどの思い入れがあるようには観えず、がらんどうの暗闇、それこそ「からっぽの仮面」という形容が正しい。つまるところ本当に天魔王は「待っていた」のではないか。もし蘭兵衛が天魔王の誘いに乗らなければ、それまで。もし秀吉軍が大挙して攻めてくれば、それまで。英国が約束を破っても、それまで。

 

 だが彼のその虚ろな望みを蘭丸だけは信じる。そしてあろうことか命を救い、天魔王の生に意味を持たせてしまう。なぜか散逸的で、虚無的な印象を受ける彼に、信長と同じ意味を与えてしまうのだ。なのに意味を与えてくれたひとはもうそこにいない。きっと蘭丸に意味を与えてくれたのが信長で、蘭兵衛に意味を持たせたのが無界屋で、捨之介に意味を探させるのが沙霧なら、天魔王に意味を教えたのは蘭丸だ。蘭兵衛は意味を捨て、蘭丸は意味を再燃させ、捨之介は意味を求める。天魔王だけが、自分の手でそれを滅茶苦茶にする。だから泣いているように観える解釈を成河さんが示してくれた時から、天魔王が憐れで、そして哀しい存在と思うようになった。

 逆に蘭兵衛というひとは、つまるところしあわせだったのだろう。なぜなら最後の最期に、意味を取り戻すからだ。劇中で描かれるわけではないが、前日譚として、彼が早々に蘭丸として自分の運命を自覚して、そしてそれが自らを裏切った時でさえ、彼にはちゃんと次の意味が与えられたのだろうという描写はある。からっぽになる瞬間が彼にはなく、かつ選ぶ権利までもが与えられ続けていた。

 「来い、太夫!」蘭兵衛さんは信じられないくらい優しい声でそう言うけれど、わたしとしては許せない。極楽太夫が斃れたその身体をさらに殴ったって、もっとやっちまえ!!と思っている。だってあんまりだ。いろんなひとに意味を与えてやっておきながら、自分だけがすきなほうを選び、すきな時に勝手に退場してしまうなんて。ラストの大回しで彼岸花の中に超美しく佇んでいたって、だまされねえぞ!!でも、だからこそ太夫がその亡骸に泣きついた時、涙が止まらなかった。

 

 きっと、意味を与えてくれたひととの別れはああであるべきなのだろう。なぜ意味を与えてくれたかを理解し、それと決別か享受するかを選ぶ必要がある。太夫が兵庫を受け容れたように。蘭丸と天魔王の別れ方は、はっきり言って最悪だ。名付け親が誕生を祝福するでもなく、いなくなってしまうのだから。

 ラストの360度回転演出の際、初めて天魔王の口元に、うっすらと笑みが浮かんでいるのが観えた。今でもあれを思い出すと鼻の奥がツンとする。偉大過ぎる天を仰ぎ、それを支える振りをしながらもからっぽで、やっと他人の中にも己を見出したひと。きっと天には、彼を待つひとがいるのだろうと思った。

 

『髑髏城の七人』Season花_2017/06/4昼

 これまでに6回、『髑髏城の七人』Season花を観た。自分の感想を読み返してみると、それぞれの回で心動かされた登場人物が違っていたようで面白い。初回は無界屋蘭兵衛。2度目は蘭兵衛と極楽太夫。3度目は捨之介と蘭兵衛。4度目は捨之介と沙霧。5度目は天魔王。そして今回は、完全に兵庫だった。

 今までの髑髏城、幾度となく胸がいっぱいになることはあった。3時間強の上演中、切なくて、激アツなシーンは数限りなくある。だが不思議と泣くことはなかった。

 しかし今回。ラストに兵庫が極楽太夫の手を取って懸命に言う台詞、「これを使え。使い切るまで死ぬな。そうすりゃ、そのうち気も変わる。死のうなんて気持ちはどっかにいくよ(戯曲本より抜粋)」すべてが終わって、無界屋蘭兵衛と、仲間の遊女たちの死に改めて直面し、今にも折れてしまいそうだった太夫。彼女をしかと受け止めて、護ろうとする兵庫の強さに、思わず涙腺が緩んでしまった。

 序盤、捨之介は太夫に見事にあしらわれてしまっている兵庫に対して、「お前には荷が重い」と言い切る。それが最後、「重い荷物を見事に支えやがったな。たいしたもんだよ」と感心する。捨之介や蘭兵衛、天魔王が過去と闘っているのに対し、兵庫だけはずっと「今」を生きている。そして誰よりも早く未来へ片足を踏み入れ、そこから脱落しかけた者の手まで引っ張り上げてみせるのだ。

 

 捨之介や兵庫らの印象がどんどん力強くなる一方で、天魔王と蘭丸に関しての印象は、次第に哀しみで滲んでいくような感じがする。今回は上手側にいたため、襲撃のシーンで、徳川勢にその残虐性を剥き出しにする天魔王と蘭丸がよく観えた(というか上手前方に座っていると、こっちに向かって非常に非情な二人がにやにやしながら台詞を放って来るので、「家康さま〜〜〜助けてくんろ〜〜〜」という気持ちになる)。

 「無界屋蘭兵衛」として生きていたよりも、「蘭丸」として生きているほうが余程楽しそうな信長の腹心。返り血をぺろぺろ舐める人の男。以前はそれがとても恐ろしく観えたのだが最近は、それがどうしてか哀しく観える。

 彼らは間違いなく歴史に取り残されたものたちで、生き残って「しまった」側の人間たちだ。3人のうち、捨之介だけが沙霧という存在を護ろうとし、未来への足掛かりを得る。だが天魔王と蘭丸にはそれがなかったし、敢えてそれを避けた印象すら抱くようになった。

 

 歴史の河の中洲に取り残されたものの哀しさは、徐々にせり上がって来る水音を、観客だけが知っている点にある。しかし天魔王も蘭丸も、心のどこかで気が付いているのではないか。なぜなら蘭丸はクドキのシーンで、夢見酒を盛大に吐き出していながら、杯を傾け続ける。対して捨之介は夢見酒を飲まされながらも、沙霧はじめ仲間の手助けもあるとはいえ、自らの意志で髑髏城を抜け出す。

 そもそも蘭兵衛が飲み続けた液体は「夢見酒」と断言されていないあたりも引っかかっている。これは完全に考え過ぎだろうが、若の時には捨之介が「薬を入れやがったな」と言うが、今回その描写はなくなっているのだ。果たして花蘭兵衛が服んだのは、酒か血か、それとも過去の残り香か。

 

 捨之介と蘭兵衛、そして天魔王。この三角形に兵庫という男が加わっただけで、急に物語は四角以上に多面的になるような気がする。

 それは髑髏城を知らなかったあの日、束の中に見つけた豪華なフライヤー。『髑髏城の七人』というわりには、人数が合っていないじゃないか、そんな風に思ったことを覚えている。あの時はまさか、天魔王と蘭兵衛がその七人には含まれていないなんて想像もしなかった。タイトルが指す七人は、「てめえが雑魚だと思ってる連中」であり、間違いなく、降りしきる雨の中、それが止む時を信じて生きるものたちだ。「今一番武士らしい武士かもしれんなあ」そんな風に形容されながら。

 

『髑髏城の七人』Season花_2017/05/27夜

 成河天魔王さま最高!!今回の感想はこの一言に尽きる。途中まで、驚くほど感情豊かで自由になった捨之介に夢中だったが、あのシーンを観てしまってからは、もう天魔王さまの表情が忘れられなくなった。成河さんのその解釈だいすき、もうずっと観ていたい、そうか、そうだったのか……と震えている。

 

 再演を繰り返すことの醍醐味のひとつは、様々な演者さんの多様な解釈を目の当たりにできる点にある。しかもロングラン公演。演技の内容が変わり、演出が深化するのは当たり前のことだ。映像によって切り取られる一瞬もまた代え難いものではあるが、着実に時間によって物事が移り変わるエンターテイメント性こそ、生の舞台ならではの魅力だろう。

 

 物語の終盤、天魔王は腹心の部下までも斬り捨て、蘭兵衛もとい蘭丸を殺し、すべての咎を捨之介に着せて逃げようと画策する。天魔王が蘭丸に深々と刃を突き立て終わったまさにその瞬間。ついに捨之介たちは髑髏城を登り詰め、天魔王と対峙する。極楽太夫は必殺の銃弾を浴びせかけようとするが。天魔王が殺したはずの蘭丸は最期の力を振り絞ってゆらりと立ち上がり、天魔王の盾となり死ぬ。

 つい先日まで、自らを庇った蘭丸の生き様に対する天魔王は、ある種せせら嗤うかのような、そんな非道さが感じられた。だが今回、目の前で崩れ落ちる蘭丸に対して嗤い声を上げこそすれ、どうしても拭いきれない天魔王の哀しみが観えた。泣き笑い、そんな表情だ。

 

 97年・赤・青・若と、『髑髏城の七人』では「捨之介と天魔王、そして信長公は同じ顔」という途轍もない設定は微妙に変化し続けている。花髑髏においてはその設定は失われ、この間まではそれをとても残念に思っていた。だがあの泣き笑いを観てしまってからは、別の意図を感じる。同じ顔でないからこそ、天魔王と蘭丸という共犯関係が、憐れで代え難いものになっているように思う。

 絶対的な「天」を喪った三人に遺された道は、「今度こそ間に合わせる」か「秀吉への怒り」、その二択だけだと思っていた。だが果たして蘭兵衛というひとは、あくまで再び夢に酔っただけなのか。わたしが一昨日みた彼は、酔うというよりは極めて醒めて観えた。

 あのクドキのシーン、酩酊し、過去に引き摺り込まれる「蘭兵衛」もそれはそれで良い。自分にとって唯一無二のひとと同じ顔で迫られたら、当然抗うのは無理だよな、と。けれど花において、天魔王が信長公と似ているような描写は一切ない。だから余計に切ない。

 花蘭兵衛は選んでいる。取り残された三人のうち、一番の年長者として、自分の道を選んでいる。一人の弟はなにもかも捨て、もう一人が天を再び見据えた時、彼は天魔王を選んでいる。それはかつて彼が信長公を選んだように。天魔王は誰一人として信じていなかった、きっとあの一瞬までは。たった一人の共犯者を得ていたことに彼は薄っすら気が付いていながら、結局は滅茶苦茶にしてしまう。

 あの泣き笑いには、もしもを感じさせる哀しみがある。もしも自分が最後まで蘭丸を信じていたら。もしも当初の計画通りにことが進んでいたら。もしも捨之介にほんものの鎧を着せていたら。もしも、もしも、もしも。

 これまでの天魔王は、それこそ「人」であって人ではなかった気がする。信長公の亡霊であり憑代、蘭兵衛を殺し、蘭丸として甦らせる怨霊。だが蘭丸の死に一瞬でも狼狽える天魔王は、紛れもなく生きていた。そこに意志がある、仮面の下にある別の顔が観えた。

 

 結局、自分の感想はなにもかもが推測と憶測でしかない。学生時代に古文を読み解かされた際、そんなことまで考えたのかな、作者は適当に書いただけじゃないの、と常々思っていた。だがそういう意図であったらなあ、という余白があればあるだけ、受け手はそれを選んで想像し、楽しむのだろう。きっと100年後であっても、わたしと同じく『髑髏城の七人』に夢中になるひとがいるように。

 

ちゃんとしたコーヒーは冷めても美味しいし

 舞台の感想をこうしてブログに綴るようになって、もうすぐ5ヶ月が経つ。趣味のひとつが観劇になってから数年、もっと早くからこうしてきちんと言葉にしておくべきだったと思う。実生活でも、モレスキンの日記帳を買って自分にプレッシャーをかけたのが良かったのか、飛ばし飛ばしではあるが日記が続いている。これまでまるで日記が続かない人生だったから、自分に驚きつつも続けている。

 当初、感想は400字以内におさめようと思った。原稿用紙一枚分。学生時代から原稿用紙にぴったりおさまる文章を書くのがすきだった。ちょっと気持ち悪い性分だが、わたしはファンレターもワードの原稿用紙ウィザードで書いてから手書きで清書している。「書く」のではなく、頭の中の言葉を吐き出すように「打つ」文章は、知らず知らずのうちに長くなりがちだ。それをいざ手紙に書き起こせば、とんでもない枚数の手紙になったりもして、自分にドン引いたこともあった。

 

 さて2月。『ALTAR BOYZ』に出会い、推しが増えた。というより『Club SLAZY』の1作目を映像で観て以来、推したくて推したくてたまらなかった俳優さんが、どうしようもないくらい最高の作品に出て、どうしようもないくらいカッコ良かった。しかも前々から応援していた俳優さんも、チームは違えどその作品に出演していて、もう自分史上最高の2月だった。

 当時のブログ、なんとか400字以内にまとめようとしていたが結局はあきらめた。だって大山真志さんのマシューは信じられないくらいハートフルであったかくてエネルギッシュで、良知真次さんのアブラハムは嘘でしょ、というくらい生真面目で一本気で一生懸命だった。そのおふたりが今のわたしにとって「推し」なわけだが、『ALTAR BOYZ』に関してはもう「箱推し」、スタッフ・キャストさん含め全部をまるっと推している。推していない部分は映像化してくれない点くらい。版権元の意向でもあるらしいから、これは余談だ。

 

 3月。『さよならソルシエ』再演。正直初演はあまり響かなかった。それが再演になって、なにがそこまで心に響いたのかはわからない。けれどとにかく感動が波のように押し寄せて、泣くのを忘れるくらい心が震えた。

 初演はもちろん主人公のひとりであるフィンセント・ファン・ゴッホが亡くなるシーンで泣いたが、今回は結末を知っている。最後はまた泣かされるんだろうな、そんな漠然とした思いを抱きながら着席した。幕があいたM1、フィンセントを演じる平野良さんの歌声があまりにも透明に響いて、昨年観たそれとはまったくの別物だった。兄弟の歌声は会場を吹き抜けるように響いて、無機質に思えたテオドルスというキャラクターが、とても不器用で愛すべき人間に思えた。終盤、現代の美術館に飾られたゴッホの絵を見上げて平野さんが「へえ」と微笑むシーン、この物語を果たしてハッピーエンドと呼べるかはわからないが、間違いなく観て良かったと思えた。

 

 4月。『髑髏城の七人』Season 花。日本初の360度シアターこけら落とし公演を観ずに、なにが趣味は観劇♡じゃ、と当日券で挑んだのが間違いだった。そもそも回転する時点で楽しいのは当たり前で(ディズニーランドのダンボに乗りながら舞台を観られるのだから楽しくて当たり前)、あの浮遊感には妙な中毒性がある。初めての劇団☆新感線作品、王道中の王道エンターテイメントは狂おしいほどに切なく、気が遠くなるほど豪華で面白い。観劇から1ヶ月、我慢が効かずにこれまでの『髑髏城の七人』で映像化されているものは、すべて購入してしまった。観劇の神様は笑っているだろうが、お財布の神様は泣いている。

 とはいえ1年に渡るロングラン公演の目撃者になれた奇跡には、感謝しかない。とにかく山本蘭兵衛さんを観てくれ。自分でもブログを読み返すと徐々にズブズブと夢中になっている過程がわかって、こんなはずじゃなかったと思いつつも後悔はまったくしていない。

 

 昨年、だいすきだった作品も一区切りを迎え、少し走りきったような気分になっていた。何事も3年続けば人生において特別な意味を持ち始めるが、わたしにとっての観劇という行為は、もう熱くて触れられないものではなくなっている。少なくとも去年末は、識り過ぎたと思っていた。夢から醒めた感覚に近い。

 観劇は惰性では続けられない。お金も時間も要るし、自分が費やしたエネルギーは自分が一番覚えている。だからこそ恐ろしかった。数時間、数年後の自分が振り返った時、この行為を徒労と思うのではないか。少し大人になったふりをして、深呼吸して距離を置こうかなとさえ考えた。けれどやっぱり、楽しい。

 立ち上がれば触れられるほどの距離に演者さんがいて、毎日同じようで同じ瞬間が一秒とてない世界。それに浸る数時間は、わたしにとってやっぱり特別で離れがたい。きっと、ずっと燃え続けいたら燃え尽きてしまっただろう。最近になってやっと、観劇という趣味が身体の臓器の一部になった気がする。わざわざ命じなくても処理対象を判断して(時々食べ過ぎることはあれど)、きちんと自分のエネルギーへ変えてくれている実感がある。なにより年明けから、素晴らしい作品の数々に出会えたことが大きい。たまたま興味本位で食べたものが、メチャクチャ美味しかった、そういう奇跡がずっと続いている。

 知ってしまったことは忘れたくても忘れることはできないから、知ったら知っただけ賢くなるしかないのかもしれない。最前列から観える景色はやっぱり他と比べれば別格で、中日より千秋楽のほうが拍手はあたたかく聞こえる気はする。けれど舞台という生物の表現において、一瞬たりとて同じ瞬間はない。だから自分が観た瞬間は二度と訪れない。去年までは火傷しながら飲み込むように舞台を観ていた。今年からは、目の前に素晴らしいものが溢れ過ぎていて困るくらいだけれど、ゆっくり咀嚼して、自分の糧にしていきたい。

ミュージカル『レ・ミゼラブル』プレビュー公演_2017/5/22夜

 想像以上に舞台上は暗い。だがそこに灯される本物の松明や蝋燭の光は、まるで当時のパリを再現するかのようにくっきりと観えた。全編を通して聴くことができるフルオーケストラの演奏も圧巻で、流れるようなメロディと音のボリューム感は生演奏ならではだ。

 一番印象的だったのはジャベールの最期のシーン。本当に橋の欄干から、轟々と落ちる水底へ落ちていくようだった。舞台構造を逆転の発想で捉えていて、そうするのか!と驚かされるから、ぜひあれは劇場で観るべきシーンの一つだと思う。結構ぞっとしてしまう。

 コンビニでチケットを発券した際に、店員さんが、「『レ・ミゼラブル』、良いねえ。一度は観てみたいと思ってるんだ」と言いながら手渡してくれた。わたしは微笑み返すしかできなかったが、つまりはそういうものなのだろう。30年の歴史を持ち、帝国劇場で繰り返し演じられる演目とはつまり、それだけ観たくても観られない人がいるということだ。

帝国劇場 ミュージカル『レ・ミゼラブル』