『髑髏城の七人』Season花_2017/05/15夜

 ライブビューイング当日の劇場は、どうなっているのだろう。それは自分への建前として、ステージアラウンド東京を訪れるのも4回目になった。あと何回来られるか。

 前方1〜4列の中央列はすべてカメラのために空席で、5列センターにもカメラ。すぐ後ろに座った人からの視界はだいじょうぶだったのかなとは思ったが、とても贅沢な撮影方法だった。わたしが慣れ親しんだ2.5次元の舞台世界では見たことのない光景だった。カメラは特等席に座らされていた。後方中央、両サイドにも全体用のカメラ。これは映像化を期待せざるを得ない。演者さんの音声のほうは心なしか高めに聞こえたような気がして、もしみんなで演じ分けをしていたなら凄い。劇伴と効果音も、若干大きめだった気がする。

 

 内容的な変更はなかったが、二幕の最初、蘭兵衛さんが髑髏城をゆっくりと進む場面が省略されていたように思う。これは少し現地の休憩が押したからだろうか。ラストのカーテンコール、かなり熱烈な拍手だったが、強制的にSeason風のキャスト発表になってしまって残念だった。やはりライブビューイングは一長一短、劇場の客席が取り残されるような感じはどうしたって拭いきれないらしい。

 とはいえライブビューイングの映像クオリティはかなり納得のものだったらしく、Twitter等でいろいろな方の感想を観ているとわくわくする。ゲキシネという、単純な映像収録でない舞台映画には本当に驚かされているが、これ以上楽しみを増やさないで欲しい。少しだけ、現地より映画館にいたほうが良かったのかな、などと思ったり思わなかったりした。

 

 今回初めて10列より後方で観劇したが、ステージアラウンド東京は、もっと座席位置によって料金体系を見直すべきだろう。前に身体が大きめの人が座ると、ほとんど観えない。今回は前の方が比較的小柄で助かったが、それでも観えない部分が絶対的に存在する。たとえ米粒のような大きさでも、全体が観えることと、なにをどうしようが見切れる部分があるのは似ているようで全然違う。現状の大雑把な料金設定は間違っているし、適切な価格が観え方の不公平感を少しでも肯定できれば、それぞれの満足度も上がるはずだ。

 

 さて本編。どうしてこんなにも切ないのだろう。回を重ねる度、その切なさは増している。カーテンコールが近付くことがいやでいやでたまらなくなる。おそらくこれが「感情移入」という代物なのだろうが、Season花のキャラクターたちとは別れ難く、そして予定しているだけでこういう別れは4回あることになる。一年間、一つの作品を観続けられるなんて経験をしたことはないから、もう恐ろしくて、それこそ知らなければ良かったとすら思ってしまう(お金もなくならないし……)。

 無界の里を見渡し、実際、とつぶやく捨之介の淋しげだが感慨深い笑み。蘭兵衛さんがある決意を胸に、巡る風景に背を向ける時。天魔王が自らを庇う存在に一瞬、本当に僅かに狼狽える瞬間。胸がいっぱいになる、としか言いようがなく、王道中の王道とも言える展開に涙は出ないまでも、酸素がたくさん詰まった血液が脳内を駆け巡るような、「ああ、エンターテイメントだなあ!!」と叫んでしまいたくなるような美しさと快感がある。

 

 それにしても小栗捨之介は、観る度に格好良くなっていて、千秋楽あたりは格好良さで死人が出るのではないか。殺陣はより鋭く、飄々とした物言いはリズミカルで、すらりと立つ姿が清々しいのに過去が彼に覆い被さっていることが観て取れる。初見時は終盤に疲れが観えたが、さらに疲れているはずの今回は階段すら流れるように駆け降りるし、乱闘の場面でも沙霧をちょいちょい庇いながら闘っていた。視野がとにかく広く、全員を繋げるように演じているのがなんとも小気味好い。ちなみに友人の隣で観ていた方は、捨之介が出て来る度にうっとりと祈るように指を組んでいたというから、罪な男にもほどがある。

 

 最早うわごとのようにTwitterやブログに書き綴っている、山本耕史さん演じられる無界屋蘭兵衛さん。何度観ても新たな発見があり、何度観てももう一度観たいと思ってしまう。

 自分でも蘭兵衛さんのどこが響いたのかわからないが、ものすごくすきなキャラクターの一人になった。小説『髑髏城の七人』では、蘭兵衛という男はとあるものを預かり、大切にしている。その描写が切なくて、またそれを脳内でどう再生しようが誰にも咎められることはないから、わたしはいつも花蘭兵衛さんにご登場頂いている。あのくだりはなかなか舞台では描き辛いが、「無界屋蘭兵衛」というキャラクターを実に端的にあらわす小説オリジナルの演出だ。小説に関しては、同じ蘭兵衛さんファンと読書感想文を交換したい。

 きっと彼は、一度壊れてしまった人間だ。それを金継ぎのように太夫たちがなんとか繋ぎとめていて、蘭兵衛さん自体もそれを善しとしていた。だが過去はそれをじくじくと蝕み、ついには破壊する。二幕、残酷に嗤う彼が、これまで観た中で一番強く嗤っていて、納得できない作品を叩き割った人間のような印象を抱いた。一度ばらばらになった己の欠片を、一つずつ丁寧に集めてしまっていたのに。生まれ直したそれは、また違う輝きを放っていたが、彼は廻る時に抗い過去に戻る。全体を観よう観ようとしていたのに、結局は蘭兵衛さんばかり観てしまった。反省はしているが後悔はしていない。だってそれくらい、山本蘭兵衛さんには震えるような華がある。

 

 三すくみ。そんな関係は観ていてとても面白い。花捨之介がチョキで、花蘭兵衛はグー、花天魔王がパー。わたしにはそんな風に思えるのだが、きっとこれは観た人それぞれに解釈があるはずだ。そしてどの解釈であっても、万雷の拍手をおくりたくなるのはどうしてか。切なくなるほどのエンターテイメント。

 関東の片隅で、史実に少しだけ金継ぎをして描かれる物語は、きっとまだとば口なのだろう。