『髑髏城の七人』Season花_2017/05/27夜

 成河天魔王さま最高!!今回の感想はこの一言に尽きる。途中まで、驚くほど感情豊かで自由になった捨之介に夢中だったが、あのシーンを観てしまってからは、もう天魔王さまの表情が忘れられなくなった。成河さんのその解釈だいすき、もうずっと観ていたい、そうか、そうだったのか……と震えている。

 

 再演を繰り返すことの醍醐味のひとつは、様々な演者さんの多様な解釈を目の当たりにできる点にある。しかもロングラン公演。演技の内容が変わり、演出が深化するのは当たり前のことだ。映像によって切り取られる一瞬もまた代え難いものではあるが、着実に時間によって物事が移り変わるエンターテイメント性こそ、生の舞台ならではの魅力だろう。

 

 物語の終盤、天魔王は腹心の部下までも斬り捨て、蘭兵衛もとい蘭丸を殺し、すべての咎を捨之介に着せて逃げようと画策する。天魔王が蘭丸に深々と刃を突き立て終わったまさにその瞬間。ついに捨之介たちは髑髏城を登り詰め、天魔王と対峙する。極楽太夫は必殺の銃弾を浴びせかけようとするが。天魔王が殺したはずの蘭丸は最期の力を振り絞ってゆらりと立ち上がり、天魔王の盾となり死ぬ。

 つい先日まで、自らを庇った蘭丸の生き様に対する天魔王は、ある種せせら嗤うかのような、そんな非道さが感じられた。だが今回、目の前で崩れ落ちる蘭丸に対して嗤い声を上げこそすれ、どうしても拭いきれない天魔王の哀しみが観えた。泣き笑い、そんな表情だ。

 

 97年・赤・青・若と、『髑髏城の七人』では「捨之介と天魔王、そして信長公は同じ顔」という途轍もない設定は微妙に変化し続けている。花髑髏においてはその設定は失われ、この間まではそれをとても残念に思っていた。だがあの泣き笑いを観てしまってからは、別の意図を感じる。同じ顔でないからこそ、天魔王と蘭丸という共犯関係が、憐れで代え難いものになっているように思う。

 絶対的な「天」を喪った三人に遺された道は、「今度こそ間に合わせる」か「秀吉への怒り」、その二択だけだと思っていた。だが果たして蘭兵衛というひとは、あくまで再び夢に酔っただけなのか。わたしが一昨日みた彼は、酔うというよりは極めて醒めて観えた。

 あのクドキのシーン、酩酊し、過去に引き摺り込まれる「蘭兵衛」もそれはそれで良い。自分にとって唯一無二のひとと同じ顔で迫られたら、当然抗うのは無理だよな、と。けれど花において、天魔王が信長公と似ているような描写は一切ない。だから余計に切ない。

 花蘭兵衛は選んでいる。取り残された三人のうち、一番の年長者として、自分の道を選んでいる。一人の弟はなにもかも捨て、もう一人が天を再び見据えた時、彼は天魔王を選んでいる。それはかつて彼が信長公を選んだように。天魔王は誰一人として信じていなかった、きっとあの一瞬までは。たった一人の共犯者を得ていたことに彼は薄っすら気が付いていながら、結局は滅茶苦茶にしてしまう。

 あの泣き笑いには、もしもを感じさせる哀しみがある。もしも自分が最後まで蘭丸を信じていたら。もしも当初の計画通りにことが進んでいたら。もしも捨之介にほんものの鎧を着せていたら。もしも、もしも、もしも。

 これまでの天魔王は、それこそ「人」であって人ではなかった気がする。信長公の亡霊であり憑代、蘭兵衛を殺し、蘭丸として甦らせる怨霊。だが蘭丸の死に一瞬でも狼狽える天魔王は、紛れもなく生きていた。そこに意志がある、仮面の下にある別の顔が観えた。

 

 結局、自分の感想はなにもかもが推測と憶測でしかない。学生時代に古文を読み解かされた際、そんなことまで考えたのかな、作者は適当に書いただけじゃないの、と常々思っていた。だがそういう意図であったらなあ、という余白があればあるだけ、受け手はそれを選んで想像し、楽しむのだろう。きっと100年後であっても、わたしと同じく『髑髏城の七人』に夢中になるひとがいるように。