『髑髏城の七人』Season花_2017/06/11前楽

 髑髏城へ通ったこの初夏の日々は、なぜかいつも晴れていた。地下鉄有楽町線豊洲駅、中央改札から地上へ出るとゆりかもめの入口がある。いつもそこは通り過ぎて、大きな車通りからは横にそれた海沿いの道を歩いた。

 

 『髑髏城の七人』Season花の千秋楽から、1週間が経とうとしている。自分の記憶力のなさに泣けてくるが、何度も何度も観て、観る度に心震わせたはずの景色が、少しずつ曖昧になっていくような気がする。曖昧というか、断片的な球のようになっていく。それでもその記憶を呼び戻せば、なんともいえない幸福な気持ちになれるのだから単純だとも思う。

 

 前楽、ただただ祈るような気持ちで観ていた。誰も怪我しませんように、あと1回、このカンパニーが満足できる公演ができますように。意味のわからない観客だと自分でも思う。けれどとにかく自分を魅了して、ワクワクする日々を過ごさせてくれた「作品」に対する、感謝の気持ちがとめどなく溢れ続けた。

 

 冒頭、「降ってきやがったな」という兵庫のきっかけ出しから、おそらくはメインテーマ的な劇伴が流れ始めただけで、もうグッと来てしまって泣いていた。沙霧と荒武者隊が、わちゃわちゃと走っているだけで楽しい。少し遅れてついて行く捨之介の横顔がとても穏やかで、そして心なしかこれからなにかが始まりそうな予感にも満ちていた。

 蘭兵衛の初登場時、沙霧はウメガイを構え、突如現れた男を小動物のように警戒する。捨之介も同じく沙霧を庇うように右手を上げているが、途中、髑髏党を滑らかに斬り倒す男が「誰か」判ると、ふわりと笑って沙霧に武器を納めさせる。その動きだけで、かつての朋友にまた生きて出会えた捨之介の、隠しようのない嬉しさがこちらにまで伝わって来た。

 おそらく5月下旬頃から小栗捨之介さんが始めた、無界屋の面々に紛れて「おかえりなさいましぇ〜」と蘭兵衛に向かってふざけるところも健在で、ちょっと嬉しくなった。

 

 「すまんな、太夫」から、無界屋を眺め、そして振り返ることなく走り去る山本蘭兵衛さんの表情がくっきり観えたことも印象的だった。そしてそのシーンで初めて泣いた。その前の「兵庫!」と叱責する場面も、無界屋蘭兵衛というひとがあの土地で過ごした時間がひしひしと感じられて、だいすきだった。語られない余白を想像する自由を与えてくれる脚本と、演出と、お芝居があったからこそ、ここまで自分は夢中になれたのだと思う。

 「見事な満月だ」、「いい月夜ですなあ」。この二つの台詞が、もしかすると二人の共犯関係を早々に明かしていたのではないか、と気がついたのは千秋楽が終わってからだった。時系列的に、同じ月の日であってもおかしくはない。花天魔王と花蘭丸の関係性は、一度自分の中では受け取り方に決着がついたから、あとは映像になるまで待とうと思っている。

 ラスト3公演、カーテンコールで天を見つめる成河天魔王さまの口もとには、間違いなく満足げな笑みがうっすらと浮かんでいた。その真意はなにかのインタビューで明かされたらと願うばかりだが、わたしとしては、からっぽの仮面の下の「人」が、終にはひとになったのだと信じたい。それこそ「からっぽの仮面か。確かにこれが天魔王かもしれん」。彼もまた、亡霊に魅入られたひとりだったと思いたくなる、切なくて優しい笑みだった。

 

 捨之介が、本当にぎりぎりまで死にたそうな顔をしていたのも記憶に残っている。縄を解かれてもなお、彼はじっと地面を見つめていた。だが家康の静かな決意と、三五の相変わらずなたくましさ、そして兵庫と太夫、兄さの眩しさを受けてやっと、捨之介は面を上げる。まるで朝焼けが眼に滲みるかのように天を仰いで、沙霧に笑顔で飄々と笑い返すのだ。「柄じゃねえよ!!」。まさに彼らしいと観客が思ってしまう、一言を置き土産にして。

 

 正直、『髑髏城の七人』という作品は、夕方から観た時のほうがわたしはすきだった。

 宵闇が迫る時間帯から劇場へ入って、できる限りの拍手をして、少し古風な豆電球風の照明に照らされた劇場を後にするのがだいすきだった。いい舞台を生で観たなあ、そんな感慨を抱きながら、暗い道をすたすた歩いて、地下鉄に乗る。無機質な電車に揺られながら、醒めてしまわないうちに興奮混じりの独り言をスマホに叩き込むのがすきだった。

 けれどもし、前楽と千秋楽の2日間、劇場を取り囲む空気が夜だったなら、いたたまれない気持ちになったのではないだろうか。劇場を出れば傾きかけたあたたかな太陽が雲の隙間にあって、劇場はまだ電球以外の光にもちゃんと照らされている。そんな状態が、「終わりじゃないよ」と言ってくれているようで嬉しかった。もう取り壊しが決まっているらしいあの奇妙な劇場が、また来てね、と言わんばかりに無意味に電球を光らせている。そんな終わり方のほうが、Season花という作品には、相応わしい景色のように思えた。