『髑髏城の七人』Season鳥_2017/07/17昼

 1ヶ月振り10回目の、ステージアラウンド東京。そして初めての『髑髏城の七人』Season鳥。テーマカラーはSeason花とは打って変わってグリーン。だからかなぜか、クールなイメージを抱いていた。だがそこで繰り広げられていたのは激アツで、まるで90年代のアニメ(例えば『ふしぎの海のナディア』)を観ているような。夏の高い空にぴったりの、爽やかで凛としてそして鮮烈な髑髏城だった。

 

 序盤で感動したのはステージの開き方がかなり広くなっていたことで、見切れをかなり軽減してくれた。Season花では、敢えて狭く開けることで同じセットを違う場所だと思わせるシーンがいくつかあったが、端の席であればあるほどどうしてもスクリーンで見切れる部分があって残念だった。無界屋はかなり大きな建物に観える映像演出がされていて、それこそ『千と千尋の神隠し』の湯屋に迷い込んだかのような、ぐるりと囲まれるワクワク感が増していた。これはぜひ劇場で観て欲しい。

 

 鳥どくろを経て、「わたしは花どくろがだいすきだ!!!!」と叫びたくもなった。錆びたような禍々しい満月を背に、高嗤いをする天魔王。どこまでも真っ直ぐ前を向いて懸命に走る沙霧。どかどかとけたたましく登場する元気な兵庫。ふらりと現れて、どこまでも笑顔だがどこか虚ろな捨之介。背負い込んだ「今」に押し潰されそうな蘭兵衛と、生き地獄ですら撥ね退けられそうな極楽太夫。

 お茶目な浪人おじさんかと思いきや、一瞬で天下人たる一面を覗かせる狸穴二郎衛門。兄だからこそ現実を諭しつつも、最終的には弟の背中を押す磯平。沙霧を結局は守る三五には、たくさん妹がいそうな感じがして。そして肉襦袢という反則技の格好で登場しながら、髑髏党にも時の権力者にも決して頭を下げない贋鉄斎(Season鳥では彼の愛車がとあるシーンでひっそりと登場していて嬉しくなった)。挙げればキリがないが、鳥に触れて、花の思い出がまた鮮やかに甦った気がしている。

 

 様々な『髑髏城の七人』を観ると、パラレルワールドや、魂の輪廻的に捉えてしまいそうになる。つまり一つの魂が姿かたちを変え、同じ歴史の瞬間に何度も繰り返し立ち会うのを目撃するような。時間の終着点は否応なしに定まっていて、そしてそれこそが物語の結末で、けれどそこへ向かう方法は何百何万通りもあって。時に捨之介は年齢不詳の金髪着流し、時に白髪で琵琶を持ち、時にすらりと背が高く、時に忍び装束に逆手で闘うのかもしれない。そして天魔王と同じ顔のこともあって、瓢箪を片手にしている時もある。再演とは、一つの魂が持ち得る輪廻的な可能性を示されているような錯覚を抱かせてくれる。

 『髑髏城の七人』のどれか一つを観てしまったら、他も絶対に観たくなるだろう。まるで多角的に磨かれ、どの輝きが一番美しいとは断言できず、ある面から観ることが一番正しいわけでもない宝石の輝きのよう。この作品には不思議で複雑で普遍的な魅力がある。