『髑髏城の七人』Season月(上弦の月)_2018/1/14夜

 先日、実生活で初めて誰かが他人を「駒」と呼ぶ瞬間に立ち会ってしまった。誰かとは、わたしの現職における恩人なのだが、事前に「今日はいらないことも言うからな、ごめんな」とわたしに言い含めた上で、最初から揉めるとわかっていた話し合いを始めた。そして彼は、あいつもおれの駒に過ぎない、と言い切った。天魔王さま以外で本当にこんなことを言う人がいるのか!!と驚いたし、その台詞が自分の恩人の口から放たれたことに、わたしは形容し難い思いを抱き続けている。

 

 捨之介と蘭兵衛と天魔王。結局彼らは信長に対して、まったく異なる人物像を描いていたのではないか。捨之介は心のどこかで、信長が死ぬのも致し方なしと思っている節がある。花・上弦の『髑髏城の七人』を観て、8年前を語る捨之介には、少なくとも郷愁はないように観えた。心酔も尊敬も敬愛もしてはいたが、同時に主人の中に併存した残酷な部分を許せていない。ただそれを断罪することも、逆に肯定することもできないどっちつかずの自分を、自嘲自虐し続けている。一方で信長の残忍さに焦がれたのが天魔王、その残酷さに染まったのが蘭丸かなとも思う。

 物語の登場人物というのは、基本的には極端な存在の場合が多い。つまり「信長」という複雑で、歴史的事実を鑑みるに寛大なのか狭量なのかわからない人物を、捨之介、蘭兵衛、蘭丸、天魔王というレンズを通すことで、わたしたちは単純明快に受け取ることができる。終盤、「そんなものが殿の最期の言葉であるはずがない!!」*1と早乙女天魔王が嘆くように叫ぶその一言は、まさに我々がよく見識った人間の、思いもよらぬ言動に直面した際の落胆と失望と怒りによく似ている。

 

 織田信長。彼が舞台上には一切姿を見せないからこそ、その存在はより登場人物たちに、そして観客である我々に重くのしかかる。上弦の月を見上げれば見上げるほど、思い出すのは眩しそうに天を仰いだ小栗捨之介のこと。なぜ捨之介は死にたがりなのか。それは己自身が自覚も自認もはたまた本人からの赦しもないままに、信長の形見であるということを、あの時点でやっと理解したからではないか。「忘れて生きろ」。それは自らの呪縛がいかに強く、残された者たちの人生を否応なしに縛るかを、知っている人間の言葉だ。

 

 二度目の上弦の月を観て、気付いたことがある。殿の最期の言葉に裏切られた天魔王。だがそれは同時に、彼がもっとも信頼されていた証ではないか。その言葉を伝えるために、彼もまた生きろと言われたと同義ではないのか。蘭丸と天魔王。二人はまるで依怙贔屓された者とされなかった者のように観えるが、その実、なにも遺されなかった捨之介に比べれば、完全に勝者だ。三面鏡の正面に信長公が座れば、一枚は蘭丸、もう一枚には天魔王の横顔があるだろう。そこに捨之介はいない。

 だからこそ、『髑髏城の七人』の主人公は捨之介なのだろう。旧時代を生きた人間が新しい時代の先端に触れ、それを拒むのではなく受け容れるためには、昔のほうが良かったと、懐かしく思う気持ちは必要ない。昔を捨て殿を捨てた蘭兵衛さんもまた、主人公足り得たのだろうけれど。彼は昔に囚われて、旧時代を選んでしまった。その対比もまた、捨之介を主人公たらしめているともいえる。

 無界屋蘭兵衛は捨てられない。森蘭丸を捨てられない。この物語で生き残る者たちは、必ず劇中でなにかから脱却する。わかりやすくいえば、霧丸は復讐の刃を未来へ変える。

 

 今夜は珍しい月夜らしい。「見事な満月だ」「いい月夜ですなあ」あの序盤の二言が、二人の共犯関係を現していたのではと思い至ったのは、花髑髏の千穐楽が終わってからのことだった。信長という存在が、彼らを捉えて離さないように、『髑髏城の七人』は、わたしの心に城を建ててしまった。これからなにを観ても、きっとなにかしら思い出すだろう。夜空の月だけで、思い出すほどなのだから。

 

*1:ちょっとうろ覚え