『メゾン・マグダレーナ』に対して今思うこと

 「思いは言葉に。」というのがはてなブログのキャッチコピーのようであるし、遅ればせながら日本に到達し定着しつつある#MeTooの影響としてではなく、あくまで一個人の所感をいつも通りに書き記しておきたいと思う。

 

 11月18日、株式会社CLIEが運営するTwitterアカウント及びプレスリリースを下敷きにしたであろう演劇系メディア(ステージナタリーげきぴあエンタステージなど)が、CLIE新作として『メゾン・マグダレーナ』が2019年2月に上演されることを発表した。「あの、マリアさんが帰ってくる!」の一言つきで作品のフォントデザインも前作同様の、まさに「帰ってくる!」という状態での発表だった。

 正直に言えば、第一報を目にした時の自分は「帰ってくるんだ!(観に行くのは)どうしようかな」という気持ちだった。『マグダラなマリア』シリーズは前職の職場の先輩からDVDを借りて知った。当時はマリア・マグダレーナ役の湯澤幸一郎氏が逮捕されたことは知らず、けれど今でも自宅に過去作の円盤がある程度のファンだ。だが単純に「観たい!」となれなかったのは、今現在のわたしは湯澤幸一郎氏が児童福祉法違反で逮捕され、実刑判決を受けたことを知っているからである。

 

 形容しがたいモヤモヤとした気持ちをまったく違う観点から明らかにしてくれたのは、もし彼が演出家の立場を利用して「横領」の罪に問われたのであれば、果たして株式会社CLIEは復活の場を与えただろうかというあるツイートだった。つまり今回の復帰は、「お金を盗む」ことよりも「児童福祉法に反する」ことが犯罪として軽視されているのではないかとも言えるのだ。例えば会社員で横領を行い、実刑判決を受けた人間が同じ職場の同じポストに復職できるだろうか。

 実刑判決を受けた人間がスポットライトを浴びてはならないと言っているのではない。株式会社CLIE及び『メゾン・マグダレーナ』復活を大々的に謳ったプロデューサーの吉井敏久氏は、なぜ同じポストを用意したのかということを疑問に感じている。現に湯澤氏が同社の舞台作品に俳優として復帰した際には、ここまでの反発や不快感は示されなかったはずだ。今回の復活を疑問視しているのは、「未だに代替公演を経験した観客や関係者がおり」、「約束された公演内容がいち演出家・主演俳優による犯罪行為で踏みにじられた」にも関わらず「嫌が応にも当時を想起させるであろうことを復活と称して行って、それが拍手とともに受け容れられる」と思っている人間がいることにある。そしてそれにGOを出してしまう会社組織が、これまで数々の素晴らしい舞台作品を提供してくれた会社であることに驚きと落胆を感じざるを得ないのだ。

 

 これからどうするのかと言えば、会社組織として危機管理能力に欠けると感じられる組織が担保する舞台公演のチケットを購入するのは危険だから控えるだろう。昨今券売は半年以上前から行われることも珍しくなく、だが今回の復活でもって会社の印象が上向き、なおかつ利益が出ると判断する組織が果たして今後も継続的にその責務を全うしてくれるかは、はなはだ疑問だ。ちなみに吉井プロデューサーが11月24日に発表した声明文のドメインはclie.asiaであるから、会社としての発表と受け取られても差し支えないのではとすら思う。

 このブログタイトル通り、わたしは株式会社CLIEによる『Club SLAZY』シリーズがだいすきだ。今一番応援している俳優さんにもその作品を通じて出会えたが、この状況では、吉井敏久氏のインタビューでCSLの立ち上げは彼ではないと言っている箇所だけが希望のようにすら思える。徹頭徹尾、彼がプロデュースしたという作品がすきで、なおかつ今回の復活に疑問を抱いている方の胸中は想像に余りある。

 

 というかマジに大丈夫かよ。この世には星の数ほど演出家や脚本家志望の人間がいて、けれど劇場で上演されるなんてチャンスは数えるほどしかないのに、株式会社CLIEのプロデューサーがイタリアに行ったりツイキャスまでして復活させたかった企画作品はこれしかなかったのかと思うと本気で心配になる。CLIEから発表されている作品はこれだけではないし、すでに数ヶ月先の公演チケットや円盤を予約している方も多いだろう。改めてチケットを買う行為とは見えない権利を買っているに過ぎず、観客としてできるのは客席から拍手をおくるかおくらないか、お金を支払うかどうかの判断だけだと思い知らされる。だいたい「劇場でパンティを振る」ことがコンプライアンス的にダメなら『マグダラなマリア』が提示していた世界観はすべてダメだと思うが。

 前述したプレスリリースを下敷きに掲載したであろう演劇メディアも、結局企業の二次宣伝媒体でしかないのだと残念に思う。掲載される時点での倫理判断基準はどこにあるのか、受け手の判断基準だけが問われ続け、チケットを買うのは自己責任だと言われ続ければ、ただでさえ敷居の高い「観劇」という行為はますます公共性を失って、遅かれ早かれ「一部の方々」と称される人間たちだけのものになるだろう。

 

今回の件に関してのさまざまなツイート、ブログなどを拝見致しました。現状メディア媒体に掲載されているものを言及させて頂きます: