ミュージカル『SMOKE』再演:날자, 날자, 날자

「言葉というのは 心から取り出した途端に腐り始めてしまう だから一気に 一気に書くのです」

 千穐楽からもうすぐ1週間が経つ。千穐楽公演当日は、終わってしまう、終わってしまうと、まるで呪文のように心の中で唱えていた。だが気づけばたった三人の動きを目で追い、そこで奏でられるセッションに集中した。一瞬も見逃せず、途中まで涙は流れなかった。いつからだろう、込み上げるものが止まらず、涙も鼻水も溢れて止まらなくなったのは。

 

 物語は「海」と「超」という二人の男たちが、「紅」という女を誘拐することから始まる。散りばめられた謎は後半のある時点で一気に明かされ、実はたった一人の詩人の内面を描いていた作品だとわかる。このタネ明かしの鮮やかさは言語化し難く、自分の解釈自体も、正直どこまでもいち個人的なものだとしか言いようがない。しかし劇中の台詞にもあるように、「どこまでも果てがないのが」ミュージカル『SMOKE』で、だからこそ何度も繰り返し足を運びたくなったのだろうと思う。

 

 日野超。「紅」との激しいやりとりから、やっと本心を明かし、「きみは知っているのか」と思わず「紅」に対してすがるように言う後半。その横顔が完全に日野海に観えたことがあり、二役を観られる贅沢さに震えた。

 日野超はそれこそなり代わってしまったあの時点からずっと、「死ぬべき」だと考え続けていた印象だった。その気持ちは練られに練られて、自分でも逃れようのないほど緻密な「超」に観えた。そこからラストの「飛ぼう!」と、椅子に飛び乗って後ろに倒れていく姿は対照的で、「堕ちよう」とするよりは、翼があるから落ちることのできる自由さがあった。解放された「超」は清々しかった。

 木暮超。出演期間が後半になればなるほど泣かされた。しばらく「海」のために闘ってはみたけれど限界で、つい最近「死のう」と思い始めた悩める青年、等身大の苦しみを感じた。どこか代わりになることも受け容れているようで、その献身はあまりにも痛々しく、「海」と一緒にあったかいうどんを食べて欲しいなあとずっと思っていた。後半ほど「紅」に対して頼る比重が増えて、そこに「三人ならだいじょうぶ」と受け止める、どの「紅」も美しかった。ラストで「書けるだろうか」と尋ねるさみしげな笑顔は、一人の人間の挫折と再起を語るには充分過ぎるほどだった。

 大山超。「紅」にも負けないほど「紅い始まり」のようだった。死にたくないけれど「死ぬしかない」男の、世界への怒りと拒絶と絶望が、鉛のように鈍く深く感じられた。そこから「おれには才能がない」と脆さを露わにするところが人間臭く、一層対峙する「紅」の凜とした強さが際立つように思った。

 池田紅。忘れられないのは、「海」が「ぼくにも才能がないから 上手な文章は書けない」と話すシーンの、耐え難いような表情だ。「紅」自身が実は「李箱」であり、彼女自身が「才能がないから そういうお話みたいなものは書けないの」と自虐してしまうことは、鏡合わせの証左だ。それなのに「海」と「超」という二人をたった一人で支え、止めようとする姿は逞しく、それでいて切なかった。

 高垣紅。丁寧に紡がれる台詞の一つ一つが、なにもかもを見透かすようだった。彼女の言う通りにしていれば絶対にだいじょうぶだという確信を抱けたし、「わたしは消えない 消えたりはしない」という叫びも、決まりきった世界のことわりのように凛々しかった。ラストの「ありがとう」は、再演になって「海」が「超」に言う台詞の変更(「海」が鏡を撃つ前の台詞が、「ありがとう」から「ごめんね」に変更されたと思う)もあって、自分自身からありがとうと言われること以上にしあわせなことってあるのだろうかと思えた。

 池田紅と高垣紅(そして彩吹紅)を経て、この物語の色を決めるのは「紅」なんだと改めて教えてくれたのが、元榮紅だ。そこに在る「紅」。彼女に憧れ、焦がれ、それでいて自ら突き放す「超」と「海」の対比こそ、人が夢を追い求める過程を描き出している。抱いただけで励まされるような、それでいていつまでも手に入らないのが夢だとするならば、「紅」とのやりとりはきっと誰しもが一度は経験したことのある自問自答だろう。改めて池田紅・高垣紅・元榮紅(そして彩吹紅)によって示された、母であり姉であり恋人、そしていつの間にか閉じ込め、なくしてしまった自分自身への情熱は、ずっと観ていたくなる可憐さと厳しさ、そしてやさしさがあった。

 大山海。自分に作品との出会いを与えてくれた始まりの役で、一番泣けた。冒頭の海への憧れを歌うような歌(日本語の題名が知りたい)で、優しく絵筆を取り上げ、「超」の書いた文章を胸に歌う姿だけで胸がいっぱいになった。大山さんがインタビューで語ったように、記憶を取り戻してからは「超」の要素が垣間観えたのは、再演ならではだった。

 「超」が、ついに「海」に対して「わからないのか 鏡を見ろよ」と告げる終盤。剥製のように生き、死にたいと叫び続けた詩人の顔に滑り落ちるように変わる瞬間は鮮烈だった。澄み切った少年の瞳が、立派な大人に切り変わるのは、少し恐いほどだった。初演の時には気がつけなかった「紅」、そして自分自身への激しい怒りも不甲斐なさも、誰しもに身に覚えがあるからこそ観ていて辛く、生きていて欲しいと祈るような気持ちになった。

 日野海。一番純粋で、そして現実に引き戻されてからも世界をそのまま受け取っているように観えた。日野海と「李箱」の境目はなだらかで、だから余計に世界はどうしてこの人に対してここまで残酷なんだろう、と思えた。大山超との組み合わせでは、彼らが「超」「海」を逆で演っている時とも全然違っていた。それでいてもしかすると今のお芝居は、それぞれの瞳にお互いがこう映っていたのかもしれない、という副次的な面白さもあった。

 木内海。語弊を恐れずに書くと、初回は藤岡海にとても近いものを感じた。幼さ、純粋さ、一転して天才の失意と挫折。けれど回を重ねるうちに、果たして「海」はいつから「海」だったのかという、突き詰めてしまうとぞっとするような命題を与えてくれた。木内海が「海」である時間は「李箱」の少年時代のように感じられ、いつから「海」が自分を手放したのかを改めて知りたくなったのだ。

 

 そのまま受け取るのであれば、「李箱」が鏡の中の「超」と入れ代わったのは文章を書き始めてからのはずだ。史実も踏まえると、拘置所*1を出て行くのは二十代後半のはず。これまで自分は、「李箱」が「紅」を鏡の中に閉じ込め、「海」と「超」が逆転したのは、そのくらいの年齢になってからだと思い込んでいた。だが木内海の「答えを知り尽くした天才」振りを観ていたら、「あの日」は、必ずしも拘置所に入る直前である、という時間的な保証はなかったのだと愕然とした。

 たった一人に三つの人格、ではなく、たった一人が成長する過程で失い、そして演じ続ける虚像、という物語の捉え方も、もしかしたらできるのではないか。さらに言えば、冒頭の「超」のシーンがある以上、そもそも拘置所自体が現実を描いているのか?ということすらも疑問に思えてくる。ただこの見方をするのであれば、物語は誘拐劇が一転して心理劇に、という構造ではなく、一人の人生を凝縮した象徴的な構造を強めていく。

 ただ、穿った見方をしなければ、突如登場する第三者的な看守の存在こそ、劇中の現実と「李箱」の鏡の中を区別する指標だろう。こうして冷静に振り返ってみればいくつかは言語化できるが、ミュージカル『SMOKE』再演の劇場で得ていた感動と、終演後に得られる胸の奥がすっと持ち上げられるような感覚は、言語化するには大き過ぎる翼だった。たった一年のうちに、それこそ愛煙家としてミュージカル『SMOKE』の煙を胸いっぱいに吸い込むことができた幸運は、一生忘れないだろう。

 

 授けてもらった翼で、今度は自分が翔ぼうと思う。世界はあまりに広く、息苦しい拘置所のような毎日を抜け出した先には、誰もいないかもしれない。いや、どこへ行こうが誰といようがひとりだ。それでもきっとわたしには、この夏をともに過ごした「超」と「紅」と「海」がいてくれる。劇場に通った日々は間違いなくわたしを支え、護り、これからも励まし続けてくれるだろう。それにしたって禁煙はつらいから、再々演が待ち遠しい。

 

〜ここからは漠然とした所感〜

 ミュージカル『SMOKE』に対する気持ちが、初演・大人版・再演で高まり過ぎてどうしようもないけど、禁煙生活マジでこれからどうなるかわらからな過ぎて怖い。今のところ生きてます、としか言いようがない。まずは高垣さん、ご結婚本当におめでとうございます。可憐なのに芯が通っていて、わたしにとっては「綺麗な姉」が一番しっくり来る素晴らしい「紅」を今年もありがとうございました。

 本当にどの役者さんが演じても『SMOKE』は『SMOKE』で、それにしたって組み合わせの妙があるからチケットを増やしまくりました。最終的に再演は20回以上拝見したけれど、初演の時に書いたように、四方囲みの座席すべてに八つの「瞳」を置いておくわけにはいかないから、どこまで観ても観足りなかった。それなのに劇場を出る時には、ふわっと心が軽くなるような気持ちにしていただきました。

 

 推しさん「超」、めちゃくちゃ格好良くて、正直混乱しました。身の回りでは某◯ctさんみがあるとのことで、あ〜それはダメ、一番すきなやつ……と、しんどみがやばい。強がりだけど脆くて、それを隠すように片意地張ってる役づくり、だいすきです。とはいえあの感じで怒鳴られたら、わたしだったら泣く。だからいつも「紅」すごいなあ〜って思ってました(語彙力)。今回は池田紅を一番たくさん拝見できて、夫婦喧嘩でだいたい池田紅が勝つから、時々ちょっとスカッとした気持ちにすらなれました。正直、「紅を困らせんなよ!!生きろ!!」と思ったりもして。でも「紅」はそこで打ち負かして終わり、ではなくて、「もうだいじょうぶ」と「超」を抱きしめるからすごい(語彙力)。木内海との同い歳だからこその殴り合いというか、後半から木内海が物語の絶対的主人になるのが、ものすごく好みでした。それにしたって木内海の「笑い」と「嗤い」、「笑顔」と「自嘲」の使い分けが上手過ぎて怖かった。レコードいじってる時とか天使なのに。お水をこぼしてもキッチリお芝居に組み込んでしまうし、椅子の定位置はさっとリカバーするし、ダンスの時の横顔は端正な王子様だったし……てかあのシーン考えた人、本当に天才、ありがとう……みんな王子様に観えました……木暮海も木内超も観たいです……アンケートに「再々演希望」って繰り返し書いたよ……

 

 鳥頭なので初演の大山海との比較というか、そもそも前日との比較すら怪しいですが、大山海、本当にすごかった。本当に生で拝見できてよかったです。感想が「ありがとう」しか見当たらないって、最高の現場だと思うんですけど、とにかく「ありがとう」という気持ち……一番泣いたのは最後ということもあって千穐楽ですが、その前にも不意打ちで泣かされたなあ〜木暮超・元榮紅・大山海の組み合わせは、今までに観たことのない『SMOKE』に感じられて、泣いたタイミングがいつもと全然違って自分で自分に驚きました。

 とにかく最高の夏でした。ミュージカル『SMOKE』を届けてくださったすべての方々にお礼を言いたいし、強欲な観客なので再々演のプッシュの拍手を!!ただ一番の幸福は、こうして世界に少しずつ不安や争いの空気が立ち込めているこの時に、劇場にいる間は作品に夢中になり、終演後は自分の現実に向き合う「翼」を授けてもらったことです。この作品が演じられ続けることを願っています。

*1:拘置所」なのか「留置所」なのかは正直迷った