『髑髏城の七人』Season月(上弦の月)_2018/2/2夜

 蘭丸の最期。崩れ落ちながら天魔王を背中に庇った彼は、しっかりと共犯者の手を握っていた。一瞬狼狽えた天魔王は、蘭丸の言葉にハッとして、怯えるようにその手を振り解いた。赤く染まった手のひらが、蘭丸の白い手の中からパッと逃げるように飛び出したのが観えた。まるで双子のように観えていた彼らが、薄皮一枚、ただ一点において絶望的に異なっていたのだと、迫るように感じられた。

 

 今の自分の解釈として上弦の月とはつまり、「天魔王と蘭兵衛・蘭丸が同じ貌の髑髏城」だ。織田信長・捨之介・天魔王が同じ顔という髑髏城の、さらに分岐した姿。上弦の天魔王と蘭丸は、極めて似た存在として観えた。

 

 1月の時点では、わたしは上弦に花髑髏と近しい印象を抱いていた。長男・蘭兵衛、次男・捨之介、末子・天魔王、三すくみの構図だ。だがどうしてもそう言い切るには、違和感があった。違和感の中心は天魔王。彼はあまりにも捨之介を軽視している。およそ天地人として、かつてともに「なにか」に浸っていた瞬間があったとは、到底思えないのだ。最後の最後に至るまで、天魔王が駒としているのはあくまで「殿」と「蘭丸」。捨之介たちに追い詰められ、蘭丸を喪って初めて、彼は頭を掻き毟り、まるで突然の波に砂の城を崩された子供のように、苛つきを露わにする。

 花髑髏に夢中になった理由の一つは、蘭丸を喪った天魔王が、徐々に喪失感を強めたことにある。上演期間終盤から、天魔王は蘭丸の死を嘆いたかのようにわたしには観えた。兄者、と蘭兵衛を半ばおちょくるように接していた彼の本音が、あの一瞬で本物に変わったように感じられたのだ。そう、結局その喪失感でさえも、蘭丸という兄が彼に教えてしまったという矛盾、駒を駒として自覚し切れていなかった人の男の、後戻りできない哀しさがあの場面でひしひしと伝わって来た(というかそう解釈したくて堪らなくなった)。

 だが花と上弦の大きな違いは、捨之介だ。捨之介の八年前、と聞いてしまうと、どうしても拭ようのない違和感を覚える。彼はあまりにも若い。それは演者さんの年齢ではなく、彼は純粋で、かつ甘い人物として描かれているからだ。髑髏城の天守閣に至るまで、いや天魔王の喉元に斬鎧剣の切っ先を突きつけてなお、彼は天魔王を「止めよう」としている。

 

 八年前の捨之介は、霧丸のような少年だったのではないか。地を駆け、盲目的に己の正義を信じ、刃の向いている先を知らないような少年。軽率に熊木衆の存在を信長に伝え、そして青年になった今、自分の行動で傷付き、取り返しのつかない状況になった者たちの存在に胸を痛め続けている。それなのにやはり彼の甘さはまだ残っていて、天魔王を止めるには、殺すしかないことを認められていない。

 だから彼は死にたがる。上弦捨之介は、そもそも「殿」と言葉を交わしたことがあるのかとすら、最近は疑問に思えて来た。あまりにも天魔王や蘭兵衛の執着とは、色が違い過ぎている。捨之介は物語の最後、霧丸に礼を言うその瞬間まで、自分が「天」の影響下にいたことを自覚していなかったのではないか。

 捨之介のラストシーンは、彼もまた天魔王や蘭丸と同じく、織田信長という大き過ぎる天の下に生きた者だという自認と自覚と、そこからの脱却のように観えた。つき纏う影に囚われず、前を向いた霧丸のおかげで、彼はやっと自己肯定できたように観えた。霧丸を救えた自分を得てやっと、彼は彼を主人とする物語を生き始める。そう、骨の髄まで沁みついた織田信長を捨てられたのは、捨之介と、狸穴二郎衛門、ただ二人だけなのだ。

 だからこの物語の中核を担うのは、捨てられなかった二人、天魔王と無界屋蘭兵衛だ。二つの時代の代わり目の、善悪が揺らいで、勝利者が正義とされるような混沌の時期。過去の延長線で生きる者と、過去を乗り越えて生きようとする者の戦い。だからこそ『髑髏城の七人』は、勧善懲悪の物語ではない。

 

 握る刀が鉄パイプに観えると評判の、ステアラ一のオラオラ系蘭兵衛・みうらんべえさん。昨日のクドキシーンは、とても、かなり、控え目に言っても、女性的に観えた。単身髑髏城を訪れた蘭兵衛は、初めは天魔王が誘うように頬に触れようとしても、蝿でも払うかのようにその赫い手を振り払う。だが髑髏の面に魅入られてからは、まるで小さな子供のようにつま先が内向きになり、天魔王にしなだれかかる後ろ姿は、女性のようにも観えた。

 アカドクロの蘭兵衛は男装の女性だった。幻の初演もそれは女性の役だった。これはかなり飛躍的な解釈だと思っているが、上弦の天魔王と蘭丸からは、どちらかというと女性的な男性不信を感じる。無界屋蘭兵衛のつくり上げた色里・無界の里と、女性たちに囲まれた髑髏城・天の間は、ものすごく似ている。ただ一点、極楽太夫という存在を除いては。

 極楽太夫。それは天魔王と蘭丸を隔てた一点を、擬人化したような人でもある。太夫の存在にこそ、わたしは森蘭丸でなく無界屋蘭兵衛の揺るぎない意志を感じる。花髑髏の時にも書いたが、つまるところ無界屋蘭兵衛・森蘭丸という人は、しあわせだったのだろう。

 

 彼は時代の繋ぎ目の両方に、それぞれの人生を築いた。結局どちらを選ぶかは彼の自由であり、その正解はきっと殿の言葉でなければ彼としては決めようがなかったのだろうが、自らが天と仰いだ人物の人生を完遂させるべく生きた天魔王や、否応なしに過去を背負った捨之介に比べれば、余程恵まれている。

 もしも天魔王と蘭丸が双子のような存在だとしたら、天魔王の怒りは至極当たり前に思える。なぜ片方だけが生きろと言われ、なぜ片方だけが次の時代にこれまでを濯いだような繋がりを築いているのか。「殿は俺に死ねと言った」という言葉すら疑わしい。つまり蘭丸が生きろと命じられた以上、自分には死ねと言われなければ天秤が傾いてしまうというような、天魔王の嫉妬が想像できるからだ。

 天魔王が「もしも」を繰り返し反芻しているような存在なら、己の「もしも」を体現しているのは間違いなく蘭兵衛だ。結局、天魔王が覆したかったのは今でも未来でもなく、なぜ生きろと言われたのが己ではなかったのか、という過去の一点に尽きるように思う。

 第三者的に観れば、「蘭丸に伝えろ」とはつまり、「生きろ」と遠回しに言っただけのようにも感じられる。だがそれは、それまで双子のように同等に扱われていた二人を、問答無用に二つの個として分断してしまった言葉なのかもしれない。天秤を大きく傾け、一番と二番に順位付けしてしまうような。

 だが、根本的に天魔王と蘭丸は、本当にただ一点において根本的に違っていた。それは、自分を明るい方向へ導き、そして最早明るい場所を目指せなくなった時には、自分を殺してでも止めてくれる人間を得ていたか、そうでないか。殺してくれる誰かがいない。それが天魔王と蘭丸を別つ、深過ぎる大きな溝だ。

 

 劇中で語られる「織田信長」は、多面的過ぎてよくわからない。自分の最期に及んで、部下に生きろと言う人ならば天下人たる偉人に思えるし、もしもその言葉でもって人の男がどれほど壊れるかを理解していなかったのなら、その手で天下は掴めなかっただろう。

 天魔王と蘭兵衛は、「森蘭丸」の二つの可能性ではないか。信長がどう死のうが、彼らはそこから逃れられなかった。例え生きろと言われても、例え死ねと言われても、紆余曲折を経て自らが言った通り「天魔王と織田の残党森蘭丸は無惨に討ち死になる」。縒り合わされた二つの糸が、途中は解れて全く異なる色になっても、結末では再び一本の糸になる。二本の糸は結局赫く、糸であることを断ち切った者たちとは、同じ時間を生きられない。

 

 これがわたしの昨日の解釈だが、どうにも自信がない。上弦の月は、登城しても登城しても、毎夜異なる月のように不確かで、それでいてなぜか再び見上げたくなる髑髏城だ。

 

 

双子解釈はこのブログを拝読し言語化できました、

素敵な記事をありがとうございます!!