『髑髏城の七人』Season花_2017/05/03昼

 三回目の髑髏城。前回、「これがmy千秋楽♡」と心に決めてはいたが、やすやすと財布の紐を解いてしまった自分が情けない。

 

 観劇後、2011年と1997年の『髑髏城の七人』の映像*1を観て、また小説版も読んだ。通称「若髑髏」と呼ばれる2011年版は兎にも角にも森山未來さん演じられる天魔王が恐ろしいやら美しいやら格好良いやらで、Season鳥が待ち遠しくなった。けれどそれは、花が終わっている未来なのだから切なくなる。

 1997年版はやはり「捨之介と天魔王は同じ顔」という設定の筋が通っていて、かつそれを古田新太さんがケレン味たっぷりに演じられるものだからもう面白くて仕方がない。

 『髑髏城の七人』という作品のこれまでの変遷は、どこか『STAR WARS』シリーズと似通っている部分があるとわたしは思っている。アクが強いがハマる人にはハマる作品が、次第にたくさんの人を魅了し、最終的には大資本すら味方につける。そして最大公約数的な面白さまで提示できるようになる。この変化には感謝しかない。『髑髏城の七人』がもしも1997年で終わっていたら、わたしたちはあの豊洲の不思議な劇場で、『髑髏城の七人』を観ることはなかっただろうから。

 けれど失われたものもあるのだろうと思う。「捨之介と天魔王は同じ顔」。これは失ってはならない背骨だったのではないか。1997年版と小説を知った今では強く思う。話の筋としては小説版が一番すきだ。兵庫と極楽は自然の成り行きで固い絆を持つようになるし、蘭兵衛に関しても、空白が少なく、その変貌の描かれ方は血で描いたように鮮やかだ。そして捨之介と沙霧の関係がなんとも切ない。

 

 とはいえわたしにとっての髑髏城は、やはりSeason花だ。捨之介は飄々として爽やかで、蘭兵衛は過去の重さに血を吐き続けている。天魔王は道化師のようでいて油断なく周囲を睨め回し、兵庫はどこまでもまっすぐ。極楽は透き通っていて優しく、沙霧は胸を張って己の拳で(時には飛び蹴りで)道を切り拓く。

 

 作品との出会いは、運命のようで偶然だ。そもそも当日引換券で向かったあの日の第一衝動は「回る劇場を観もせずに、なにが趣味は観劇♡じゃ」と思ったからだし、「小栗旬山本耕史なんておトクだな♡」くらいの心持ちだった。それがここまで魅了されるとは。観劇の神様がいるなら、お礼を言いたいくらいだが、お財布の神様は泣いていると思う。

 

 さて今回は、前方のブロックではあったが上手のかなり端のほうで観た。なんとなく山本蘭兵衛さんばかり観るのは気が引けたから、「捨之介と蘭兵衛のアイコンタクト」に注目した(結局蘭兵衛さん……)。いよいよ終盤へ向けて小栗捨之介の距離の取り方に遠慮がなくなり、これまた爽やかな笑顔をバシバシみんなに向けている。特に蘭兵衛には、やはり昔馴染みという表現だろうか、目が合うとニコっとする瞬間が何度かあった。だが蘭兵衛は特に表情を変えるでもなく、ぷい、と顔を背けてしまう。それが蘭兵衛を唯一「朴念仁」たらしめているように感じられるし、捨之介の表面上の笑顔の下に眠る暗闇を、蘭兵衛は知っているのだと結末から逆算もできる。

 そのアイコンタクトを初めてまっすぐ返すようになるのは、蘭兵衛でなくなってから。それがなんとも切ない(「切ない」って何回書いたかな……)。腹の底で渦巻く過去への血反吐を吐ききってしまった蘭兵衛が、亡霊となってやっと、捨之介の視線を受け止められる。

 「織田信長」という男への解釈は、若髑髏の描き方が実に秀逸だと思う。天魔王は信長のような西洋に傾いた装いで現れるし、遺された者たちに神のように崇められている男の存在感は、最早生きてさえいるようだ。それは遺された捨之介・蘭兵衛・天魔王の三人が「若い」から、ということも大いに影響している。だが花髑髏における信長とは、過去になりつつある存在。だからこそ蘭兵衛が、結局はそれを乗り越えられないことが悔しい。

 

 なぜもっと早く出会えなかったのだろう。舞台をよく観るようになってから、そんな取り留めもないことをよく考える。だが前述した通り、作品との出会いは運命のようで偶然、そして必然なのだろう。幼い頃、母親に連れられてなぜかリバイバル上映で『STAR WARS』旧三部作を歌舞伎町の映画館で観た、というより観させられた。当時のわたしに響いたのは、カチカチに固められちゃうハン・ソロと、死にそうなヨーダだけだった。結局わたしにとってのヒーローは、その数年後に観たアナキンでありパドメで、師匠はオビ=ワンと回転攻撃をキメるマスター・ヨーダになった。

 『髑髏城の七人』も、きっと花髑髏からでなければこんなにもすきにはならなかった。そしてステージアラウンド東京でなければならなかった。あと何回、豊洲へ向かうことになるのだろう。一年後に観る髑髏城は、どんな景色なのだろう。

 記憶を手繰り寄せながら、花髑髏との別れが名残惜しくてたまらない。

 


*1:ちなみに『髑髏城の七人』の映像は以下の劇団新感線映像系の公式サイト

から入手するのが現状安価だし、公式に還元できる気がする。また豊洲HMV等では購入すると先着でゲキシネの招待券(1組2名!!)をくれるので、かなりお得に購入できる。

『髑髏城の七人』Season花_2017/04/26昼

 二度目の髑髏城。当日券があまりにも良いお席で、ドキドキしながら入場した。先行を逃した方は、あきらめずに当日引換券へのチャレンジを超絶お勧めする。たった2回の経験談だが、どちらも前方で観ることができた。

 良席に驚き過ぎて、360度回転シアターのくせに350円のあんぱんを買って食べながら深呼吸した。360円にすると、おつりのレギュレーションがメチャクチャ面倒になるから350円なのだろう。ちなみにあんぱんは天下の銀座・木村屋さんで、餡の中に求肥も入っていてとても美味しい。求肥入りをもっとアピールしたほうが良いと思うし、夢見酒入り!!とか言って赤いあんぱんも売れば良いのに、などとくだらないことも考えた。

 

 さて。二度目になれば初回よりはゆったりした気持ちで臨めるかと思いきや、それはやはり無理な話。話の筋が頭に入っているぶん、要所要所にグッと来るシーンが増えた。しかも同じシーンであっても、初見の時とはまったく異なる印象受けるシーンもあって、これだから生の舞台観劇はやめられないと思う。

 

 まずは捨之介。殺陣のキレが増して、飄々とする表情に余裕が増えていた。序盤、雨の中にタイトルが浮かび上がるシーンでは、照明の関係で捨之介の背中に小さな虹が観えた。良い男は振り切れると虹まで出せちゃうらしい。ちょっと憎たらしいくらい格好良くて、それでいてなにもいらない、そしてこれからどうとするわけでもない、という雰囲気が実に爽やかだった。雪駄履きであのアクションの連続。小栗旬さんの足の親指と中指の間の皮膚があまり痛くなりませんようにと願う。

 沙霧。信じられないくらい身軽。アクションの部分や自身が捕まっている部分では、さりげなく周りをフォローしているのも垣間観えた。沙霧はよく刃物を突きつけられるが、上手く切っ先が自分に向くように動き、刃先がぶつかりそうになるのも受け流している。それだけでなく現されている性格にしても、あんなに視野が広くて健気なかわいい女の子って滅多にいない。わたしが捨之介ならきっとずっと見ていたくなる、そんな風に思わせてくれた清野菜名さんには感謝しかない。

 極楽太夫。演技を間近で拝見でき、彼女の人間らしい美しさがより伝わった。そして余計に、蘭兵衛この野郎!!という気持ちが高まった。初登場シーン、花魁姿で無界屋のセットから下を見降ろす太夫は、まるでつくりもののようだが、一度話し始めればくるくると移り変わる表情がとても華やかだった。

 

 今回で大きく変わった印象の一つは、この極楽太夫と蘭兵衛の関係性だ。「決めた男がいる女を口説くなんて野暮はしないぜ」、捨之介の台詞にある通り、最初は彼らをまるで夫婦のような男女の関係だと思った。だからこそ口説きに応じてしまう蘭兵衛はどうしようもなく裏切り者に思えたし、あの場面は太夫と(おこがましいにもほどがあるが生物学上は)同じ「女」として許しがたかった。

 だが今回、無界屋の主人と太夫は、まるで兄妹のように観えた。なにが変わったのか、いやそもそもなにかを変えたのかすら客席からではわからないことだが、二度目の彼らは、プラトニックな関係に思えた。兵庫に対する蘭兵衛は、妹を取られそうになって自らを諌めながらもモヤモヤする兄のようだったし、蘭の花を蘭兵衛に託す太夫も、まるでどこにも行かないでと兄の手を引く妹のようだった。

 さらに口説きの場面では、奈落に引きずり込まれるように夢見酒を「呑まされていた」蘭兵衛が、今回は自ら「呑もう」としているようにも観えた。だからこそ女としての怒りより、仲間としての怒りが勝つ。「馬鹿野郎!」と脳内で捨之介が叫んだし、自分が兵庫なら殴り飛ばしたいだろう。話は逸れるが、これが「キャラが立つ」ということなのかもしれない。どんな場面に対しても、そのキャラクターの反応が想像できてしまう楽しさ。髑髏城は、驚くべきことにそんな登場人物しかいないのだ。結局のところ蘭兵衛に対しても、そうせざるを得なかったと思ってしまう。

 

 二度目の観劇の一番の理由は、山本耕史さん演じられる無界屋蘭兵衛さんをまた観たい!という身も蓋もない衝動。殺陣を間近で拝見すると、それこそ一秒ごとに発見がある。蘭兵衛の殺陣はゆっくりじっくり相手を伺って、無駄なく相手を「斃す」殺陣なのに対し、口説き以降のそれは相手を「殺す」殺陣になっている。かつての仲間たちを殺した後に、忌々しそうに刃先の血糊を袖で拭う彼は、間違いなく人を斬るひと。「なんで!」と叫びたくなる。まるでこれまでの縁を断ち切るように、過去に魅入られた彼はどこまでも虚ろだった。ただし、最期の一瞬を除いては。

 

 前回は観えなかった足さばきもよく観えて、蘭兵衛さんの初登場場面では、優雅に振舞いながらも意外に脚元が池の水で盛大に濡れていた。捨之介とは違う、踏みしめるたびに過去の重さに軋むような蘭兵衛さんが、なにも言わず巡る景色に背を向ける時。二度目だからこそ先がわかって余計に切なかった。あの魅せ方はステージアラウンドの非常に非情に回ってしまう感じをよく現わしている。動き始めた時は、廻り出せば止まらない。蘭兵衛はそれを知りながらも、逆行することを選ぶ。

 

 花髑髏に関しては語り始めるとキリがない。目の前でピタリと止まった成河天魔王のきっちり整った顔が、喋り出せば見る影もなく世の中をせせら笑う男の面のなかに隠れてしまうであるとか。兵庫の台詞回しが進化していて、もう少年漫画のヒーローにしか観えなかったこととか。古田新太さんの贋鉄斎の一人称が「ぼく」なのは、なぜか何度観ても面白いとか。狸軍勢は出て来るのは遅過ぎるが、これぞ時代劇!という鮮やかさがあるとか。

 

 今日も豊洲で誰かが回っていると思うと、なぜだかワクワクする。関東・豊洲の片隅に、突如として現れたあの劇場で、観た人なりの髑髏城が着々と築城され続けているからだ。

 

ミュージカル『王家の紋章』_2017/4/23マチネ

1階後方下手寄りセンターブロックにて観劇。

 

 最も印象的だったのは、濱田めぐみさん演じるアイシスが嫉妬にかられ、隣国ヒッタイトの王女を焼き殺すシーン。これぞミュージカル!濱田めぐみさんの歌声を今回初めて生で体感したが、アイシスの想いも悲しみも怒りもすべてが歌にのって帝国劇場に響くさまは、ただただ見事としか言いようがなかった。

 かたやヒーロー・ヒロインのメンフィスとキャロルが水色で彩られるのに比べ、アイシスは様々な色で照らされる。まるでオシリスとイシス、そんな風に歌っていた二人が、最終的には沈む太陽を背にくっきりと別れてしまうのは切ない。あの短時間で、嫉妬さえなければ彼女は誰よりも立派な女王になれていただろうに、と思わせる濱田さんはすごい。

 今回、平方元基さん演じるイズミル王子も含めて、いわゆる物語上はヒール役のほうにばかり心動かされた。心なしかカーテンコールの拍手の大きさも、自分と同じように感じた人は多かったのかな、と思ったりした。

 

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『髑髏城の七人』Season花_2017/04/14夜

 初めての劇団新感線、初めてのステージアラウンド東京、初めての『髑髏城の七人』。急遽当日券で観劇した。一番の理由は次のシーズン「鳥」に、『ALTAR BOYZ』に出演されていた常川藍里さんが出ると教えてもらったからだ。常々観たいと思っていたのだが、そういう小さな理由があると簡単にチケットを増やしてしまう(『ALTAR BOYZ』はわたしにとって免罪符、これは余談)。どうせ観るなら花鳥風月すべて観るべきでは、そんな軽い気持ちだった。

 劇場は空き地に囲まれており、遠くから見えるそれは、アメリカの田舎町のモーテルのようだった。全然ロマンチックじゃないが、このモーテルに今をときめく俳優陣が集い、再演に次ぐ再演に耐え得る作品を上演しているというのだから面白い。埋立地独特の寂寥感と、時折感じる潮風がすきな人はぜひ。観劇後の今だからわかることだが、髑髏城と、あのきっと長続きはしないであろうプレハブ劇場は、根底の部分で繋がっている気がする*1

 

 とはいえまず一番怯えていたのは、「酔うんじゃないか」問題。もともと偏頭痛と緊張性頭痛が持病、という一病息災系の人間だから、本当に怖かった。結論から言うと、おそらく多分、回ることより映像に酔う。回るより早く映像が流れるから、それに視線を委ねてしまうと酔ってしまう気がした。ちなみにわたしは抱きたくもない「酔う確信」があったから、事前に頭痛薬をキメてから観劇した。

 舞台は映像に比べて、観客の視覚を制限する力が良い意味で弱い。長方形の舞台の、どこに着目するかは観客に委ねられている。けれど今回の劇場と作品は、とても映像的な見せ方だった。演者さんが走れば、わたしたちも強制的に回ってついて行くことになり、空間の切り取られ方が「そこを観ざるを得ない」切り取りになる。ただ、視覚をこれだけ操作されながらも、さらにそれを切り取った映像を観れば、あの劇場で得た経験とはまったく別物になっているのだから不思議だ。あそこでしか得られない時間は確かに流れている。

 あとはとりあえずみんな、山本耕史さんの無界屋蘭兵衛を観て欲しい。あれ、だいじょうぶなの、あんなにあんな感じでいいの。ミュージカル『メンフィス』のチケットはどこで買えるの。最高だったんだけど……最早山本蘭兵衛さんのためだけにもう一回行きたいレベルで困っている。正直なところ「山本耕史さんいるんだ、お得だな♡」くらいに思っていたのに、カーテンコールでは「山本耕史最高!!!!」という状態。わたしの語彙力では表現できないもどかしさ。蘭兵衛だけに、華がある。。。打っていて自分でもわけがわからないのだけど、とにかく観て欲しい。そしてわたしが異常じゃないと証明して欲しい。

 

 観劇後、『髑髏城の七人』についていろいろ調べた。もとの脚本から古田新太さんが二役で、信長と同じ顔等の、歴史上の「たられば」がだいすきな人間としては激アツ過ぎる設定が、ごっそりなくなったことがわかって残念に思った。だからこそ今回の花鳥風月のアプローチが、観客それぞれのドリームチーム妄想を捗らせそうでもある。上手だなあ。

 お金をかければ良いものになるなんてことは幻想だが、楽しんだもの勝ち!!という状態にできるエンターテイメントは清々しい。観ないよりは観ることをおすすめするし、多少好みでない部分はあるにせよ、『髑髏城の七人』という作品が愛され続けている理由も感じられた。既に誰かに愛されているものに身を預けてしまえる楽しさこそ、知らないジャンルを知る価値の一つだ。もちろん「鳥」のチケットは購入したし(どうか仕事が入りませんように)、残り2つのシーズンも誰が出ようと観たい。誰が出ようと、なんて言っていられないくらいワクワクする、絶妙なキャスティングになるのだろうけれど。

 

 今日も関東の片隅で、荒涼とした未開の地に囲まれながら、STAGE AROUND TOKYOという「髑髏城」に誰かが迷い込んでいる。

 

*1:2020年までには壊されちゃうらしい、マジかよ!!

ただひとつ、わかったことがあるんだ_ミュージカル「さよならソルシエ」再演配信

 再演千秋楽から1週間程度での配信開始。これからはこれが主流になるのか。「お願いだからブツをくれよ!!マーベラス様!!」と日々呪いの言葉を吐いている。だって配信サイトが潰れたら終わりじゃん。そもそも半年しか楽しめないじゃん。誰かに貸すこともできない。いや、違う、そうじゃない、単純にだいすきな作品に、またもう少しだけお金を払いたいだけだ。だって客席から作品に対してできることは、お金をちゃんと支払うことと、拍手をおくることくらいだから。

 チャプターマークが欲しかったな、とか、そこ切っちゃうんだ、とか、ここは引いて欲しかったな、とかそういう不満がないわけではない(欲を言えば舞台の収録映像は全景も必ず欲しい)。だが観劇における観客の大きなメリットのひとつは視覚の制限が緩いことだから、万人に正解のカメラワークなんて存在し得ない。視覚を意図的に取捨選択できるのが映像の長所であり短所だ。とはいえ配信の画質はなかなかなので、HDMIでテレビ等の大きなモニターに繋いで観るのがオススメです。

 

 さて、再演を繰り返し観ていると、やはり生で観たのとは違う発見がある。その中でも配信で改めて大きく気づかされた点をいくつか書いておきたい。基本的に観劇中は作品に没頭し過ぎて酸欠で偏頭痛になる人間なので、やはり間をあけずに配信してくれるのはありがたい限り(でも配信終了後は円盤にして欲しいな!!どれだけでも待つから!!)。

 まず、フィンセントがテオドルスの名前しか呼んでいない問題。これみんな知ってたの……わたし劇場では全然気がつけなかった……だって再演では、若手画家たちとより親しげで、名前くらい呼び合っていそうな気がしていたから。でも映像で確かめれば、フィンセントが発する名前は、「テオ」の二文字だけ。自分を殴ってくる相手にすら、「テオの知り合いなの?」と問う始末。それで一本のお話が成立してしまうのはとてもすごいことで、そして名前を呼び合いそうだと錯覚させてくれた、平野さんのお芝居もすごい。

 孤独だったのは、本当は誰だったのか。

 

「考えろ 考えろ 考えろ 考えろ 考えろ 考えろ 考えろ 考えろ 考えろ 考えろ 考えろ 考えろ 考えろよ!!」

「芸術に無知、人に無知、すべてに無知」

「あんたみたいにボンクラで 自分のことも 他人のこともわからない」

 そんな風に形容されたフィンは、テオが驚くほどの決意でもって、教会で自ら一度死ぬ。ここの照明、グワ~って感じ(語彙力)だから、ぜひ観て欲しい!!そして3年後、最近よく考える、と手紙に綴ったフィンの結論。

「ただひとつ、わかったことがあるんだ きっと 神様が与えてくれた本当のギフトは、きみだったんじゃないかな」

 確信めいた言葉と笑顔。ただでさえ泣けるシーンなのに、兄さんが考えに考えた結果だったとわかると余計に泣けて仕方がなかった。

 兄さんは、テオよりテオのことを覚えている。だって「兄さん」だから。テオが考えろと叫んだことも、テオと見たあの空のことも、ちゃんと全部覚えている。フィンを生かしているのはテオのようで、本当はテオを生かしていたのはフィンだった。さだめに気づいたのはフィン、死ぬと言ったテオにさだめを与えたのもフィン。だって兄さんだからだ。

 

 これをパチパチ打っているだけで泣けて来るのだけど、本当に再演があって良かった。だいすきな作品がひとつ増えたし、また観てみたいと思う俳優さんがひとり増えた。こうやって、どんどん観たいものは増えて行く。

 

 収録物が生の舞台を超えることはない、とわたしは思っている。だってそれは舞台表現のための作品だから。けれど映像を観ながら、千秋楽のほうが良かったなあ、とか記録と記憶を好き勝手に比較して、自分の記憶をより美しいものにできる。それは収録された舞台映像でしか、得られない楽しみだとも思う。

 

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絵の具をたくさんありがとう_ミュージカル「さよならソルシエ」

2017/03/20(月・祝)夜_千秋楽_前方センターブロックにて観劇

 

 一番驚かされたのは、平野良さん演じられるフィンの歌声。信じられないほど透明で、力強くて、そして包み込むように優しかった。天才は自分を天才だと気が付かないらしいが、まさに純粋に天才的に絵画と弟を愛した人物をストレートに歌い上げてくださった。終盤、テオ、と呼びかける歌声は初演の時から印象的だったが、今回のそれはあまりに透明で、それでいて透き通った愛に満ち溢れていた。

 次に震えたのは、テオが初演より遥かに「ヒト」として生きていたこと。初演の記憶の中のテオはまるで機械のように振る舞い、兄の前でだけは誤作動を起こすロボットのようだったから。彼が新しい芸術家たちに向けるあたたかい眼差しや、敵対する者たちに対する強張った表情は、初演の氷のようなテオより遥かにわたしの心を強く揺さぶった。

 劇場の違いもあるのだろう、今回は本当になにもかもが「まっすぐ」に伝わって来て、涙も心なしかさらさらと水のように流れた。

 

 なにかを崇拝して、そのなにかが自分に応えたがために壊れてしまった時。その葛藤はふつう、一人の人間の中で起こることだと思う。夢を叶えたは良いものの、その夢の現実に打ちのめされた時。願いが実現して、それまでの犠牲に気付いてしまった時。テオが兄を失った痛みは、わたしたち誰もが、一人の人間としては経験したことがある痛みなのではないだろうか。けれど彼らは、兄弟だった。

 妬み、恨み、嫉妬しながらも、その才能を愛した弟。テオの目線で語られるフィンの姿は確かに天才ではあった。だがわたしは、フィンもまた、ただの兄だったのだと思った。弟の信頼に、期待に、愛に応えただけの兄。

 だから彼らの別離は途轍もなく痛々しいし、この『さよならソルシエ』という、テオの描いた絵の真実を信じたくなってしまう。兄弟とはいえ別々の人間たちが果たしてここまでコインの裏表のようにひとつになれるのか。いや、なれたのだと祈るような気持ちになる。

 

 舞台という表現の性質上、どの公演が素晴らしかったかを断言するのはナンセンス。けれどわたしたち観客は公演ごとの差異に常に目を光らせ、その違いに一喜一憂する。それは確実に、舞台の楽しみ方の一つだとも思う。

 だからこそ再び観られて良かったと思える再演に仕上げてくれた『さよならソルシエ』のスタッフ・キャスト陣には、感謝の気持ちしかない。欲を言えば印刷された絵のサイズが微妙な点や、兄さんが横たわっていたベッドが今時過ぎる点、年老いたテオの指先まで配慮はして欲しかったが、それは最高だったからこその粗探し。再再演があればと願う。

 再演を経てまた初演を振り返りたくなった。初演の円盤を観たら再演も観たくなるのは、最早わたしたちが炎の画家ゴッホの「もしも」の物語を信じていることと同じくらい明らかだ。だからまた必ずアンケートを書く。絵の具をたくさんありがとう、そんな透明で当たり前の気持ちを込めて。

 

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ミュージカル『刀剣乱舞』三百年の子守唄_2017/03/12昼

後方上手ブロックにて観劇

 

 「手に入れた以上、なくすことはできない」そんな台詞を、荒木宏文さん演じるにっかり青江が言う。積み重ねた時間の分だけ、苦しいことは増える。それは100年も生きはしない人間ですらそうなのだから、刀剣男士たる彼らの痛みは想像もつかない。けれどもしも悲しみと同じかそれ以上に、彼らが喜びを見出せていたら。時間軸の違う存在がともに同じ刹那の時を過ごす、張り裂けそうなほど切なくて、それでいてあたたかい物語だった。

 そもそもの任務の内容や、彼らと周りの人間の間に流れる時の描き方にはいくつも疑問は浮かんだ。だが中盤に流れる一曲はただただ美しい。これまで刀ミュを支えていたヒーローショー的な見せ場やアイドル要素を廃して、純粋なミュージカルとして上演して欲しかった。とはいえ想像上のイラストが生身の人間となる楽しさはやはり健在。トライアル公演から応援し続けて、もう卒業かなと思っている人にこそ、聴いて欲しい子守唄だった。

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