ミュージカル『SMOKE』再再演:君自身を偽造するのもやりがいのあることだろう

 浅草九劇でのMusicalSMOKE』再再煙も、残すところあと数日となった。わたしはあと二回劇場を訪れる予定だが、改めてMusicalSMOKEに対するいまの所感をまとめておきたい。

 浅草九劇での三度目(東京芸術劇場での大人版も含めれば四度目)のSMOKEがどのように時世を内包して生まれ変わったかは、すでに書いた。震えるような感動を補うべく、わたしは詩人・李箱その人への造詣を深めようと関連テキストに手を広げたが、結局付け焼き刃に終わった。というより、日本語で書かれた論文は少なく、主観的でない研究(そんなものあるのか?)ないしは、フラットな知識を与えてくれる文章は、容易には見当たらなかったのだ。

 だがそもそもの「李箱」との出会いがMusicalSMOKE』という主観的かつ限定的なものなのに、なぜわたしは第三者の学術テキストを探しているのかと我に帰った。芝居のモデルを識ることは多角的な視点をくれるだろうが、それよりもまず劇場で感じ、記憶からこぼれ落ちそうな言葉を、書き留める努力をしたい。

 

 三度目、舞台の構造的な変化はもちろん、そこで演じるキャストの組み合わせ、そして伴奏者が増えた。再演時で超、海、紅がそれぞれ三名の役者によって演じられた以上に組み合わせは複雑化し、劇中の「最初で最後のチャンス」という言葉そのままに、観客の目に触れるのは一度きりの組み合わせもある。

 穿った見方だが、初演の煮詰め切った空気感とは打って変わって、演者すら自分たち三人(と伴奏者ひとり)が、その日なにを生み出してしまうのか、わからないのではないか。想像でしかないが、今回が初見だった場合、このどうなるかわからない空気感によって、冒頭の誘拐のシーンをよりわかりやすく受け取れるように思う。つまり三人に距離感があるからこそ、観客は物語を急発進させる「誘拐」を、文字通り「誘拐」として受け取る。李箱の内面の葛藤ではなく、どこかに囚われた青年、令嬢の誘拐、海を目指す少年のような青年は、個々人として歌い出すはずだ。

 

 改めて初演、再演を振り返りつつ、三度目で感じた「距離感」を考える。セットの変化だけでは片付けられない距離だ。もしかすると、我々の日常が形容し難いほど、かつてとは様変わりしてしまったことが大きな影響をもたらしているのかもしれない。

 人間どうしが距離を保つことが日常になった以上、それまでと同じ芝居で非日常は生み出せるだろうか。繰り返しになるが、観客と演者の安全を確保する装置を舞台構造として昇華した作品が、中身をそのままにするだろうか、という疑問がある。超も海も紅も、距離がある。それはもしかすると人数が増え、組み合わせが複雑になり、単純に接した回数や時間の影響かもしれない。だが距離があることが恒常化した世界で、距離がなかった頃のアプローチを重ねたところで、最後の飛翔が果たして「救い」たり得るのだろうか。

 

 もうひとつ、物語に対し観客として新たな距離感を感じた理由は、「舞台の正面」が変わったからではないかと思う。初演、再演ともにNブロック(画材が置いてあるサイド)が基本的な正面位置だったが、今回はEブロック(アダリンサイド)がおそらく正面だ。それぞれの場面での立ち位置や、視線の方向が細かく調整されているため、どの座席から観ても不公平感なく見どころや発見は常にあった。だが今回、作品の最後にEブロックで提示されるのは、「李箱の横顔」だ。

 横顔、切り取られた側面。だが横顔で終わる物語も、感染予防から意図せず生まれた結末ではないように思う。前回と同じことを繰り返したいのであれば、Nブロックをそのまま正面として、劇場はもちろん、映像配信であっても「李箱の正面」で締めくくってもよかったはずだ。だがEブロックに座れば、アダリン越しの絵画のように縁取られた視座が、三度目の正面であることがよくわかる。MusicalSMOKE』は実在した詩人・李箱を題材にしたフィクションだ。そこから窺い知れる李箱は、舞台が描いた虚像だ。我々は(主語を拡げ過ぎているかもしれないが)、李箱を知り、彼の葛藤を知り、こころの衷すら知りえたように思い込む。だが果たしてそうだろうか。

 感情移入。これまでは「善」とされた状態であり手法だ。受け手は物語に没入し、我がこととして結末を捉えてこそ、こころは震え、感動できる。だが今回、本来であればもっとも物語を真正面から受け取れるであろう位置に座っても、観えるのは横顔の結末だ。そこにある距離は、そのまま実在の人物としての李箱との埋めがたい距離のように思えた。

 初演、再演時には感じなかった「肺病病み」の恐怖はいま、手触りのある危険として我々を取り囲んでいる。李箱の無力感をいまようやく客席が共有していても、横顔しか見せない李箱には、こう言われているような気がする。「才能のないインテリどもが、的外れな批評ばかりを繰り返す!」と。つまるところ食い入るように見つめていた観客は、所詮「僕を見つめるその瞳」であっただけで、ビニールの一枚ごときがその距離感をさらに拡げるほど、近くはなかったのだと思い知る。日本と韓国を隔てる海に、ビニールの衝立一枚を立てたところでその距離感が大きくなったりはしないように、近いと思い込んでいた初演、再演でも、舞台と客席、作品と観客には、海溝のような大きな隔たりがあったのだ。

 

 だがそれでも客席で感情を揺さぶられ、時代的にも遠く離れた李箱の人生を繰り返し見つめたくなるのはなぜか。ひとつの伝染病が現代の我々にもたらした「距離」は、実は大きな篩の役目を果たしているのかもしれない。

 距離があっても会いたいか、声が聞きたいか、話したいか、まだ繋がっていたいか。距離があっても劇場へ行きたいか、芝居が観たいか、「小石だけど飛んでみる」のか、「行くと決めたら最後まで行くのか」。パンデミック下での我々は、誰もが抗いようがないほど孤独で、「そこには誰もいない」人生を歩んでいることが明らかになってしまった。李箱が生きた百年前となにが変わったかと言えば、なにも変わっていないような気さえする。

 

 三度目のMusicalSMOKE』は、徹頭徹尾、鏡の向こう側の物語だった。だが李箱が鏡のなかの「鏡像」に助けを求めたように、わたしたちもまた劇場に「虚像」を求めている。それが結局は薬にはならないと知っている、重病人が運び込まれるべきは劇場ではなく病院だと、誰もが現実的になってしまった世の中だ。ただ、劇場という閉ざされた空間、限られた時間だけが癒してくれる痛みはたしかにある。

 世間という鳥籠に閉じ込められている以上、距離などないと自分自身を偽造し、アイロニーを実践してみるのもいいかもしれない。ウィットとパラドックスと。一度も見たことのない舞台装置によって、むしろ作品は安全で気高くなったのだろう。煙で肺を満たし、剥製の天才に共感した素振りで、わたしたちもまた「飛んでみよう」とひとりごちるのだ。


ここからは繰り返しのようなあとがき

 二年ぶりに煙を吸い込んで、飛べたような気がした。久しぶりにブログを更新しようとしたら、わたしはパスワードを忘れていた。はてなブログに登録していたメールアドレスも不確かで、結局はおぼろげな記憶を頼りにアカウントは復活できたが、改めて人間の記憶の都合のよさにおののいている。「一生忘れない」なんて強い言葉は、安易に発するものではないのだ。自分で決めたパスワードすら、忘れる人間ならばなおさらだろう。

 浅草九劇に通い続けていたら、もうひとつ気づいたことがある。大してすきでもない仕事に追われ、すきなことから遠のいていたわたしは、いつの間にか自分の「袋」をどこかに置き忘れてしまったようだ。知らず知らずのうちにあいてしまった穴を、いまどうやって埋めようかと思案しているところ。劇場へ行くたびに少しずつ新しいなにかが胸の虚さを埋めてくれるような、薄い皮膜が再生するような、わずかな回復の兆しを感じている。

 だからわたしの「超」や「紅」は、まだわたしを見捨てることができないでいる。MusicalSMOKE』は、劇中のコーヒーのようにわたしの眠ってしまっていた「舞台を観たい気持ち」を目覚めさせ、こうしてブログを綴る気力さえよみがえらせた。やっぱりわたしは大山真志さんが演じる「海」や「超」を繰り返し観たい。「超はすきなだけ詩が書ける」と、たまたま落ちたぐしゃぐしゃの原稿用紙を丁寧に広げて大切に胸に抱きしめるのも、「その責任を全部押し付けた」と暗く足踏みしているのも観ていたい。池田有希子さん演じる「紅」が、自らが傷つくのも厭わず語る、袋の話を何度でも聞いていたい。内海海が階段を駆け上がるように李箱という現実へ堕ちていくのも、中村海が飾り気のない少年から、端正な青年として切々と語るのも観ていたい。東山超の冷たいようでいて隠せない人情味も、山田超が不甲斐なさに彫刻のような冷静さを崩すのも、伊藤超が限界だと言いながら、「李箱」という自分自身に生真面目に勝ち目のない戦いを挑むのを観たい。木村紅が歌で紡ぐ景色も悲しみも憎しみも、皆本紅が鼓舞する夢も理想も現実も、井手口紅が最初から最後まで導く物語もずっと観ていたい。そして、焙煎海が見た「海」を、また数年後に観させて欲しい。叶うなら、いままでこの作品を送り届けてくれた初演、再演、再再演のキャストをまた浅草九劇で観たい。

 観客としてできることは劇場へ通い続けることだけだが、願うだけでは足りないから、取り出した瞬間から腐ってしまうことを承知で言葉にした(今回のSMOKEのグッっと来たシーンだけで数日語れるし、文章にする際にはだいぶ自重している)。短く、短く、と念じながら書いたが、もうすぐ四百字詰めの原稿用紙十枚目が埋まってしまう。大阪行きの予定を組んではいるが、まだチケットも買っていないし、宿も新幹線の切符も買っていない。わたしはまだ、浅草九劇にいたいのだと思う。