Show must go onを叫ぶのか

 芝居がすき、舞台がすき、ライブエンターテイメントがすき。一口に「すき」を切り取っても、その「すき」は様々だ。政府から不要不急の外出を控え、自粛が求められる中、誰かの「すき」が自粛の大波にのまれる日々が続いている。わたし自身、すでに手持ちのチケットが払い戻し対象公演になり、それなのに通勤の満員電車に乗らなくてはならない不条理に辟易している。マスクが品切れた東京で、心の支えを奪われたような毎日だ。

 だが久し振りにブログを綴るのは、劇場を封鎖するのは間違いだと言いたいからではない。わたしが憤っているのは、本来一個人単位での自由が認められるべき「娯楽がなんたるか」を、知らない誰かの集合体によって勝手に定義され、あまつさえそれを「不要不急のもの」とされたことに腹を立てている。

 

 舞台芸術尊いものか、人類が生きる上で必要なものなのかを、今見定める必要はない。それは一個人の価値観の問題であるし、生命維持の観点では筋違いの論争だ。ならばなぜ他人の「娯楽」を「不要不急」と決めつけることが、いかに傲慢な行為であるのかがわからないのか。食べ歩きが娯楽の人もいれば、筋トレが娯楽の人もいるだろう。だがこの非常事態にあたっては、娯楽がなんたるかを問わず、感染拡大を助長する行為が感染を拡大させない=人命最優先で制限されるべきだ。これは不要不急、これは不要不急でない、というあやふやな判断基準が蔓延するこの国で、真綿で首を締められるような圧迫感を感じる。

 

 例えばニューヨーク。500人以上の集まりを禁止するという明確な手段に出た。

オバマ前大統領も、「バスケットボールを愛しているけれど」と前置きした上で発言している。

「エンターテイメントは命に関わらないのだから自粛すべき」という批判が、なぜ「人が集まる行為は感染拡大に寄与する可能性が高いのだから、すべからく自粛すべき」にならないのか。曖昧な定義を振りかざし、にもかかわらずそれぞれの明確な「娯楽」「娯楽でない」判断基準での行動を求められる社会とは、果たして個々人の思想の自由が認められた現代社会と呼べるのか。

 

 繰り返しになるが、舞台が人類にとって必要か、必要でないかを論じるつもりはない。誰かにとっては娯楽でも、誰かにとっては仕事であることは舞台の他にもたくさんある。冒頭で述べたように、個々人の「すき」は多様で良いはずで、それが法律に抵触した際には強制的に制限されるべきもので、その制限が個々人の判断に委ねられないために法律があるのだと思う。吉良吉影は切り落とした爪を保管するという大半の人間にはおぞましく感じられる趣味があったから悪なのではなく、殺人を行ったから悪なのだ。劇場に集まる行為が娯楽であるかないかにかかわらず、感染拡大の可能性を孕んでいるならば残念ながら延期ないしは中止される声があがるのは当然で、だがそれならば感染拡大を孕んだ行為すべてが、同じように制限されるべきだろう。

 

 

 こうした不可抗力的な緊急事態において、改めて経済活動としての演劇を考える。いや、演劇人たちの主張、わからなくはないが「悔しい」って言ってても始まらなくない?と思ってしまう。というか何公演か潰れてもおそらく生活がいきなり破綻することはないであろう舞台人たちは、「それでも開演したい!」ではなく、なぜこうした非常事態に際して、なぜ演劇界が自分たちを護り得る手段を持てていないのかを疑問視しないのか。

 失業保険や休職手当はサラリーマンのものだから。いや、そこで思考停止するならば、現状を糾弾するのもやめたほうがいい。公演が予定通りにならなかった場合のセーフティネットを考えずに舞台の重要性を社会に説いたところで、今まさに疲弊している人々を救えるのか。一公演でも延期ないしは中止すると、それがまっすぐ廃業に通じてしまう演劇界の常態化した不安定さを今こそ改善すべきではないのか。サラリーマンだって公務員だって、なにもしないで恩恵を享受しているわけではない。具体性の乏しい芸術論や根性論、それこそお気持ち理論を持ち出したところで、そしていくつかの公演を無理やり強行したところで、根本的な解決にはならない。

 

 いやほんと「だって失業保険とかないんだもん!舞台はアートなんだもん!」という雰囲気の大きなお友だちが多くて驚いている。演劇界の偉い人たちは継続して失業保険の適応対象の拡大とか、逆に大きな組織をつくって行政に訴えるとかはしているんですかね……軽くググっただけでも日俳連とかは要望書を提出したりはしているけれど、正直今回のパンデミックに差し当たっての舞台系の意見表明は、お気持ち理論で漠然と主張して終わった印象しかないです。

 

 この恐ろしいウィルスが一日も早く終息すること。そして浮き彫りになった、演劇界・舞台界隈の問題点が改善され、実現可能な手段でもって職業としての継続性が担保されることを、いち観客として願っている。