『髑髏城の七人』Season月(上弦の月)_2018/2/11昼夜、2/13昼夜

 我慢できない性質なので、先週末と週明けに上弦髑髏城をマチソワした。もちろん平日公演は有給休暇を三途の川に捨之介。さすがに4公演連続で観れば満足できるかと思いきや、やはり髑髏城はわたしを捉えて離さない。

 

 さて先日、初めて訪れた神社でおみくじを引いた。

立ち寄れば そでになびきて 白萩の

花のか ゆらぐ 月の下かげ

 もうまるっとお見通しか、と叫びたくなるくらいの内容だった。上弦の月を見上げれば見上げるほど、花髑髏を思い出す。そして、この作品に巡り逢えて本当に良かったなあと思う。ふとブログを読み返せば、花髑髏を初めて観た日から300日が経とうとしていた。

 月髑髏には希望がある。花鳥風月の最後を飾るのは若手中心の上弦と、声優・2.5次元系のキャリアを築いた俳優さんを多く集めた下弦の月。そのどちらにも、紛れもなく希望がある。20年以上愛され続けた作品が提示してくれたのは、成長し続けることへの明るい希望だ。それはもちろん極で締め括られることも含めて、誰かを楽しませようとするたくさんの人の心意気が感じられるものというのは、やっぱり良いものだ。もっと早くに出逢えていたらと後悔する反面、この髑髏イヤーに立ち会えたことは本当にラッキーだと思う。

 

 捨之介。一人の人間の成長とは、かくも美しいものなのか。変化があったのは2/11昼公演からだと記憶しているが、殺陣のキレというか抑揚や、台詞回しから顔の表情に至るまで、すみずみに神経が行き渡った姿は観ていて爽快だった。それまでは「捨之介」の型にはまって、どこか窮屈そうだったものが解き放たれたような。一幕でのスケコマシ風の笑顔も、二幕での痛みを乗り越えた先の力強い笑顔も、紛れもなく唯一無二の「福士捨之介」だった。終盤は、「ちゅてのちゅけ、ガンバえーーー!!」としか考えられない。もちろん「きいまゆもガンバえーーー!!」だ。と同時に、あの背が高く飄々として、ニコっと笑う捨之介は、記憶の底に眠っていた花髑髏の小栗捨之介をもう一度鮮やかに思い出させてくれた。

 ある役者さんを観て他の役者さんを想起することは、果たして良いのかとも思う。けれどどうして上弦に通い続けているかといえば、不純な動機だが「花髑髏をもう一度鮮明に思い出せるから」ということが大きくある。

 花髑髏はわたしにとって初めての『髑髏城の七人』。一度目にどこか疑問が残り、二度三度訪れるうちに、ずっと観ていたくなった。観る度になにかを取り零したような気持ちになって、終には千穐楽まで、目を皿のようにして観続けた。基本的にハマりやすい人間だと自覚しているが、このハマり具合は小学生の頃に観た『The Lord of the Rings』以来だった。

 自分はしつこい性格だから、すきになった作品は何度も観て、それが与えてくれる楽しさを貪り尽くしてしまうようなところがある。けれど時にその楽しさが重層的過ぎて、まるで楽しさが大波のように押し寄せるような作品に出逢えることがある。『髑髏城の七人』は、まさにそのタイプの作品だった。

 

 無界屋蘭兵衛。なぜ彼(もしくは彼女)が魅力的なのか未だにわからない。単純に言ってしまえば裏切り者だ。蘭兵衛が提示するのは歴史上の人物を題材とした、もしものファンタジー。蘭兵衛が悩んでいるのは織田信長の意志を継ぐか、自らが築いた安住の地を衛るかという、壮大過ぎる悩みであり、明日仕事行きたくねえな、などというわたしの悩みとはおよそ相容れない。つまり感情移入から夢中になっているのではなく、どちらかといえば傍観者だから面白いという、あくまで観客的な楽しみ方をしているような気さえする。

 けれど無界の里を単身去って行く蘭兵衛さんを観ると、泣きたくなるのはなぜなのか。お願いだから止めて、と沙霧や霧丸に言ってしまいたくなるのはなぜなのか。太夫、と声を張り上げる蘭丸の最期の姿を観て、胸を掻き毟られるように辛くなるのはなぜなのか。

 

 それはきっと『髑髏城の七人』という作品が、間違いなく観客席に座る我々を戦国末期の髑髏城に迷い込ませるからに違いない。そして我々は時に無界の里の柳になり、贋鉄斎の庵の苔となり、関東荒野に降っていた雨になれる。またこの空気に浸りたい、この空気の一部になりたいと思わせられてしまう。髑髏城には、前述したような日常的な鬱憤を、秒で振り払って心を生き返らせる力がある。

 

 上弦の三浦蘭兵衛さんの、無愛想でなかなか心を開きそうもなく、けれど過去に縋るような蘭兵衛解釈がわたしは単純にだいすきだ。結局は刀を捨てられない性を持て余し気味にしている蘭兵衛さんを観ていると、二幕でそれを捨てられなくなることを、一幕から伏線的に示してくれているとさえ感じる。どうしてああも刀を投げ捨てるのかと思うが、もしかすると昔の自分を思い出すようでイヤなのかな、と勝手に想像している。そんな妄想の余地が多い点も、みうらんべえさんもとい髑髏城を観ていて楽しい理由の一つだろう。

 クドキのシーンでの幼さは、上弦「無界屋蘭兵衛・蘭丸」ならではだ。それまで若いながらどこか達観したような面持ちで振る舞い、「無能な者ほど数に頼る」と、狸穴二郎衛門を威嚇するように言ってのける蘭兵衛さんが、クドキでは一転して子供のように無防備で、されるがままになってしまう矛盾。花蘭兵衛さんは自ら選んでクドかれたように思えたし、鳥蘭兵衛さんは逃れようのない感じがして、風蘭兵衛さんは殿との再会のようであったから、上弦蘭兵衛さんの陥落は、一幕がオラオラしているだけにマジかよと頭を抱えさせられる驚きがあった。だから花鳥風月の最後でまた新たな蘭兵衛解釈が築城されるとは、と、もちろん蘭兵衛さんだけでなくすべてのことに対して、嬉しいような悔しいような気持ちを抱く。結局、一度髑髏城に足を踏み入れたら最後、我々は中島かずきさんといのうえひでのりさんの手のひらの上で(月髑髏冒頭の安土城での)髑髏ダンスを踊るしかないのだ。

 

 さまざまな役者さんによって一人のキャラクターが多様に演じられる時、この人はこう演じるのかとワクワクできる楽しさは、本当に贅沢で貴重な経験だと思う。なぜって現代においては何れにしても物語の恒常的な普遍性よりはむしろ、オンリーワンであること、それこそ言ってしまえばハマり役であることを善しとされるように常々感じるからだ。

 最近、特定の演者さんから解放された時、舞台脚本はある種特別な普遍性を抱くのではないかと思うようになった。つまりアカ・アオ、若、花鳥風月が成り立ってしまう時点で、『髑髏城の七人』は、水戸黄門やそれこそ近松心中物語のように、古典的な普遍性、観客からすれば途轍もないほど贅沢な楽しみ方のできる物語へと解放されているのではないか。

 長男・蘭兵衛、次男・捨之介、末子・天魔王。花髑髏の三兄弟、三すくみ(蘭兵衛がグー、天魔王がパー、捨之介がチョキ)の関係性に夢中になった、去年の春。今年の冬は双子的に観える天魔王と蘭兵衛、そしておよそ8年前には天にかかずらわってはいなさそうな捨之介の関係性に悶え、劇場を出てからも妄想を拗らせている。至極当然のように花鳥風月での違いを享受しているが、一つの作品がどのように演じられても面白く、それでいて同じ物語として成り立っているというのは、もう奇跡としか言いようがない。

 

 上弦でずっと引っ掛かりを感じていたのは、天魔王という存在だった。だがそれも後半に入って、自分としての解釈はあの蘭丸の最期の場面で決着がついた。自らを庇った蘭丸に見せる天魔王の狼狽は、日を増すごとに色濃く観えた。こうして場面場面を観た印象が、万華鏡のように変わり続けることこそが、観劇の醍醐味だろう。だが普遍性を持ったお芝居だと理解はしていても、心のどこかでまた花髑髏が観たいと思ってしまう自分がいる。

 そうまさに、月の下にいると思っていたら、花の香りにはたと気付くような。結局わたしにとっての髑髏城とは、花髑髏なのだと思い知らされるような。それをまさか月髑髏に通うことで自覚するのは、なんだか不思議な気持ちだった。みんな違ってみんないい。花鳥風月を経て抱くのは、そんな月並みな感想だ。

 

 こうして自分にとっての髑髏城を抱きながら、ぐるぐるとさまざまな髑髏城を眺められる日々は、もうすぐ終わってしまう。普遍的であることも、代替の効かないシロモノを心に築城してしまったことも含めて、ほぼ1年に渡ってわたしたちを楽しませてくれた『髑髏城の七人』には、感謝の気持ちしかない。 

 月髑髏が終われば、Season極が始まる。「天魔王が影武者として本能寺で死に、本物の織田信長が再び天下に手を伸ばそうとするお話」ではないかと時々妄想しているのだが、果たしてどうか。唯一確かなのは、きっとまた夢中になってしまうだろうということだけだ。