それでも通う、すきなものはすき

 観る前から泣きたくなっているのはなぜだろう。彼が綴る言葉がすきだった、彼が語る言葉がすきだった、彼が演じる芝居がすきだった。年明けに予定されている舞台、もちろん最速先行で千穐楽のチケットをおさえた。来年も楽しみがあるのは素晴らしいことだと思っていた。今は、「ボディブロー」を食らったように、吐きそうで、悔しくて、つらい。

 

 昨年、ある舞台に十回近く通った。初めてそこで彼を観た、生の芝居の揺らぎを勝手に解釈しては、その贅沢な余韻を豊洲の帰り道に反芻するだけで、明日も仕事を頑張ろう、生きようと思えた。それから違う作品であっても、彼目当てにいくつかの作品を観た、指先まで漲っているお芝居がすきだった。くるりくるりと変わる表情や、真摯に綴られるブログやメルマガの言葉がすきだった。

 あのインタビューは読むべきではなかったと、今ものすごく後悔している。まっさらな気持ちで、舞台上だけ、作品から受け取れるものだけを受け取れば良かった。けれどわたしは読んでしまった、そしてあれが公にされた以上、わたしはこの気持ちを抱きながら劇場へ向かうしかない。「男性客を連れて行けない女性客でごめんなさい」と。

 ただ同時にこうも思う、観客の客層に性別の偏向があったとして、それのなにがいけないのか。女性が偏って集まっている場所が不自然な場所で、観客が平均値に近付けば良いのなら、それこそ舞台なんていう閉鎖空間はその成り立ちからして間違っている。観客の数を敢えて制限し、そこにいられる権利を商売にしているのだから、そこにある性別の不均衡さは観客に負わされるべき不都合ではない。いっそ券売の段階から、男女比が平等になるように売ってみてはどうか。劇場に女が多過ぎること居づらい場所とされ、女が男を連れて来ることを提案される意味がわからない。興味のない人間が一人来れば、確実に劇場にある座席は一つ減るというのに、なぜ興味がある人間が座席の減らし合いのようなことを推奨されなくてはならないのか。

 

 演劇が娯楽だと思われているから男性が少ないというのも、そこまでの論調からすれば、「演劇は女のものだと思われているから男が少ない」と言われているように感じられた。けれどそれをなぜ観客が、女性客が改善しなくてはならないのか。そしてそれを繰り返し発信することの意図はなにか。それこそ敢えて喩えるが、不良の溜まり場になっているコンビニで、そこにたむろしている不良たちに向かって、不良でない人たちを連れて来てくださいと言っても、客層の不均衡は到底解決されるはずがない。そして警鐘のように発せられた言葉が、これまで応援になるであろうと思って続けられて来た、観劇オタクたちの「できる限り劇場に足を運ぶ」という行為を、根本から否定するとは思わなかったのか。

 同じ人間が複数回同じ作品を観るということは、間違いなくその作品を生で観る人間の絶対数を減らすことだ。繰り返しになるが、求められたチケット代という対価を支払って、そしてあくまで自由意志に基づく行為だが、クソ面倒臭いチケット先行や発見に時間を費やして座席を埋めた行為は、つまるところ彼の善しとする観劇行為からは逸脱した行動だったのか。またそうであるならば、求められていない、そもそも来て欲しくないと発信されている場所に、一万円前後のお金を払って通うなんて、わたしにはできない。これまでもこれからも、舞台という閉鎖空間へ、自発的に行きたがらない人間を連れて行こうとは思わない。それはきっと誰かの観劇体験を阻害することにも繋がりかねないし、興味のない人間が座るほど、劇場は広くはないと思うからだ。女性客と括られる、「観客」でなく「女性客」とされるくらいなら、まだジャガイモのほうが余程肩身の狭い思いはしなくて済んだ。まだ泣きそうだ、いや、気づいて居ないだけで、もう泣いているのかもしれない。