はじめてのFINAL FANTASY、一度きりのFFXV

 約十年。このゲームは発表されてから我々のもとに届くまで、それだけの年月を要した。普段ゲームに疎いわたしですら、10代の頃にあの新宿都庁をキラキラと輝く剣が舞い、黒衣に身を包んだイケメンがストームトルーパー敵をバッサバッサとなぎ倒して、最後は気だるげに玉座に座るトレーラーを観てワクワクした記憶がある。たまたま引っ越しをする知人からPS4とソフトを譲り受けて、わたしのFFXVはかなり遅ればせながら先月始まった。

 

 結論からいうと、FFXVは本当に面白くて、そして本当にむごい作品だった。初めてのファイナル・ファンタジー体験が、こんなに苦いものになるとは思いもしなかった。小学生の頃、友だちの家でFFXをプレイさせてもらったことがあった。おぼろげだが紫色の床をぐるぐる走って、なにかに攻撃した。不思議な髪型に派手な衣装を着て、魔法や不思議な生物もいて、そしてお話はファンタジーでちょっとだけ泣ける、それがFFだと思い込んでいた。

 

 ゲームのプレイ性やオープンワールドとしての性能云々は、わたしにはわからない。基本的に普段ゲームはやらないし、そもそもゲームは難しいもの、という思いが強い。だから初めて握ったPS4のコントローラーが震えるだけで面白かったし、自由自在に移り変わるグラフィックは、見ているだけで面白かった。

 始めた以上は3月中に終わらせてみようと思い、わたしは基本的にメインクエストのみクリアしていった。装備品もよくわからないままそれっぽいものをもたせて、魔法を錬成する時に「炎・氷・雷」以外にもそれこそ食材を混ぜたりできることを知ったのは、旅の終盤になってからだった。MAPを見ながら効率的に、なんて発想自体がなかったから、イグニスのレシピは増えないし、イージーモードでプレイしたから、戦闘も基本的には「ルビーの光」が光りまくってどうにかなった。チュートリアルに出て来たテトカーバンクルは、「きみがピンチになったら助けに行くよ」とか言ってたくせに、助けに来てくれることはなかった。それなのに、わたしは旅を続けた。

 

 夜のドライブはやめろと言われてもそのまま運転して、レガリアはボロボロになった。夜の道をウロウロしていたら、筋肉質のモンスターが出て来て朝まで戦うハメになった。食材集めをしないでいたら、おにぎりかトーストしか食べられなくなった。王子のくせに、いつもお金が足りなかった。アーデンとのドライブは多分8回はやり直させられたし、基地への潜入も、何回見つかったかわからない。洞窟に入れば狭い道を通れるポイントを見落として先に進めず、結局ググったりもした。

 使命があるのに友だちの妹にはモーションかけられる(死語)し、友だちは写真撮ろうってうるさいし、お前の盾になるとか言っておきながら勝手に旅を離脱する奴もいた。けれど「最後のルシスを満喫する」。そんなタイトルだけで、3月中にクリアするという謎の自分目標を延期しようとすら思った。とにかく離れ難い思いと、それでも破綻したストーリーを進めなければならない矛盾に苦しんだ。

 婚約者のルーナは護衛もつけずに歩き回って、フェニックスの羽で復活できそうな刺し傷で死んだ。死ぬってわかっていたけれど、あそこで初めて泣いた。ボタンを押しているだけで巨大タツノオトシゴリヴァイアサンは倒せたのに、街もメチャメチャになってルーナも死んだ。自分はフェミニスト思考*1がちょっとあるから、ああいうピンチの時も女はドレス♡みたいな短絡的思考に胸が掻き毟られるように悔しさを感じたし、ファイナルなファンタジーならなんとかせえよ!!と思った。なんで死ななくちゃならなかったんだよルーナは、って、まるでノクトみたいに泣いた。

 気がついたらイグニスは失明していて、それなのにノクトが塞ぎ込んでるからわたしも自覚が足りないとか怒られるし、もうイグニスを歩かせたくなくてグラディオに怒鳴られながらもピャーっと走ってアイテムを拾ったらピャーっと戻ったりもした。寂れた駅で写真を撮って来てくれないか、と言い出すモブや、わたしのチョコボちゃんがいないの!!と騒いでいる奴に話しかけてしまって、心底後悔したりもした。キャンプをしてもカップヌードルしかなくて、ああもうなんなんだよ!!もうやめてくれ!!と叫びたくなった。

 

 海を渡ることになる後半から、プレーヤーは「過去に戻る」ことが可能になる。これはレベル上げのためにモブハントやクエストをクリアしておこうね、という見えない圧力を感じるが、この仕組みが本当に残酷だと思った。あの楽しくてくだらなくて、冒険とも旅ともつかないあの日々は、彼らにとって過去になる。主人公であるノクトは宿敵であるアーデンを倒し、夜に蝕まれる世界に夜明けをもたらすべく十年、力を蓄える眠りにつく。ここもツッコみ出すとキリがないので控えるが、FFXVはストーリーが進めば進むほど、為す術なく否応なしに物語が進行してしまうのだ。

 途中途中でここから先は戻れません、といったアラートは出るが、戻れないどころかなにかを変えられもしない。クリスタルに選ばれた王「ノクト」は世界を救うべく死ぬしかなく、どんなにゲームプレイが向上しようが、釣りや見つけ物や料理や写真が上手くなったとしてもそのストーリーラインからは逃れられない。あれだけ自由にダラダラできていたのに、結局は一つの穴に吸い込まれるかのようにお話は進み、そこに幻想や奇跡はない。

 

 十年の眠りから醒めたノクトは、お約束通りに自らの命と引きかえにして夜明けを取り戻そうとする。最終決戦手前、さあ泣け!!と言わんばかりにノクトはこれまで撮りためていた写真から、どれか一枚欲しいと言い出す。まあ、泣いた。ここで泣いて欲しいんだろうなとわかっていながら泣くのは癪だったが、泣いた。もういいじゃん。夜のままでもみんな生きてるし、このままでいいじゃん。 

 十年経ったイグニスの料理の腕は復活していて、あの頃みたいになんでも食べられた。失明したイグニスに、朝が来たのはわかるのかとノクトが訊けただけで泣けた。もうやめよう!!終わり!!みんなでシガイハンターとして生きて行こうよ!!ノクトが死に、恐ろしいほどリアルで無機質な世界に朝がやって来る。結局ノクトの意志ってあったのか。

 

 ストーリーをクリアすると、見慣れた夜空のタイトル画面には美しい変更が加わった。何十時間もプレイして、当たり前になっていた部分が大きく演出されて変更される感動は、時間を拘束するゲームならではだ。けれど痛みのほうが大きかった。朝焼けのメインメニューを見つめながら(徹夜して本当に夜明け前の4時くらいだった)、十年前、自分はなにをして、なにをしなかったのか、そんな思いが津波のように押し寄せた。十年という歳月はあまりに長く、そして短い。そんなことを思い出すためにファイナルなファンタジーをプレイしていたんだっけ。あんまりだ、こんなにも現実が空想を喰らい尽くすような感触を得たいわけではなかった。それなのにFFXVはゲームであるから、繰り返しあの過去に戻ることができる。過去に戻ればそこでの経験は現在に還元されて、それでもやっぱりノクトの結末は変わらない。なにかを変えるために労力を費やすのがゲームだと思っていたのに。

 ああ憧れのポケモンマスターに、なりたいな、ならなくちゃ、絶対なってやる〜というようなものがゲームだと教えられて来たのに。けれどだからこそFFXVは、できるだけたくさんの人にプレイして欲しい。十年前の、今にして思えば自由で気ままだった日々の記憶がまだ鮮明で、それなのに社会という逃れようのない蟻地獄のような仕組みに囚われて、辟易としているような人にこそプレイして欲しい。

 

 この物語から得られる唯一の救いは、結局わたしたちはゲームのキャラクターではないという一点だけだ。それを実感させてくれるゲームは、滅多にないんじゃないかなと思う。

 ちなみにPS4をネット環境に置かなかったために、わたしはリリース後の修正が入っていない状態でプレイした。かつ英語でのプレイだったから、伝説の「やっぱ辛えわ」は聞けず、It’s more than I can take(だった気がする).で普通に泣いた。最近はロイヤルエディションを最初からプレイし直しているけれど、ただもう二度と、あの先がわからず運命に翻弄される、辛いけれどかけがえのない旅を、初見時のような心持ちで経験することはできない確信がある。

 良くも悪くもあの経験は、人生のように一度きりだった。土埃と雨と草の匂いと波しぶきと、暗い洞窟に少しカビ臭そうな水路と誰もいない廃墟と化した故郷を歩いたあの旅は、やり直しの効かない一本道だった。それがゲームとして正しいのかはわからない。けれど間違いなく、FFXVをプレイして良かった。わたしにとっては切なくて苦くて甘い、どんな時でも側にいてくれと言いたくなるような、初めてのファイナル・ファンタジー体験だった。

 

*1:ここらへんの動画に影響を受けた気がしています。