『Indigo Tomato』と『修羅天魔』

 久し振りにブログを書いている。去年は観劇すればほぼ必ず書いていたけれど、正直かなりつまらない作品に出会うことも、実生活もいろいろあって滞っていた。そもそも不平不満をブログに書きたくないのは、スキよりキライのほうが、余程明文化しやすいからだ。

 

 さて、とある週末に『Indigo Tomato』と『修羅天魔』を観た。初めて訪れた博品館劇場はこじんまりとしていたが、そこで提示された世界は明るく直線的で爽快で、観劇後にトマトジュースが飲みたくなるような、清々しい初夏にぴったりのミュージカルだった。まずは主演の平間壮一さん。なぜか上弦の月ではお世話になりました、という気持ちになりつつ観ていたが、本当にすべてがシームレス。彼だけ兼ね役がなく舞台に立ちっ放しで、さらには障害を持った青年の役。得てしてなにかハードルを抱えた人間が登場するミュージカルは急に歌い出すとチグハグな印象を受けたりするものだが、それがまったくなかった。

 高ぶった気持ちが自然と歌になり、歌だからこそ観客として物語を享受できる感覚。平間さん演じられるサヴァン症候群のタカシの、人生の何分の一かのひとときを劇場にいる全員で共有できる感覚。画面越しに観ていたらきっと得られない登場人物との近しい距離感は、舞台を観たという実感に繋がっていった。

 大山真志さん演じられるユーゴという役も、舞台で出会えたからこその説得力があった。アメリカと日本にルーツを持ち、社会的にはテレビ番組の司会者として成功しているユーゴにとっても、「世界は居心地の悪い場所」。タカシが自分を宇宙人のように感じているのと同じように、社会的強者であるはずのユーゴもまた、息苦しさを感じている。どんな苦しさが正しいか、どんな苦しさが報われるべきか、このミュージカルでは、苦しさの順位付けが行われなかった点がとても良かった。

 苦しさは絶対評価であって、相対的に比べられるものではない。想像できるようにサヴァン症候群という障害があり、両親を喪って経済的にも恵まれないタカシと弟のマモルは、最終的にはタカシの数学の才能でもってある程度まとまったお金を手にする。けれどそれでタカシが息苦しくなくなるわけでも、マモルの夢が約束されるわけでも、ましてやタカシとマモルの、いなくなった母親が帰って来るわけでもない。観客が知れるのは、タカシが優しい人々に出会い、そして少しだけ変わることだけだ。けれどたった2時間のうちに、切り取られた一瞬でもって泣ける体験こそが、紛れもない「劇場体験」なのだろうと思う。

 例えるなら赤ちゃんが歩き出す一歩を観た時の感動のようであり、刹那的ではありながらそれは絶対的にも思えて、こういうひとときのために劇場へ通っているんだよなあと、観劇することの価値を改めて確かめられた。

 

 翌日は二度目にして自分にとっては最後の『修羅天魔』だったが、これもまた舞台観たぜー!!という感覚を得ることができた。

 『髑髏城の七人』という作品は、わたしにとって特別な作品だ。おそらくはここ最近で一番足繁く通った作品でもあり、自分がエンターテイメントとして舞台表現に求め得るすべてを実現してくれたような作品のひとつだ。縁あって花鳥風月・極をすべて現地で観ることが叶ったが、このドクロイヤー立ち会えたことは本当にラッキーだった。その髑髏城のマイナーチェンジ版としての『修羅天魔』。

 斬った張ったがだいすきな自分としては物足りなさもあったが、主人公・極楽太夫の着物にあった蓮のごとく登場人物たちが力強く生き抜く様は、前述した通り、同じ空気を吸いながら、誰かの人生を部分的に垣間観れる演劇空間ならではの楽しさに満ち満ちていた。ラストは髑髏城ファンならニヤリとせずにはいられない演出で、花捨之介のごとく、「おそれいったよ、いのうえさん」と、もうこの劇場では観られないであろう七人のシルエットを、網膜に記憶に焼きつけたいほどだった。

 2日間の観劇を通して、やっぱり演劇っていいなあ、という思いに浸っている。まずそこに実体として「ある」ことがいい。舞台上で繰り広げられているのは紛れもなくフィクションであるのに、実体としては現実で、それが映画やテレビドラマの体験とは違う価値になる。フィクションが実体を持っていること、それは途轍もなく説得力のあることだ。

 

 俳優の成河さんのブログから引用すると、

いつからか、「考えさせる演劇」と「楽しむ演劇」を分けて考える、というのが一般的になってきていることです。これはちょっと同意出来ません。なんとなくですが、「ストレートプレイ」と「ミュージカル」という言葉で分ける時も、単にそのくらいの意味で使う人が多いような印象を受けます。その考えのもとでは「共感出来るかどうか」が観劇の大切な要素になり、「好きか嫌いか」が満足の支柱になってきます。

 物語に共感できる、というのは褒め言葉だ。だが人間はそこまでたやすく共感し得ないし、現に『髑髏城の七人』に共感しているかといえば、間違いなく共感してはいない。最近は『アベンジャーズ:インフィニティ・ウォー』にハマっているが、別に世界を背負って立つヒーローや地球外生命体たちに共感しているわけではない。観劇を支えているかに思える「共感」は、もしかすると説得力がある、と言い換えたほうが正しいのかもしれない。

 あまりにかけ離れた2作品の劇場体験の、そのいずれもが楽しかったことに共感という言葉はそぐわない。物語だとわかっていても、そこにいて欲しい、そうであったらと願わせてしまう説得力。生身のお芝居に感じる楽しさの根幹には、矛盾や不公平に満ちた現実世界を離れて物語に説得されることで、癒される部分があるのかもしれない。単純に言えば現実逃避であり、けれどその逃避が、わたしを現実に向き合わせる推進力になっている。