『髑髏城の七人』Season花_2017/04/14夜

 初めての劇団新感線、初めてのステージアラウンド東京、初めての『髑髏城の七人』。急遽当日券で観劇した。一番の理由は次のシーズン「鳥」に、『ALTAR BOYZ』に出演されていた常川藍里さんが出ると教えてもらったからだ。常々観たいと思っていたのだが、そういう小さな理由があると簡単にチケットを増やしてしまう(『ALTAR BOYZ』はわたしにとって免罪符、これは余談)。どうせ観るなら花鳥風月すべて観るべきでは、そんな軽い気持ちだった。

 劇場は空き地に囲まれており、遠くから見えるそれは、アメリカの田舎町のモーテルのようだった。全然ロマンチックじゃないが、このモーテルに今をときめく俳優陣が集い、再演に次ぐ再演に耐え得る作品を上演しているというのだから面白い。埋立地独特の寂寥感と、時折感じる潮風がすきな人はぜひ。観劇後の今だからわかることだが、髑髏城と、あのきっと長続きはしないであろうプレハブ劇場は、根底の部分で繋がっている気がする*1

 

 とはいえまず一番怯えていたのは、「酔うんじゃないか」問題。もともと偏頭痛と緊張性頭痛が持病、という一病息災系の人間だから、本当に怖かった。結論から言うと、おそらく多分、回ることより映像に酔う。回るより早く映像が流れるから、それに視線を委ねてしまうと酔ってしまう気がした。ちなみにわたしは抱きたくもない「酔う確信」があったから、事前に頭痛薬をキメてから観劇した。

 舞台は映像に比べて、観客の視覚を制限する力が良い意味で弱い。長方形の舞台の、どこに着目するかは観客に委ねられている。けれど今回の劇場と作品は、とても映像的な見せ方だった。演者さんが走れば、わたしたちも強制的に回ってついて行くことになり、空間の切り取られ方が「そこを観ざるを得ない」切り取りになる。ただ、視覚をこれだけ操作されながらも、さらにそれを切り取った映像を観れば、あの劇場で得た経験とはまったく別物になっているのだから不思議だ。あそこでしか得られない時間は確かに流れている。

 あとはとりあえずみんな、山本耕史さんの無界屋蘭兵衛を観て欲しい。あれ、だいじょうぶなの、あんなにあんな感じでいいの。ミュージカル『メンフィス』のチケットはどこで買えるの。最高だったんだけど……最早山本蘭兵衛さんのためだけにもう一回行きたいレベルで困っている。正直なところ「山本耕史さんいるんだ、お得だな♡」くらいに思っていたのに、カーテンコールでは「山本耕史最高!!!!」という状態。わたしの語彙力では表現できないもどかしさ。蘭兵衛だけに、華がある。。。打っていて自分でもわけがわからないのだけど、とにかく観て欲しい。そしてわたしが異常じゃないと証明して欲しい。

 

 観劇後、『髑髏城の七人』についていろいろ調べた。もとの脚本から古田新太さんが二役で、信長と同じ顔等の、歴史上の「たられば」がだいすきな人間としては激アツ過ぎる設定が、ごっそりなくなったことがわかって残念に思った。だからこそ今回の花鳥風月のアプローチが、観客それぞれのドリームチーム妄想を捗らせそうでもある。上手だなあ。

 お金をかければ良いものになるなんてことは幻想だが、楽しんだもの勝ち!!という状態にできるエンターテイメントは清々しい。観ないよりは観ることをおすすめするし、多少好みでない部分はあるにせよ、『髑髏城の七人』という作品が愛され続けている理由も感じられた。既に誰かに愛されているものに身を預けてしまえる楽しさこそ、知らないジャンルを知る価値の一つだ。もちろん「鳥」のチケットは購入したし(どうか仕事が入りませんように)、残り2つのシーズンも誰が出ようと観たい。誰が出ようと、なんて言っていられないくらいワクワクする、絶妙なキャスティングになるのだろうけれど。

 

 今日も関東の片隅で、荒涼とした未開の地に囲まれながら、STAGE AROUND TOKYOという「髑髏城」に誰かが迷い込んでいる。

 

*1:2020年までには壊されちゃうらしい、マジかよ!!

ただひとつ、わかったことがあるんだ_ミュージカル「さよならソルシエ」再演配信

 再演千秋楽から1週間程度での配信開始。これからはこれが主流になるのか。「お願いだからブツをくれよ!!マーベラス様!!」と日々呪いの言葉を吐いている。だって配信サイトが潰れたら終わりじゃん。そもそも半年しか楽しめないじゃん。誰かに貸すこともできない。いや、違う、そうじゃない、単純にだいすきな作品に、またもう少しだけお金を払いたいだけだ。だって客席から作品に対してできることは、お金をちゃんと支払うことと、拍手をおくることくらいだから。

 チャプターマークが欲しかったな、とか、そこ切っちゃうんだ、とか、ここは引いて欲しかったな、とかそういう不満がないわけではない(欲を言えば舞台の収録映像は全景も必ず欲しい)。だが観劇における観客の大きなメリットのひとつは視覚の制限が緩いことだから、万人に正解のカメラワークなんて存在し得ない。視覚を意図的に取捨選択できるのが映像の長所であり短所だ。とはいえ配信の画質はなかなかなので、HDMIでテレビ等の大きなモニターに繋いで観るのがオススメです。

 

 さて、再演を繰り返し観ていると、やはり生で観たのとは違う発見がある。その中でも配信で改めて大きく気づかされた点をいくつか書いておきたい。基本的に観劇中は作品に没頭し過ぎて酸欠で偏頭痛になる人間なので、やはり間をあけずに配信してくれるのはありがたい限り(でも配信終了後は円盤にして欲しいな!!どれだけでも待つから!!)。

 まず、フィンセントがテオドルスの名前しか呼んでいない問題。これみんな知ってたの……わたし劇場では全然気がつけなかった……だって再演では、若手画家たちとより親しげで、名前くらい呼び合っていそうな気がしていたから。でも映像で確かめれば、フィンセントが発する名前は、「テオ」の二文字だけ。自分を殴ってくる相手にすら、「テオの知り合いなの?」と問う始末。それで一本のお話が成立してしまうのはとてもすごいことで、そして名前を呼び合いそうだと錯覚させてくれた、平野さんのお芝居もすごい。

 孤独だったのは、本当は誰だったのか。

 

「考えろ 考えろ 考えろ 考えろ 考えろ 考えろ 考えろ 考えろ 考えろ 考えろ 考えろ 考えろ 考えろよ!!」

「芸術に無知、人に無知、すべてに無知」

「あんたみたいにボンクラで 自分のことも 他人のこともわからない」

 そんな風に形容されたフィンは、テオが驚くほどの決意でもって、教会で自ら一度死ぬ。ここの照明、グワ~って感じ(語彙力)だから、ぜひ観て欲しい!!そして3年後、最近よく考える、と手紙に綴ったフィンの結論。

「ただひとつ、わかったことがあるんだ きっと 神様が与えてくれた本当のギフトは、きみだったんじゃないかな」

 確信めいた言葉と笑顔。ただでさえ泣けるシーンなのに、兄さんが考えに考えた結果だったとわかると余計に泣けて仕方がなかった。

 兄さんは、テオよりテオのことを覚えている。だって「兄さん」だから。テオが考えろと叫んだことも、テオと見たあの空のことも、ちゃんと全部覚えている。フィンを生かしているのはテオのようで、本当はテオを生かしていたのはフィンだった。さだめに気づいたのはフィン、死ぬと言ったテオにさだめを与えたのもフィン。だって兄さんだからだ。

 

 これをパチパチ打っているだけで泣けて来るのだけど、本当に再演があって良かった。だいすきな作品がひとつ増えたし、また観てみたいと思う俳優さんがひとり増えた。こうやって、どんどん観たいものは増えて行く。

 

 収録物が生の舞台を超えることはない、とわたしは思っている。だってそれは舞台表現のための作品だから。けれど映像を観ながら、千秋楽のほうが良かったなあ、とか記録と記憶を好き勝手に比較して、自分の記憶をより美しいものにできる。それは収録された舞台映像でしか、得られない楽しみだとも思う。

 

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絵の具をたくさんありがとう_ミュージカル「さよならソルシエ」

2017/03/20(月・祝)夜_千秋楽_前方センターブロックにて観劇

 

 一番驚かされたのは、平野良さん演じられるフィンの歌声。信じられないほど透明で、力強くて、そして包み込むように優しかった。天才は自分を天才だと気が付かないらしいが、まさに純粋に天才的に絵画と弟を愛した人物をストレートに歌い上げてくださった。終盤、テオ、と呼びかける歌声は初演の時から印象的だったが、今回のそれはあまりに透明で、それでいて透き通った愛に満ち溢れていた。

 次に震えたのは、テオが初演より遥かに「ヒト」として生きていたこと。初演の記憶の中のテオはまるで機械のように振る舞い、兄の前でだけは誤作動を起こすロボットのようだったから。彼が新しい芸術家たちに向けるあたたかい眼差しや、敵対する者たちに対する強張った表情は、初演の氷のようなテオより遥かにわたしの心を強く揺さぶった。

 劇場の違いもあるのだろう、今回は本当になにもかもが「まっすぐ」に伝わって来て、涙も心なしかさらさらと水のように流れた。

 

 なにかを崇拝して、そのなにかが自分に応えたがために壊れてしまった時。その葛藤はふつう、一人の人間の中で起こることだと思う。夢を叶えたは良いものの、その夢の現実に打ちのめされた時。願いが実現して、それまでの犠牲に気付いてしまった時。テオが兄を失った痛みは、わたしたち誰もが、一人の人間としては経験したことがある痛みなのではないだろうか。けれど彼らは、兄弟だった。

 妬み、恨み、嫉妬しながらも、その才能を愛した弟。テオの目線で語られるフィンの姿は確かに天才ではあった。だがわたしは、フィンもまた、ただの兄だったのだと思った。弟の信頼に、期待に、愛に応えただけの兄。

 だから彼らの別離は途轍もなく痛々しいし、この『さよならソルシエ』という、テオの描いた絵の真実を信じたくなってしまう。兄弟とはいえ別々の人間たちが果たしてここまでコインの裏表のようにひとつになれるのか。いや、なれたのだと祈るような気持ちになる。

 

 舞台という表現の性質上、どの公演が素晴らしかったかを断言するのはナンセンス。けれどわたしたち観客は公演ごとの差異に常に目を光らせ、その違いに一喜一憂する。それは確実に、舞台の楽しみ方の一つだとも思う。

 だからこそ再び観られて良かったと思える再演に仕上げてくれた『さよならソルシエ』のスタッフ・キャスト陣には、感謝の気持ちしかない。欲を言えば印刷された絵のサイズが微妙な点や、兄さんが横たわっていたベッドが今時過ぎる点、年老いたテオの指先まで配慮はして欲しかったが、それは最高だったからこその粗探し。再再演があればと願う。

 再演を経てまた初演を振り返りたくなった。初演の円盤を観たら再演も観たくなるのは、最早わたしたちが炎の画家ゴッホの「もしも」の物語を信じていることと同じくらい明らかだ。だからまた必ずアンケートを書く。絵の具をたくさんありがとう、そんな透明で当たり前の気持ちを込めて。

 

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ミュージカル『刀剣乱舞』三百年の子守唄_2017/03/12昼

後方上手ブロックにて観劇

 

 「手に入れた以上、なくすことはできない」そんな台詞を、荒木宏文さん演じるにっかり青江が言う。積み重ねた時間の分だけ、苦しいことは増える。それは100年も生きはしない人間ですらそうなのだから、刀剣男士たる彼らの痛みは想像もつかない。けれどもしも悲しみと同じかそれ以上に、彼らが喜びを見出せていたら。時間軸の違う存在がともに同じ刹那の時を過ごす、張り裂けそうなほど切なくて、それでいてあたたかい物語だった。

 そもそもの任務の内容や、彼らと周りの人間の間に流れる時の描き方にはいくつも疑問は浮かんだ。だが中盤に流れる一曲はただただ美しい。これまで刀ミュを支えていたヒーローショー的な見せ場やアイドル要素を廃して、純粋なミュージカルとして上演して欲しかった。とはいえ想像上のイラストが生身の人間となる楽しさはやはり健在。トライアル公演から応援し続けて、もう卒業かなと思っている人にこそ、聴いて欲しい子守唄だった。

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舞台『弱虫ペダル』スタートライン_2017/03/05夜

中央センターブロックにて観劇

 

 ずっと「手嶋純太」というキャラクターが苦手だった。誰よりも努力しているくせに自分は凡人だと言い、誰よりも勝ちにこだわるくせに自分は弱いと言う。けれど舞台『弱虫ペダル』を通して、私は彼というキャラクターを初めて身近に感じることができた。

 鯨井康介さん演じる手嶋純太は、それはもうよく動くし喋るし場を回す。観ているこちらが驚くほど舞台上を把握していて、作品のためにはどんな労力も惜しまない。漫画やアニメで切り取られた瞬間以外、手嶋さんはこうして生きていたのかと直感的に感じることができる。こんなに大変だったのか、と。

 常に周りに目を配り、自分の苦しさや悔しさをぐっとこらえて、誰かの背中を押せるキャプテン。それが手嶋純太。頑張らないと期待なんかされない!!今作で手嶋さんは叫ぶ。全力でペダリングする鯨井さんから発せられたその言葉は、まっすぐに心に刺さって忘れられない台詞のひとつになった。 

(ちなみに原作でイチ推しの新開悠人くんを演じられる飯山裕太さん、信じられないくらい悠人なのでみんな観て欲しい。。。)

 

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ありがとうアルターボーイズ2017

〜『ALTAR BOYZ』合同スペシャル追加公演を経て〜

 

 2月は逃げると言うけれど、今年の2月は特別だった。『ALTAR BOYZ』という作品に出会い、夢中になった。バレンタインデーはもちろん劇場にいたし、2月最後の週末も劇場にいた。

 「ありがとうアルターボーイズ」それしか言う言葉がみつからない。なんて冗談抜きで本気でそう思っている。合同公演の記憶はあやふやだ。初日はTeam LEGACYとTeam GOLDのシルエットが浮かび上がっただけで泣いていたし、千秋楽はなにで泣いているかわからなかった。けれど間違いなく、悲しくて泣いた瞬間はなかった。本当はもっと暗い気持ちになると思っていた。Team LEGACYは解散すると宣言していたし、Team GOLDはたとえ数年後に続投してくれたとしても、それは進化もとい成長した彼らであって、良い意味でTeam GOLDではないからだ。

 

 『ALTAR BOYZ』という作品が、なぜ自分の心をここまで震わせるのかは、自分でもよくわからない。とても形容し難い感情だ。ただ、アルターボーイズと出会ってからずっと、あたたかな手が自分の背中を守ってくれているような気がする。これまで自分を守ってきてくれたものを、改めて知る感覚。暗い森から明るい草原に出て、驚いて振り向くような。歩いて来たこれまでの道に伸びる自分の影を、明るいところからまじまじと見つめるような。

 東山マシューさんの、『ALTAR BOYZ』という作品に対する、真摯であたたかな眼差しが忘れられない。厳しいようで底抜けに優しい中河内マークさんは、いつも爪の先、まつ毛の一本一本にいたるまでルークを演じてくださっていた。森ルークさんの、「これからはお前たちの時代だ」という言葉とその響かせ方に、涙腺が崩壊した。植木フアンちゃんが毎公演、フアンが持つ悲しみの、その一つ一つを変化させて表現されていたことが毎回驚きだった。良知アブちゃんのカーテンコール、15歳の夢を33歳で叶えられた。そんな素敵なことが起こるこの世界は、本当に大袈裟でなく、捨てたもんじゃないなと思えた。

 

 毎日毎日、なにかしら素晴らしいことは起こるし、途方に暮れることも起きる。けれどその時にどの方向を向くか。試されているのは舞台上だけではなく私たちも試されている。

 『ALTAR BOYZ』という作品の魅力の一つは、宗教色を全面的に押し出しながら、なにを信じるかではなく、信じるという行為そのものの美しさを描いている点にあると思う。そして無限の解釈。同じ瞬間を共有した観客が、それぞれのバックグラウンドでそれぞれに感じられる自由度の高さ。だからこそ、チーム制が実現できるし、やはり『ALTAR BOYZ』は現代の神話と言っても過言ではないのではないか。

 

 Team GOLDはまた必ず戻って来ると言ってくれた。それを私は信じてる。合同公演、Team LEGACYを見送るアルターガールズの先輩方にも、ありがとうという気持ちになった。これまでを応援した方々がいるから、自分はアルターボーイズに出会えた。いつか黄金が遺産になる時、そんなアルターガールズでいたいと思う。

 

ちなみに以下の公式HPには早速、

合同スペシャル追加公演は全日程終演いたしました。
たくさんの皆様のご来場、キャスト・スタッフ一同、心より御礼申し上げます。

という文言が追加されている。

こちらこそありがとうという気持ちだけど、やっぱりさみしい!!

Rockの絶大なパワーを感じて、星座の輝きを見るまで

 アルターボーイズが帰国してしまった。彼らが新宿FACEを浄化してくれる日が、またいつ来るかはわからない。けれどどうしてだろう、私は明日が来るのが楽しみだ。

 

 3年前、すべての始まりは超歌劇『幕末Rock』初演千秋楽における、良知真次さんだった。『LAST SCREAM』の歌声が、圧倒的な質量をもって自分の頬を震わせたのを今でも覚えている。見切れ万歳の当日券だったが、カーテンコールではキャストさんとハイタッチして、隣の見ず知らずのお姉さんとキャ~と悲鳴を上げたりもした。あの矢田センセー推しのお姉さん、元気にしているだろうか。

  超歌劇のなにが楽しかったかって、千秋楽で作品自体が大きく「化けた」点にある。この人、こんなにカッコ良かったっけ、とずっとときめいてしまえたし、この歌、こんなにサイコーだったっけ、とドキドキした。ストーリーもより簡潔に思えたし、中日に観たそれとは、なにもかもが変わっていた。

 

 それからは「舞台」という表現そのものに魅せられてしまって、もともとハマりやすい性分だったこともあり、趣味のひとつが観劇になった。入口がいわゆる「2.5次元」作品だったために、その系統の作品ばかり観ていたが、良知さんを追いかけていると、帝劇にも世田谷パブリックシアターへも行けた。

 

 そんな中、初めて良知さん以外に目を奪われる俳優さんがいて、その人のことも応援したくなった。その俳優さんを最初に観たのはそこまで大きな舞台ではなかったが、ある作品をきっかけに、彼はあっという間に人気が爆発した。駆け上がって行く姿を観るのは楽しかったし、早い段階で彼を応援しようと思っていたことがなぜだか誇らしかった。芸術家が花開いた時に、ずっと昔から彼の初期作品を自宅に飾っていた人のような気分。そして認められなかった芸術家が、死後認められた時、「父は叔父の才能を早くから信じていました」と語る子孫のような気分だった。

 けれど悲しいかな、私自身も観劇を重ねるうちに情報収集能力が高まって、いろいろなことを知ってしまった。今はもうきりがないから見ないと決めたが、このご時世、プライベートなことは少しずつ漏れ伝わって来る。

 超歌劇の続編が、集客的には振るわなかったこともショックだった。制作でも関係者でもなんでもない私が、なぜそんなことに一喜一憂するのかと言われればそれまでだ。だが早めに仕事を切り上げて座席に着き、ワクワクしながらふと後ろを振り返った時に、誰も座っていない二階席を見るのはしんどかった。

 この景色を、続編まで頑張ってくれたスタッフ・キャストさんたちに見せるのか。やるせない気持ちになった。もっと誰かを誘えば良かった、いやもっと自分がチケットを増やしておけば良かった。今更過ぎて、しかもどうしようもないことを何度も思った。そして千秋楽、舞台に深々と頭を下げた良知さんに、拍手をおくるしかできない無力感に苛まれた。

 どうしてなんだろう。こんなに楽しくて、熱くて、魂を揺さぶられる作品がどうしてもっと評価されないんだろう。どうして私たちが愛した作品は、終わってしまうんだろう。自分の応援が否定されたような気持ちに勝手になって、勝手に落ち込んでいた。そんな時、私は『ALTAR BOYZ』に出会った。

 

 ここでもしなにかあって死んだら、絶対誤解されそうな新宿歌舞伎町の雑居ビル。不思議な甘い匂いのするスモークや、邪魔になるのに買わなくてはならないドリンク。腰が痛くなるパイプ椅子や、切り替える度に大きな音のするピンスポット。今までに体験したことのない状況に囲まれて緊張しながら観た。

 楽しい。底抜けに楽しかった。音楽もストーリーも無駄な瞬間が一切ない。何度観ても発見があるし、何度観てもなにかを取り損なった気がして、帰り道は歌舞伎町の喧騒をものともせずに脳みそがフル回転する。iPhoneに入れたオリジナルキャストの音源を頼りに、なんとか記憶を繋ぎ止めようとするが、あの瞬間をデータのように保存することなんてできないんだと理解してもいた。そしてそれこそが劇場へ来る価値だと、改めて思い知った。

 

 アルターボーイズが救ってくれた。なにも考えずに純粋にその時間に集中できる楽しさを思い出させてくれた。舞台のなにに惹かれ、これまでの3年間、時間を使いたくなったのかがやっとわかった。板の上と客席が曖昧になる瞬間。毎日変わる空気。舞台表現だけが持つこの「変化」にこそ、自分は夢中になっていたんだ。この広過ぎる世界で、たった数時間を劇場にいる人間たちだけで共有する、そんな閉じられた世界に浸る。それを少しずつ噛み砕きながら、また劇場に通う時まで、心の糧にする。それこそが超歌劇以来、自分が一番楽しいと感じていたことだった。

 

 アルターボーイズの再来日は祈るしかできない。けれどあの唯一無二の瞬間の記憶は、私の中で変わり続けながら、輝き続けている。