『髑髏城の七人』Season鳥_2017/07/17昼

 1ヶ月振り10回目の、ステージアラウンド東京。そして初めての『髑髏城の七人』Season鳥。テーマカラーはSeason花とは打って変わってグリーン。だからかなぜか、クールなイメージを抱いていた。だがそこで繰り広げられていたのは激アツで、まるで90年代のアニメ(例えば『ふしぎの海のナディア』)を観ているような。夏の高い空にぴったりの、爽やかで凛としてそして鮮烈な髑髏城だった。

 

 序盤で感動したのはステージの開き方がかなり広くなっていたことで、見切れをかなり軽減してくれた。Season花では、敢えて狭く開けることで同じセットを違う場所だと思わせるシーンがいくつかあったが、端の席であればあるほどどうしてもスクリーンで見切れる部分があって残念だった。無界屋はかなり大きな建物に観える映像演出がされていて、それこそ『千と千尋の神隠し』の湯屋に迷い込んだかのような、ぐるりと囲まれるワクワク感が増していた。これはぜひ劇場で観て欲しい。

 

 鳥どくろを経て、「わたしは花どくろがだいすきだ!!!!」と叫びたくもなった。錆びたような禍々しい満月を背に、高嗤いをする天魔王。どこまでも真っ直ぐ前を向いて懸命に走る沙霧。どかどかとけたたましく登場する元気な兵庫。ふらりと現れて、どこまでも笑顔だがどこか虚ろな捨之介。背負い込んだ「今」に押し潰されそうな蘭兵衛と、生き地獄ですら撥ね退けられそうな極楽太夫。

 お茶目な浪人おじさんかと思いきや、一瞬で天下人たる一面を覗かせる狸穴二郎衛門。兄だからこそ現実を諭しつつも、最終的には弟の背中を押す磯平。沙霧を結局は守る三五には、たくさん妹がいそうな感じがして。そして肉襦袢という反則技の格好で登場しながら、髑髏党にも時の権力者にも決して頭を下げない贋鉄斎(Season鳥では彼の愛車がとあるシーンでひっそりと登場していて嬉しくなった)。挙げればキリがないが、鳥に触れて、花の思い出がまた鮮やかに甦った気がしている。

 

 様々な『髑髏城の七人』を観ると、パラレルワールドや、魂の輪廻的に捉えてしまいそうになる。つまり一つの魂が姿かたちを変え、同じ歴史の瞬間に何度も繰り返し立ち会うのを目撃するような。時間の終着点は否応なしに定まっていて、そしてそれこそが物語の結末で、けれどそこへ向かう方法は何百何万通りもあって。時に捨之介は年齢不詳の金髪着流し、時に白髪で琵琶を持ち、時にすらりと背が高く、時に忍び装束に逆手で闘うのかもしれない。そして天魔王と同じ顔のこともあって、瓢箪を片手にしている時もある。再演とは、一つの魂が持ち得る輪廻的な可能性を示されているような錯覚を抱かせてくれる。

 『髑髏城の七人』のどれか一つを観てしまったら、他も絶対に観たくなるだろう。まるで多角的に磨かれ、どの輝きが一番美しいとは断言できず、ある面から観ることが一番正しいわけでもない宝石の輝きのよう。この作品には不思議で複雑で普遍的な魅力がある。

 

 

『髑髏城の七人』Season花_2017/06/12千秋楽

 千秋楽。適当な理由をつけて仕事を抜け出し、迷うことなく劇場へ。前回のブログにも書いたが、髑髏城へ行く日はすべからく晴れていて。だから晴れた豊洲しか知らない。これまでの人生で一番、豊洲を訪れていた初夏。

 

 『髑髏城の七人』Season花の最後の日から10日が経った。仕事が忙しかったのもあるが、千秋楽の感想は実はぼんやりとしている。なぜって本当にきっちり、かっちり、まっすぐな千秋楽だったから。今までの最高な部分を切り取って、ラストだけ煎餅まくよ!!というような。ものすごいことを85回も繰り返してくれた人々が行き着いた、ものすごいことを当たり前にやって魅せる、という離れ業。

 

 もうすぐSeason鳥が始まる。これまたワクワクする要素ばかりで、果たしてどんな髑髏城が観られるのか楽しみは尽きないし、きっとまた魅了されてしまうのだろう。けれどやっぱり、わたしの髑髏城はSeason花から始まった。もう少しだけ、残り香を嗅いでいたいと思う。

 

 パッと赤く染まる劇場。ズシリと響くロック。ピタリと訪れる静寂と暗闇とほぼ同時に、僅かに足元が回り始めたのを感じる。墨を垂らしたような映像の後、観えるのは怪しげな仮面を被った、ひとりの人影。忽然と浮かぶ満月を背に、襲いかかる忍たちをやすやすと躱し、ぎらぎらと鋭い鉄扇で侵入者を斃す。ひとりだけ生かした者に告げるのは、「天魔王」の名。仮面の男の高らかな嘲笑は、観客を髑髏城へ引きずり込むかのように響いた。

 まずはここの成河天魔王さまの殺陣!!というか躱し方ですよ奥さん!!何度観ても新鮮!!何度観ても「今、始まりました」感がヤバかった。襲いかかる忍たちの刃をくいっと首を傾げて避ける部分があって、もうその動作が自然かつ必然かつ唐突。良い意味で練習をしていない生の感じがしたのが、成河天魔王さまの芝居だった。突き詰めてしまえば一番ルーティンになってしまいそうな冒頭が、常に不気味で、鮮烈で、恐ろしかった。

 

 「ほっほっほっほっほっ」とゆるゆる登場する捨之介。上手から現れた小栗捨之介さんの、否応なしの主人公感はどこから来るのか。結局千秋楽までその理由はわからなかったし、語彙力のなさに泣けて来るが、「モッてる」という言葉が一番近いような気がしている。

 とはいえワカドクロを観た方の感想や、ご本人のコメントなども読むと、まさに「今度こそ間に合わせる」という雪辱戦が花どくろ。花捨之介はどこまでも優しくて、爽やかで、それでいて淋しげな。奥行きのある良い主人公だった。なにより事前の古田新太さんのインタビューにもあった通り、沙霧との単純な恋愛関係でもなく、それでいて友情とも違う、絶妙な距離感が切なくて美しくて輝いていた。

 捨之介はずっと誰かのために生きている。誰かのために走り、誰かのために戦い、誰かのために笑っている。けれど沙霧を守る時、彼は自分のために動いているように観えた。

 「でもばっかりだなあ!!」ピンチの時に軽口を叩く小栗捨之介さんが、本当に頼もしかった。くるりくるりと相手の剣を受け流し、「小田切三五さんよお!!」と迷う人間を導く捨之介も、「無界屋蘭兵衛!!」と迷った人間をなんとか取り戻そうとする捨之介も、応援せずにはいられなかった。もしも自分が髑髏城の世界で、なにがしかの役割を果たさなくてはならなくなったら。捨之介か沙霧のような生き方をしてみたい、と思わせてしまうのを、きっと感情移入というのだろう。

 

 沙霧のような立場のキャラクターは、時々ちょっと物語に振り回されがちになる。なんでひとりで行っちゃうんだよ、とか、なんでそれを言わないんだよ、とか。けれど清野沙霧ちゃんはそれが皆無。髑髏城へ向かってしまう蘭兵衛さんを追いかける彼女には、お願いだから蘭兵衛さんを止めて!!と願わずにはいられないし、「あたしの庭だ!!」と啖呵をきる沙霧は観ていて心底スカっとした。それにしても沙霧と兵庫と極楽太夫は生きる力が強くて、捨之介・蘭兵衛・天魔王のトリオとこれまた対照的だから作品として美しい。

 

 美しいといえば古田贋鉄斎さん。もうズル過ぎるから今まで言及して来なかったけれど。面白過ぎたし完璧過ぎたし、最高だった!!9回花どくろを観劇して、贋鉄斎のいる場面で笑わなかったことがない。ある時期から、贋鉄斎が髑髏城の階段をわざと猛ダッシュし始めて、もうそれがおかしくておかしくて仕方なかった。それに観客の大多数が気付けばみんなでアハハ、と笑えるのだが、気付かれない時もあって、それでもトライし続けてくれる古田贋鉄斎さんがだいすきだった。

 

 結局、天魔王も蘭丸も、なにがどうあれ長くは生きられなかったような描かれ方をされていたように思う。偉大過ぎる天を振り払い切れなかった彼らは、過去に戻れるわけもなく、そして「戻っちゃいけない」はずだった。本当の意味で三途の河に捨之介、ができればきっともっと人生呼吸がしやすいのだろうが、彼らの性分はそれを絶対に許さないだろう。

 一番長く、死にたがりの捨之介を演っていた方が、あそこまで誰にも振り回されない贋鉄斎を演ってくれた。それって途轍もないことだ。生きにくそうな芝居も、当たり前に生きてる芝居も、そのどちらも面白いなんて。そんな大人、カッコいいに決まっている。いつかもし小栗贋鉄斎さんが観られたらなんて、そんなことを思ったり思わなかったりもした。

 

 「安くはないぞ、天魔王……!!」というお言葉通り、山本蘭兵衛さんがために髑髏城に通ったわたしの今のお財布は、かつてないほどに軽いのだけど。千秋楽までの3日間、連日髑髏城を観た日々は、つまるところ蘭兵衛というキャラクターにますます心惹かれて、そして太夫と一緒に殴りたくなる毎日だった。

 身勝手で、我儘で、それこそ少年のようで、それでいて冷静で、頼り甲斐があって、背中を見ていたくなるような。生の舞台だからこそあの唐突さも必然に思えて、それでも太夫には応えて欲しかったと思わせて。忙しい。蘭兵衛さんを観るのはまっこと忙しい。向こうから提示される情報量が洪水のようで、どの角度から観るのが正しいのかわからなくなってまた観に行きたくなり、どの視点から観てもなにかを取り零したような気分になった。

 もしかするとわたしがすきだったのは、兵庫と太夫だったのかもしれない。彼らが「無界屋蘭兵衛」というひとを愛したからこそ、自分も蘭兵衛の行動に一喜一憂したのかもしれない。けれど天魔王が欲した「蘭丸」の死にも泣きたくなるから、人の男の愚かさを観に行っていたような気もする。「関わらなくても良い縁に拘う」そういう蘭兵衛さんが、一番「ひと」の逃れられない業を現しているようで、魅力的だった。千秋楽も、やっぱり蘭兵衛さんばっかり観てたよ、実際。

 

 こうして書いていると止まらない。だから、これからはゲキシネを待つ旅にするよ。もちろん、鳥も風も月も観に行くのだけれど。

 

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公式サイトには以下の文言が追加されていた。

はい、お楽しみします。

ありがとう花どくろ!!

『髑髏城の七人』Season花
全日程、無事終了いたしました。
皆様、ありがとうございました。
引き続き、Season鳥、Season風、Season月をお楽しみください。

『髑髏城の七人』Season花_2017/06/11前楽

 髑髏城へ通ったこの初夏の日々は、なぜかいつも晴れていた。地下鉄有楽町線豊洲駅、中央改札から地上へ出るとゆりかもめの入口がある。いつもそこは通り過ぎて、大きな車通りからは横にそれた海沿いの道を歩いた。

 

 『髑髏城の七人』Season花の千秋楽から、1週間が経とうとしている。自分の記憶力のなさに泣けてくるが、何度も何度も観て、観る度に心震わせたはずの景色が、少しずつ曖昧になっていくような気がする。曖昧というか、断片的な球のようになっていく。それでもその記憶を呼び戻せば、なんともいえない幸福な気持ちになれるのだから単純だとも思う。

 

 前楽、ただただ祈るような気持ちで観ていた。誰も怪我しませんように、あと1回、このカンパニーが満足できる公演ができますように。意味のわからない観客だと自分でも思う。けれどとにかく自分を魅了して、ワクワクする日々を過ごさせてくれた「作品」に対する、感謝の気持ちがとめどなく溢れ続けた。

 

 冒頭、「降ってきやがったな」という兵庫のきっかけ出しから、おそらくはメインテーマ的な劇伴が流れ始めただけで、もうグッと来てしまって泣いていた。沙霧と荒武者隊が、わちゃわちゃと走っているだけで楽しい。少し遅れてついて行く捨之介の横顔がとても穏やかで、そして心なしかこれからなにかが始まりそうな予感にも満ちていた。

 蘭兵衛の初登場時、沙霧はウメガイを構え、突如現れた男を小動物のように警戒する。捨之介も同じく沙霧を庇うように右手を上げているが、途中、髑髏党を滑らかに斬り倒す男が「誰か」判ると、ふわりと笑って沙霧に武器を納めさせる。その動きだけで、かつての朋友にまた生きて出会えた捨之介の、隠しようのない嬉しさがこちらにまで伝わって来た。

 おそらく5月下旬頃から小栗捨之介さんが始めた、無界屋の面々に紛れて「おかえりなさいましぇ〜」と蘭兵衛に向かってふざけるところも健在で、ちょっと嬉しくなった。

 

 「すまんな、太夫」から、無界屋を眺め、そして振り返ることなく走り去る山本蘭兵衛さんの表情がくっきり観えたことも印象的だった。そしてそのシーンで初めて泣いた。その前の「兵庫!」と叱責する場面も、無界屋蘭兵衛というひとがあの土地で過ごした時間がひしひしと感じられて、だいすきだった。語られない余白を想像する自由を与えてくれる脚本と、演出と、お芝居があったからこそ、ここまで自分は夢中になれたのだと思う。

 「見事な満月だ」、「いい月夜ですなあ」。この二つの台詞が、もしかすると二人の共犯関係を早々に明かしていたのではないか、と気がついたのは千秋楽が終わってからだった。時系列的に、同じ月の日であってもおかしくはない。花天魔王と花蘭丸の関係性は、一度自分の中では受け取り方に決着がついたから、あとは映像になるまで待とうと思っている。

 ラスト3公演、カーテンコールで天を見つめる成河天魔王さまの口もとには、間違いなく満足げな笑みがうっすらと浮かんでいた。その真意はなにかのインタビューで明かされたらと願うばかりだが、わたしとしては、からっぽの仮面の下の「人」が、終にはひとになったのだと信じたい。それこそ「からっぽの仮面か。確かにこれが天魔王かもしれん」。彼もまた、亡霊に魅入られたひとりだったと思いたくなる、切なくて優しい笑みだった。

 

 捨之介が、本当にぎりぎりまで死にたそうな顔をしていたのも記憶に残っている。縄を解かれてもなお、彼はじっと地面を見つめていた。だが家康の静かな決意と、三五の相変わらずなたくましさ、そして兵庫と太夫、兄さの眩しさを受けてやっと、捨之介は面を上げる。まるで朝焼けが眼に滲みるかのように天を仰いで、沙霧に笑顔で飄々と笑い返すのだ。「柄じゃねえよ!!」。まさに彼らしいと観客が思ってしまう、一言を置き土産にして。

 

 正直、『髑髏城の七人』という作品は、夕方から観た時のほうがわたしはすきだった。

 宵闇が迫る時間帯から劇場へ入って、できる限りの拍手をして、少し古風な豆電球風の照明に照らされた劇場を後にするのがだいすきだった。いい舞台を生で観たなあ、そんな感慨を抱きながら、暗い道をすたすた歩いて、地下鉄に乗る。無機質な電車に揺られながら、醒めてしまわないうちに興奮混じりの独り言をスマホに叩き込むのがすきだった。

 けれどもし、前楽と千秋楽の2日間、劇場を取り囲む空気が夜だったなら、いたたまれない気持ちになったのではないだろうか。劇場を出れば傾きかけたあたたかな太陽が雲の隙間にあって、劇場はまだ電球以外の光にもちゃんと照らされている。そんな状態が、「終わりじゃないよ」と言ってくれているようで嬉しかった。もう取り壊しが決まっているらしいあの奇妙な劇場が、また来てね、と言わんばかりに無意味に電球を光らせている。そんな終わり方のほうが、Season花という作品には、相応わしい景色のように思えた。

 

ありがとう『髑髏城の七人』Season花!!

 劇場は、そこにあるのが当たり前な印象を抱きやすい場所のひとつだ。帝国劇場など、歴史ある劇場を訪れた際には特にそう感じる。壁一枚隔てた向こう側で限られた観客へ限られた非日常を提供しながら、日常に溶け込む場所。劇場に通うようになってから3年が経ち、それなりにお気に入りの劇場、というものができ始めた(天王洲銀河劇場と、世田谷パブリックシアターが「場」としてすき)。

 

 IHIステージアラウンド東京で今日千秋楽を迎えた『髑髏城の七人』Season花。そもそもの作品自体に自分がどれだけズブズブにハマってしまったかは、自分が一番わかっている。

 9度、ステージアラウンド東京を訪れた。もうすでに2020年までで取り壊しが決まっている、まるで髑髏城のようなあの劇場。単純に、わたしはあの劇場の心意気は粋だと思う。世界にひとつしかないものを日本へ持ち込んだ資本側の勇気と、1年を背負った劇団☆新感線さんにはやはり拍手をおくりたい。

 とはいえ今回はまず、あの特殊な劇場での座席位置がもたらす変化について書きたい。同じ座席に2回座る、という面白体験を3回したから、そこも含めて自分への備忘録も兼ねて。座席位置とそこからの景色を、なるだけ話の内容をフラットにして考えたいと思う。

 

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04/14 6列下手

04/26 2列センブロ

05/05 3列上手

05/15 14列センブロ

05/27 5列センブロ

06/04 3列上手(5/5と同じ席)

06/10 6列下手(4/14と同じ席)

06/11 2列下手

06/12 2列下手(6/11と同じ席)

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04/14 6列下手

前が通路の席が来て、単純にラッキー!!と思った。だがしかし、最前列と舞台の間にはまあまあ高い塀のようなものがぐるりと取り囲んでおり、脚元はもちろん、座り込んだ演技は一切観えない。だが視界は良好だし、初見時はここをオススメする。

 

04/26 2列センブロ

楽しいに決まってるよ、当たり前だよ!!前に男性が座られたので視界は遮られた部分があるが、まあそこは、それこそ回るのでだいじょうぶ!!2回目でこの位置が来てなければ、わたしはこんなにハマらなかった……あの時悪魔に魅入られたんだ……

 

05/5 3列上手

回転時、今までで一番重力を感じた。ふと中学数学を思い出し、円心と円周の距離とか、そういうのを考えてみたけどやめた。どうやら円の外側にいるほうが回る抵抗を体感するようだ。回転系の動きが苦手な人は、中心近くに座ると良いかもしれない。

 

05/15 14列センブロ

傾斜少ない。舞台の奥で芝居をしてくれている時は良いが、あとは確実に前の人の頭が視界に入る。とにかく前に座高が高い人が来ませんように、前のめりと首が座ってない人が来ませんようにと祈る。劇場妖怪に勝つにはもう運しかない。けれど拍手や、客席からの笑い声は前方席より良く聞こえて、それらに包まれているようで楽しい。

 

05/27 5列センブロ

演出意図は一番理解できる気がする。視界は1〜4列の座席に遮られるが、ここの位置から観たスモークの美しさと雨は忘れられない。ここはこう「魅せて」るのね!!となんだか演出家さんと対話している気分になれた。複数回観て、全体のおさらいをしたい時はここからの景色が多分オススメ。

 

06/04 3列上手(5/5と同じ席)

前列は本当に寒いので、夏場は特に注意だ。3日間ステージアラウンドに通った今、まさに喉が痛いです。ブランケットは貸し出ししているが、今日はなくなったと耳にしたので次回以降は確実に持参する。回るだけで風が超冷たい。とはいえ演者さんのためだから、こちらが防寒すれば済むことだ。

 

06/10 6列下手(4/14と同じ席)

自分の初回と同じ席、ということでなんだか運命感じてしまったラストソワレ。まさか翌日と翌々日も同じ座席とは思ってなかったね。やはり観やすいし、ここまで来ると脳内で360度カメラが回り始めるから、もう記憶が下手の概念を失っている。今思えば、前方列よりは見切れが少なかった。

 

06/11 2列下手

近い〜ハッピ〜嬉ピ〜と言っていられないのがこの席。泣いたよ。そりゃ泣いたよ、前楽でさ。でもさ、贋鉄斎さんの水車観えない。天魔王さまの地球儀観えない。無界屋襲撃で、蘭丸がしゃがみこんだら柱で観えない。蘭兵衛さんの屍体が観えない!!

けれどラストは信じられないくらい「生きるよ!!あの子たちのぶんまでね!!」という気持ちになれる席だった。家康さまにも、兵庫にも太夫にも惚れた。沙霧ちゃんはなんであんなにカワイイんだ。兄さ、褒美の金のうち、小さい袋しか持って行かないところが性格を現していて美しい。

 

06/12 2列下手(6/11と同じ席)

千秋楽は今までの総浚いのような。視界が開けた状態で、ラストの大回しに拍手ができたことがなにより嬉しかった。あと下手前方席は、見返り蘭兵衛さんと目が合った錯覚を感じられるから実質タダでした。

 

 千秋楽を観終えて、なんだか過充電されたバッテリーのような心持ちがする。85公演のうち9回。プロの、プロによる、最高のエンターテイメントを観た。多分もう引き返せないし、引き返す気もない。このドクロイヤーを生きて生きて生き抜こう。本気って、これだけ魅力的なのか。大人になるって良いな、生きてて良かったなあ。そんな漠然としたことを考えた。

 良いエンタメとはなんだろう。きっとこの答えは、誰にもわからないし、誰にでもわかるのだろう。どうとも形容できないし、どうとも形容できる、でも強いていうなら、心臓のあたりがちょっとだけ浮く感じ。『髑髏城の七人』Season花に夢中になった初夏の日々は、ずっとそんな状態で過ごせた。本当に本当に、この作品を届けてくれた方々に、大感謝だ。

 もうすぐSeason鳥が始まって、次はSeason風、Season月。でも今は少しというかかなりというか夢見酒を煽りたいほどには、寂しい。

 『髑髏城の七人』Season花、だいすきだ!!ありがとう!!

 

『髑髏城の七人』Season花_2017/06/10夜

※ネタバレあり

※台詞は後で戯曲本をもとに修正する予定です

 

 幸運なことに2日連続で観劇した。実は今日の千秋楽も観劇する。本当は迷ったのだが、「自分のすべきことは自分が一番わかっている」という心持ちでチケットを増やした。

 

 さて10日の観劇。かなり泣いてしまった。最後の花ソワレ。天魔王を庇い、蘭兵衛もとい蘭丸は死ぬ。「愚かな奴め」、天魔王はそんな憎まれ口を叩くのだが、その言い方が、形容し難い哀しみに満ちていて、弱々しくて、まるで迷子になって泣いている子供のようだった。今まで誰も信じなかった男が、誰かを信じた男に護られた哀しさ。天魔王は無理やり高く嗤って–というか泣き笑いしたように観えた–髑髏城の奥へと逃げ込む。今にも倒れてしまいそうで、もうなにもしなくったって、彼はそのまま死ぬんじゃないかと感じた。

 

 今の自分の解釈としては、花捨之介は死にたがりの主人公、花蘭兵衛も死にたがりの二枚目、花天魔王はからっぽの命、という印象がある(みんなお姿が二枚目なのは当たり前で、役柄が二枚目だから悔しいくらい格好良いのよ蘭兵衛さん)。けれど天魔王のそもそもの衝動が、正直なところよくわからないのだ。

 天魔王の仮面の扱い方からしても、信長に蘭兵衛ほどの思い入れがあるようには観えず、がらんどうの暗闇、それこそ「からっぽの仮面」という形容が正しい。つまるところ本当に天魔王は「待っていた」のではないか。もし蘭兵衛が天魔王の誘いに乗らなければ、それまで。もし秀吉軍が大挙して攻めてくれば、それまで。英国が約束を破っても、それまで。

 

 だが彼のその虚ろな望みを蘭丸だけは信じる。そしてあろうことか命を救い、天魔王の生に意味を持たせてしまう。なぜか散逸的で、虚無的な印象を受ける彼に、信長と同じ意味を与えてしまうのだ。なのに意味を与えてくれたひとはもうそこにいない。きっと蘭丸に意味を与えてくれたのが信長で、蘭兵衛に意味を持たせたのが無界屋で、捨之介に意味を探させるのが沙霧なら、天魔王に意味を教えたのは蘭丸だ。蘭兵衛は意味を捨て、蘭丸は意味を再燃させ、捨之介は意味を求める。天魔王だけが、自分の手でそれを滅茶苦茶にする。だから泣いているように観える解釈を成河さんが示してくれた時から、天魔王が憐れで、そして哀しい存在と思うようになった。

 逆に蘭兵衛というひとは、つまるところしあわせだったのだろう。なぜなら最後の最期に、意味を取り戻すからだ。劇中で描かれるわけではないが、前日譚として、彼が早々に蘭丸として自分の運命を自覚して、そしてそれが自らを裏切った時でさえ、彼にはちゃんと次の意味が与えられたのだろうという描写はある。からっぽになる瞬間が彼にはなく、かつ選ぶ権利までもが与えられ続けていた。

 「来い、太夫!」蘭兵衛さんは信じられないくらい優しい声でそう言うけれど、わたしとしては許せない。極楽太夫が斃れたその身体をさらに殴ったって、もっとやっちまえ!!と思っている。だってあんまりだ。いろんなひとに意味を与えてやっておきながら、自分だけがすきなほうを選び、すきな時に勝手に退場してしまうなんて。ラストの大回しで彼岸花の中に超美しく佇んでいたって、だまされねえぞ!!でも、だからこそ太夫がその亡骸に泣きついた時、涙が止まらなかった。

 

 きっと、意味を与えてくれたひととの別れはああであるべきなのだろう。なぜ意味を与えてくれたかを理解し、それと決別か享受するかを選ぶ必要がある。太夫が兵庫を受け容れたように。蘭丸と天魔王の別れ方は、はっきり言って最悪だ。名付け親が誕生を祝福するでもなく、いなくなってしまうのだから。

 ラストの360度回転演出の際、初めて天魔王の口元に、うっすらと笑みが浮かんでいるのが観えた。今でもあれを思い出すと鼻の奥がツンとする。偉大過ぎる天を仰ぎ、それを支える振りをしながらもからっぽで、やっと他人の中にも己を見出したひと。きっと天には、彼を待つひとがいるのだろうと思った。

 

『髑髏城の七人』Season花_2017/06/4昼

 これまでに6回、『髑髏城の七人』Season花を観た。自分の感想を読み返してみると、それぞれの回で心動かされた登場人物が違っていたようで面白い。初回は無界屋蘭兵衛。2度目は蘭兵衛と極楽太夫。3度目は捨之介と蘭兵衛。4度目は捨之介と沙霧。5度目は天魔王。そして今回は、完全に兵庫だった。

 今までの髑髏城、幾度となく胸がいっぱいになることはあった。3時間強の上演中、切なくて、激アツなシーンは数限りなくある。だが不思議と泣くことはなかった。

 しかし今回。ラストに兵庫が極楽太夫の手を取って懸命に言う台詞、「これを使え。使い切るまで死ぬな。そうすりゃ、そのうち気も変わる。死のうなんて気持ちはどっかにいくよ(戯曲本より抜粋)」すべてが終わって、無界屋蘭兵衛と、仲間の遊女たちの死に改めて直面し、今にも折れてしまいそうだった太夫。彼女をしかと受け止めて、護ろうとする兵庫の強さに、思わず涙腺が緩んでしまった。

 序盤、捨之介は太夫に見事にあしらわれてしまっている兵庫に対して、「お前には荷が重い」と言い切る。それが最後、「重い荷物を見事に支えやがったな。たいしたもんだよ」と感心する。捨之介や蘭兵衛、天魔王が過去と闘っているのに対し、兵庫だけはずっと「今」を生きている。そして誰よりも早く未来へ片足を踏み入れ、そこから脱落しかけた者の手まで引っ張り上げてみせるのだ。

 

 捨之介や兵庫らの印象がどんどん力強くなる一方で、天魔王と蘭丸に関しての印象は、次第に哀しみで滲んでいくような感じがする。今回は上手側にいたため、襲撃のシーンで、徳川勢にその残虐性を剥き出しにする天魔王と蘭丸がよく観えた(というか上手前方に座っていると、こっちに向かって非常に非情な二人がにやにやしながら台詞を放って来るので、「家康さま〜〜〜助けてくんろ〜〜〜」という気持ちになる)。

 「無界屋蘭兵衛」として生きていたよりも、「蘭丸」として生きているほうが余程楽しそうな信長の腹心。返り血をぺろぺろ舐める人の男。以前はそれがとても恐ろしく観えたのだが最近は、それがどうしてか哀しく観える。

 彼らは間違いなく歴史に取り残されたものたちで、生き残って「しまった」側の人間たちだ。3人のうち、捨之介だけが沙霧という存在を護ろうとし、未来への足掛かりを得る。だが天魔王と蘭丸にはそれがなかったし、敢えてそれを避けた印象すら抱くようになった。

 

 歴史の河の中洲に取り残されたものの哀しさは、徐々にせり上がって来る水音を、観客だけが知っている点にある。しかし天魔王も蘭丸も、心のどこかで気が付いているのではないか。なぜなら蘭丸はクドキのシーンで、夢見酒を盛大に吐き出していながら、杯を傾け続ける。対して捨之介は夢見酒を飲まされながらも、沙霧はじめ仲間の手助けもあるとはいえ、自らの意志で髑髏城を抜け出す。

 そもそも蘭兵衛が飲み続けた液体は「夢見酒」と断言されていないあたりも引っかかっている。これは完全に考え過ぎだろうが、若の時には捨之介が「薬を入れやがったな」と言うが、今回その描写はなくなっているのだ。果たして花蘭兵衛が服んだのは、酒か血か、それとも過去の残り香か。

 

 捨之介と蘭兵衛、そして天魔王。この三角形に兵庫という男が加わっただけで、急に物語は四角以上に多面的になるような気がする。

 それは髑髏城を知らなかったあの日、束の中に見つけた豪華なフライヤー。『髑髏城の七人』というわりには、人数が合っていないじゃないか、そんな風に思ったことを覚えている。あの時はまさか、天魔王と蘭兵衛がその七人には含まれていないなんて想像もしなかった。タイトルが指す七人は、「てめえが雑魚だと思ってる連中」であり、間違いなく、降りしきる雨の中、それが止む時を信じて生きるものたちだ。「今一番武士らしい武士かもしれんなあ」そんな風に形容されながら。

 

『髑髏城の七人』Season花_2017/05/27夜

 成河天魔王さま最高!!今回の感想はこの一言に尽きる。途中まで、驚くほど感情豊かで自由になった捨之介に夢中だったが、あのシーンを観てしまってからは、もう天魔王さまの表情が忘れられなくなった。成河さんのその解釈だいすき、もうずっと観ていたい、そうか、そうだったのか……と震えている。

 

 再演を繰り返すことの醍醐味のひとつは、様々な演者さんの多様な解釈を目の当たりにできる点にある。しかもロングラン公演。演技の内容が変わり、演出が深化するのは当たり前のことだ。映像によって切り取られる一瞬もまた代え難いものではあるが、着実に時間によって物事が移り変わるエンターテイメント性こそ、生の舞台ならではの魅力だろう。

 

 物語の終盤、天魔王は腹心の部下までも斬り捨て、蘭兵衛もとい蘭丸を殺し、すべての咎を捨之介に着せて逃げようと画策する。天魔王が蘭丸に深々と刃を突き立て終わったまさにその瞬間。ついに捨之介たちは髑髏城を登り詰め、天魔王と対峙する。極楽太夫は必殺の銃弾を浴びせかけようとするが。天魔王が殺したはずの蘭丸は最期の力を振り絞ってゆらりと立ち上がり、天魔王の盾となり死ぬ。

 つい先日まで、自らを庇った蘭丸の生き様に対する天魔王は、ある種せせら嗤うかのような、そんな非道さが感じられた。だが今回、目の前で崩れ落ちる蘭丸に対して嗤い声を上げこそすれ、どうしても拭いきれない天魔王の哀しみが観えた。泣き笑い、そんな表情だ。

 

 97年・赤・青・若と、『髑髏城の七人』では「捨之介と天魔王、そして信長公は同じ顔」という途轍もない設定は微妙に変化し続けている。花髑髏においてはその設定は失われ、この間まではそれをとても残念に思っていた。だがあの泣き笑いを観てしまってからは、別の意図を感じる。同じ顔でないからこそ、天魔王と蘭丸という共犯関係が、憐れで代え難いものになっているように思う。

 絶対的な「天」を喪った三人に遺された道は、「今度こそ間に合わせる」か「秀吉への怒り」、その二択だけだと思っていた。だが果たして蘭兵衛というひとは、あくまで再び夢に酔っただけなのか。わたしが一昨日みた彼は、酔うというよりは極めて醒めて観えた。

 あのクドキのシーン、酩酊し、過去に引き摺り込まれる「蘭兵衛」もそれはそれで良い。自分にとって唯一無二のひとと同じ顔で迫られたら、当然抗うのは無理だよな、と。けれど花において、天魔王が信長公と似ているような描写は一切ない。だから余計に切ない。

 花蘭兵衛は選んでいる。取り残された三人のうち、一番の年長者として、自分の道を選んでいる。一人の弟はなにもかも捨て、もう一人が天を再び見据えた時、彼は天魔王を選んでいる。それはかつて彼が信長公を選んだように。天魔王は誰一人として信じていなかった、きっとあの一瞬までは。たった一人の共犯者を得ていたことに彼は薄っすら気が付いていながら、結局は滅茶苦茶にしてしまう。

 あの泣き笑いには、もしもを感じさせる哀しみがある。もしも自分が最後まで蘭丸を信じていたら。もしも当初の計画通りにことが進んでいたら。もしも捨之介にほんものの鎧を着せていたら。もしも、もしも、もしも。

 これまでの天魔王は、それこそ「人」であって人ではなかった気がする。信長公の亡霊であり憑代、蘭兵衛を殺し、蘭丸として甦らせる怨霊。だが蘭丸の死に一瞬でも狼狽える天魔王は、紛れもなく生きていた。そこに意志がある、仮面の下にある別の顔が観えた。

 

 結局、自分の感想はなにもかもが推測と憶測でしかない。学生時代に古文を読み解かされた際、そんなことまで考えたのかな、作者は適当に書いただけじゃないの、と常々思っていた。だがそういう意図であったらなあ、という余白があればあるだけ、受け手はそれを選んで想像し、楽しむのだろう。きっと100年後であっても、わたしと同じく『髑髏城の七人』に夢中になるひとがいるように。