『髑髏城の七人』Season花_2017/06/4昼

 これまでに6回、『髑髏城の七人』Season花を観た。自分の感想を読み返してみると、それぞれの回で心動かされた登場人物が違っていたようで面白い。初回は無界屋蘭兵衛。2度目は蘭兵衛と極楽太夫。3度目は捨之介と蘭兵衛。4度目は捨之介と沙霧。5度目は天魔王。そして今回は、完全に兵庫だった。

 今までの髑髏城、幾度となく胸がいっぱいになることはあった。3時間強の上演中、切なくて、激アツなシーンは数限りなくある。だが不思議と泣くことはなかった。

 しかし今回。ラストに兵庫が極楽太夫の手を取って懸命に言う台詞、「これを使え。使い切るまで死ぬな。そうすりゃ、そのうち気も変わる。死のうなんて気持ちはどっかにいくよ(戯曲本より抜粋)」すべてが終わって、無界屋蘭兵衛と、仲間の遊女たちの死に改めて直面し、今にも折れてしまいそうだった太夫。彼女をしかと受け止めて、護ろうとする兵庫の強さに、思わず涙腺が緩んでしまった。

 序盤、捨之介は太夫に見事にあしらわれてしまっている兵庫に対して、「お前には荷が重い」と言い切る。それが最後、「重い荷物を見事に支えやがったな。たいしたもんだよ」と感心する。捨之介や蘭兵衛、天魔王が過去と闘っているのに対し、兵庫だけはずっと「今」を生きている。そして誰よりも早く未来へ片足を踏み入れ、そこから脱落しかけた者の手まで引っ張り上げてみせるのだ。

 

 捨之介や兵庫らの印象がどんどん力強くなる一方で、天魔王と蘭丸に関しての印象は、次第に哀しみで滲んでいくような感じがする。今回は上手側にいたため、襲撃のシーンで、徳川勢にその残虐性を剥き出しにする天魔王と蘭丸がよく観えた(というか上手前方に座っていると、こっちに向かって非常に非情な二人がにやにやしながら台詞を放って来るので、「家康さま〜〜〜助けてくんろ〜〜〜」という気持ちになる)。

 「無界屋蘭兵衛」として生きていたよりも、「蘭丸」として生きているほうが余程楽しそうな信長の腹心。返り血をぺろぺろ舐める人の男。以前はそれがとても恐ろしく観えたのだが最近は、それがどうしてか哀しく観える。

 彼らは間違いなく歴史に取り残されたものたちで、生き残って「しまった」側の人間たちだ。3人のうち、捨之介だけが沙霧という存在を護ろうとし、未来への足掛かりを得る。だが天魔王と蘭丸にはそれがなかったし、敢えてそれを避けた印象すら抱くようになった。

 

 歴史の河の中洲に取り残されたものの哀しさは、徐々にせり上がって来る水音を、観客だけが知っている点にある。しかし天魔王も蘭丸も、心のどこかで気が付いているのではないか。なぜなら蘭丸はクドキのシーンで、夢見酒を盛大に吐き出していながら、杯を傾け続ける。対して捨之介は夢見酒を飲まされながらも、沙霧はじめ仲間の手助けもあるとはいえ、自らの意志で髑髏城を抜け出す。

 そもそも蘭兵衛が飲み続けた液体は「夢見酒」と断言されていないあたりも引っかかっている。これは完全に考え過ぎだろうが、若の時には捨之介が「薬を入れやがったな」と言うが、今回その描写はなくなっているのだ。果たして花蘭兵衛が服んだのは、酒か血か、それとも過去の残り香か。

 

 捨之介と蘭兵衛、そして天魔王。この三角形に兵庫という男が加わっただけで、急に物語は四角以上に多面的になるような気がする。

 それは髑髏城を知らなかったあの日、束の中に見つけた豪華なフライヤー。『髑髏城の七人』というわりには、人数が合っていないじゃないか、そんな風に思ったことを覚えている。あの時はまさか、天魔王と蘭兵衛がその七人には含まれていないなんて想像もしなかった。タイトルが指す七人は、「てめえが雑魚だと思ってる連中」であり、間違いなく、降りしきる雨の中、それが止む時を信じて生きるものたちだ。「今一番武士らしい武士かもしれんなあ」そんな風に形容されながら。