きっと世界はいつの時でも信じ続けてそして始まる

 ミュージカル『さよならソルシエ』再演の配信が終了してしまった(正確に言うと、ストアでギリギリに購入してさえいれば、9/29までは視聴可能だったようだ)。昨夜は日付が変わるまで配信を観ていて、Twitterでも視聴している方が多くて、上映会みたいで楽しかった。

 

 さて、わたしはミュージカル『さよならソルシエ』の初演も観ていた。初演も千穐楽公演を観た。これはちょっと自慢になるが、初演も再演も千穐楽を最前列で観た。とてもラッキーな経験をさせてもらった作品だと思う。

 初演、単純に良いミュージカルだなと感じた。もともと美術はすきだから、フィンセント・ファン・ゴッホが悲劇的な人生を歩むのは識っていたけれど、それを遡って肉付けして、さらに彼の側にいた人物にスポットライトを当てた、そもそもの原作に破綻がなかった。けれどミュージカルにした付加価値は見当たらなかった。機械人形のようなテオドルスと、朗らかなフィンセントはどこかちぐはぐに観え、その他の登場人物たちも、あくまで「その他の人々」に観えた。だから再演も、また「モンマルトルの丘」が聴けたら良いな、程度の軽い気持ちで観に行った。だが。

 なにかが違う、そう感じたのは、オープニングの一曲、平野良さんが演じられるフィンセントが登場した時からだった。会場が初演とは段違いの音響設備だったこともあり、ピアノも真っ直ぐ響いていた。ピンスポットで浮かび上がり、振り向きながら歌い始めた平野さんもといフィンセント。そしてそこからはなにもかもが違っていた。記憶の中では磁器の人形のようだったテオドルスは、活き活きとした人間になっていた。黒尽くめの衣装も、優しい彼が選んだ戦闘服のように観えた。

 若い芸術家たちも、皆漲るように熱く情熱的で、憤りや悔しさをキャンバスにぶつけるしかない彼らの代弁者として、テオドルスが立ち上がった過程がすんなりと理解できた。それなのに、テオが一番美しいと思う絵を描くフィンセントは、怒りを知らなかった。

 テオの歯痒さは、観れば観るほどわかった。もしもフィンがゴーギャンロートレックや、パリに溢れる労働者階級の人々のように怒りに満ちて、それを糧として筆を取るような人だったならば。だがそうであったら、きっとフィンの絵は違う絵になっていて。あちらを取ればこちらが立たず、結局兄弟は、二人で一人の卓越した人物、となるしかなかった。

 

 誰かのために絵を描こうとしたことなんてないよ。中盤、フィンはテオに向かって語る。絵がすきだから。けれどこうも語る。ぼくはきみに、すきなものを見つけて欲しい。ぼくに絵を与えてくれたのは、きみだから。そしてフィンセントが初めて怒るのは、他ならぬテオドルスのためだった。ふざけるな!!と声を荒げたのは、テオのため。そしてテオのさだめを裏付けるべく取ったフィンの筆は、果たしてかつてと同じ絵を描いたのだろうか。

 終盤、場面は大きく変わって、おそらくは現代の美術館に移る。ゴッホの有名な連作『ひまわり』がないことに不満げな青年を平野さんが演じるが、このシーンがわたしは一番すきだった。一説によるとこの自画像は、弟テオを描いたものだと言われている、そんな説明を聞いた青年は一言、へえ、とだけ頷く。そしてその響きには、その逸話が真実であろうがそうでなかろうが、この絵は魅力的だな、という響きがあったように思う。力強い芸術に触れた時に、誰もが持ち得る過去への畏敬と感慨のようなものが声に滲んでいた。

 

 『さよならソルシエ』という虚構の物語の最大の魅力は、なによりも過酷だった現実が、結局は物語にハッピーエンドをもたらしているという点にある。テオが塗り変えようとした事実は、塗り変えられたかどうかは別としても、現在ゴッホの絵は(そう、100年後の人々でさえも)、魅了しているという事実に帰着する。我々はこの虚構が結局はバッドエンドであることを知っているし、かつテオの思い描いた通りに帰着することも知っている。始まったその時から、幕が降りる瞬間まで。それがどうしてこんなにも心揺さぶるのか、それは間違いなく、透明な音楽と歌で綴られるからだ。間違いなく、ミュージカルであったからこそ、彼らの物語は儚く繊細で、かつ時間を閉じ込めたかのように美しかった。

 

 ここからは単なる愚痴。配信されている以上、ミュージカル『さよならソルシエ』再演の映像は間違いなく存在している。いつもTVに繋いで観ていたから、大きな画面にも耐えられるだけの画質があることもわかっていて。それなのに円盤化されず、もしかするとこれから先、誰の目にも触れないままになるなんてことを考えると、思わずテオのように脚を踏み鳴らしたくなってしまう。もちろん舞台作品は、劇場で観てこそのものだ。けれど初演と同じく、ミュージカル『さよならソルシエ』再演にも、上演終了後にその世界に触れられる機会が、生まれ続ければと願っている。
〜きっと世界円盤はいつの時でも信じ続けてそして始まる売られる〜

『髑髏城の七人』Season風_2017/09/17夜

 花に魅せられてから花鳥風月の髑髏城も折り返し、季節は秋になった。台風直撃の関東平野、11回目のステージアラウンド東京。

 風髑髏のPVは、BGMがアカドクロだったということもあり、一人二役も含めてよりアカドクロ的なものになるかと思っていた。花は若髑髏を、鳥はアオドクロを、そして風はアカドクロを踏襲しているような印象だったからだ。だがそもそも月髑髏自体が97年版リスペクト、というわけではないようだから、あくまでPVの音楽だけが歴代髑髏城を遡っているだけなのかもしれない。それでも期待していたのは骨太で無骨な髑髏城だったから、今回の風髑髏は少し肩透かしをくらった気分だ。

 ここからはあくまで初日あけてすぐの感想、として書き残しておこうと思う。わたし自身は、これまでの97年版、アカ・アオドクロ、若髑髏を映像で、花・鳥・風髑髏を劇場で観ている。そのうち若と花が一番すきな人間ということは、最初に明記しておきたいと思う。

 

 なによりも驚いたのは、客席をわずかに回転させることで、映像演出時にものすごい臨場感と、浮遊感が演出されていたこと。これは3回目でなければ観られなかった演出で、いのうえさんの手腕に改めて震えた。鳥までは、あくまで左右の動きに合わせて舞台上に拡がりがもたらされたり、流れて行く映像を読むための横方向の移動が行われていたように感じた。だが今回は回転することで足場が不安定になり、そこから映像に取り囲まれるような錯覚を得られて、とても楽しかった。

 いのうえさんのインタビューにあった通り、

ピンスポットがなかったり、フットライトがなかったり、と、今思い返せばかなり暗い中、花髑髏は展開されていた。今回は天井からの照明が幾筋も左右から重なって、とても美しく演者さんたちを照らしていた。これも回を重ねたからこその演出であり、幾度となく登城したからこそ観えた景色で嬉しくなった。だからこそ、粗が目立っているのかもしれず。

 

 まず一番の問題だと感じたのは、「誰が喋っているのかわからなくなる瞬間」が多々あったこと。特に無界屋のシーンでは、誰がなにを話しているのかわからず、かつ衣装も似ているから、太夫が紛れてしまっていた。荒武者隊に関しても、強烈な個性を発していた一人を除いて区別がし辛く、だからこそ襲撃のシーンは今までで一番客席が放置されてしまった印象受けた。あのシーンまで、その他大勢だった彼らが、死に際でそれぞれの矜持や覚悟を魅せるからあのシーンはより残酷に観えたのではないか。かつそこから、生き残った太夫が、「あたしだけはね」と答えるしかなかった状態から、「あたしも行くよ!!」と再び銃を手に取るから最後の殴り込みがより一層手に汗握るものになっていたと思う。 

 ステージアラウンドの音響に難があるのはわかっている。けれどできれば襲撃のシーンで泣いて、そして再び髑髏城へ向かう彼らに心の中で「頑張れ!!」と叫びたいので、なにかしら変わって欲しいなあと思っている。

 

 次に殺陣。それぞれ違う髑髏城なら、いっそそれまでばっさばっさと人を斬っていた人が、ガラリと変わっていても良かったのではないかと思えた。また襲撃のシーンの話になってしまうが、わたしは服部半蔵が飛び込んで来るシーンがだいすきで、もう若髑髏のあのシーンは何度観たかわからないほどだ。

 花でも蘭丸と半蔵の刃には火花が散るようで、「やるな!!貴様、名は」、の呼びかけにとても重みがあった。半蔵、今来てくれたのは嬉しいけど、遅いよ!!なんでもっと早く来てくれなかったんだよ!!あんたら、みんな一緒だ!!という気持ちにさせてくれたあの殺陣の緊張感があったからこそ、強大な権力をものともせず、改めて「捨之介のために」たった6人で髑髏城へ向かう彼らを応援できた。だが今回はどうしても天魔王と蘭丸が恐ろしくは観えず、たまたま無界屋に入れてくれたからみんなを襲撃した、半蔵も、いよいよ殿が危なくなったから来た、という印象を持ってしまった。半蔵、明らかに手を抜いているでしょ。半蔵なら、この二人をすぐに倒せるでしょ!!と別の感情を抱いてしまった。

 ヒリヒリするようなやりとりを交わしながら天下を争っている人々。天魔王と蘭丸、そして徳川の軍勢はそうであって欲しかった。だからこそそんな彼らを前時代的なもののように扱う兵庫や、「覆い被さっていた天を振りはらってくれた」沙霧がより鮮やかだった。殺陣で示せないなら、中途半端にやらなくて良い。それこそ蘭丸は持っている拳銃や毒霧を吹くとか、そんなトンデモ設定で良かった。とにかく今のままの殺陣では、豊臣軍もとい徳川軍を髑髏党が相手取るなど絵空事に近く、そしてなぜ蘭兵衛が蘭丸に戻らざるを得なかったのかが、結局は不明瞭なままなのだ。

 ただ、一幕最後の魅せ場、蘭兵衛さんが髑髏城へ向かう路は大幅に演出が変わっていて、今までのそれとはまた違った意味で美しかった。歌や映像は少し視線を散らしたかったのかな、と感じたが、斜面を登りきった先にある髑髏城、というのは禍々しくも恐ろしく、そこへ向かう背中がより小さく儚げに観えた。

 

 どうしてこうも要望が噴出するのか。正直、鳥髑髏にはハマらなかった。こういう髑髏城なのかあ〜と思って、劇場で1回、表情を観たくてライビュで1回。それで満足できた。なぜか風髑髏には、こうして欲しい、ああして欲しい、という思いが溢れ出てしまう。どうしてか。自分でもまだよくわかっていない。

 次の風髑髏への登城は千穐楽公演になる。秋も深まり、もう冬という季節だろう。思えば花の時も最初はなんとなく消化不良で、なぜこの作品がここまで人々を魅きつけるのか知りたくて、二度目の観劇で完全にやられてしまった。最後の公演まで、怪我なくカンパニーの成功を祈る。それとともに、なんとなく感じられたカンパニーの仲の良さから、これまでの髑髏城にない風が吹くと信じている。

ミュージカル『しゃばけ弐〜空のビードロ・畳紙〜』2017/09/10千秋楽

 実は初めて本館のほうの紀伊國屋ホールへ行った。古いし椅子は軋むし、椅子の背もたれが低過ぎるし、座席に傾斜がなくて後ろの方に迷惑じゃないかハラハラするし、でも、空気に演劇が染み込んでいる良い空間だった。

 

 さて本題。しゃばけはもともと原作がすきで、数年前のテレビドラマもすきで、前作も千秋楽を拝見していた。出版スピードが早くて原作には追いつけてはいないが、愛着のあるシリーズだ。さらに今回は屏風のぞきと松之助兄さんのスピンオフ。前作から引き続き屏風のぞきは藤原祐規さん、松之助兄さんはフィンセント兄さん……ならぬ平野良さん。

 構成はほぼ2部構成で、欲を言えば2時間のお芝居とはいえ間に休憩を挟んで欲しかった。それくらい、屏風のぞきの活躍する『畳紙』は明るく感じたし、松之助兄さんが義弟である若旦那のもとへやってくる前日譚『空のビードロ』は辛く苦しい状況に、ビードロから透かした光が漏れ差すような作品だった。

 

 まずは『畳紙』。なによりお雛ちゃん役の岡村さやかさんの歌声が良く響いて、これは褒めているのだけど、しゃばけというよりディズニー映画を観ているような気分になった。前作のように人間に害をなす「妖」が登場するわけでもなく、ある意味人間のすれ違いを妖である屏風のぞきが解決?するわけだから、奇妙に思えるのはまさに「人間」であって。

 「わたしはしあわせ」と確信を持ったお雛ちゃんがその後どうなったかは、ちょっと原作の記憶があやふやなので読み直すとして、ただただ、わたしの夢にも屏風のぞきが現れてはくれまいか、と願わずにはいられない。

 屏風のぞきという役は、まさに藤原さんにぴったりの役。口も回るし頭も回る、好きなものは好きと言い、嫌いなものは嫌い、良くも悪くも人は人、他人は他人、けれど奥底に優しさが揺るがずにあるというのは、あのクラブスレイジーの支配人にも通ずるような。  

 過去の役と比べてしまうのはもしかしたらとても失礼なことかもしれないが、それでも。Zsさんを演じられた藤原さん、フィンセント兄さんを演じられた平野さんを知っているからこそ、今回の佇まいがより美しく観えたのも事実だ。演技の違いと、愛着のある役者さんを観られる楽しさというものは共存し得る。

 

 ただ、前作に引き続き鳴家が幼い子どもだったのは、わたしはあまり得意ではなかった。結局は若旦那を無理やりにでも出さなくてはならないのも歯痒く、そもそも主人公がいない状況でシリーズとして物語を完遂し得るはずもなかったのではないか、などとも思ってしまった。少しこじんまりとしていた世界観が、より狭く、閉塞感が少し増したようにも感じられた。今回は前作を観ていない友人と一緒に観に行ったが、スピンオフだから前作はそこまで必須でないはず、と話していたため、申し訳なかった。前作と繋げたいのなら、しっかりとした説明の歌を挟むなり、なにかしらもう少しだけケアが欲しいところだった。

 

 とはいえ平野良さん演じられる松之助さんのお話は、「妖」よりも「人間」のほうが余程恐ろしいという、『しゃばけ』シリーズ全体に流れる通念のようなものが端的に現されていて、観ていて清々しい気持ちになれた。

 原作は読んだはずだが記憶の彼方で、ただ松之助さんがビードロを拾うあたりから、それが誰のものであるかとか、結末をぽろぽろと思い出した。特に松之助さんが道を踏み外しそうになる瞬間は、「平野屋!!」って叫びたいくらいに平野さんの危うい演技と歌声が素晴らしくて、それはやっぱり3月の『さよならソルシエ』で観た平野さんの横顔と、同じでいてまったく違っていた。平野さんの目玉のほうがビードロより余程きらきらしていたのも観えて、カーテンコールで「仔犬のような顔で」って表現されていたのも頷けた。

 

 メサイアシリーズを観返しでもしたら、それこそ「お兄ちゃん」だし、泥沼に絡め取られてズブズブと沈んで行く未来しか見えないから、今は怖くて「観たい」という気持ちに頑張って蓋をしている。

 今回、冒頭で登場してから『空のビードロ』が始まるまでの小一時間、役柄も鑑みて、裏でこれからどのくらい俳優を続けられるかな、なんてことを考えてた……などと仰っていたけれど、本当に平野良さんは生粋の役者さんだと思うし、もっと評価されて欲しい演者さんの一人だ。だって狂う演技を歌で現せる役者さんなんて、滅多にいないと思う。あと、全員にキスしたいなんて冗談を笑わずに言える役者さんも、滅多にいないはずだ。

 

ミュージカルしゃばけ

観劇前の戯言として

 今日発表された『髑髏城の七人』Season月のキャスティング。なぜ自分がこんなにもワクワクしないのかを考えた。おかしい。花どくろを観て以来、毎日風どくろと月どくろのキャスティングを考えるだけで楽しかったのに。

 花どくろのライブビューイングで風どくろのキャストが発表された時、わたしは劇場にいた。ぐるりと客席を取り囲むスクリーンに、松山ケンイチさんらそれぞれ衣装を身につけたキャストのみなさんの映像が映って、風もないのに劇場に豪風が吹き抜けたかのようだった。一人二役が帰ってくる。それだけで劇団☆新感線さんと主催側の粋な計らいにワクワクして、なんだか清々しい気持ちになれた。

 

 もともと、わたしを舞台へと導いたのはいわゆる2.5次元作品と呼ばれる作品だった。今から3年前、ゲームとアニメがぶっ飛び過ぎた原作で、これを舞台化するなんて、と興味半分で銀河劇場を訪れたのを覚えている。だがそこで繰り広げられていたのは、原作と同じようにつくり込まれた衣装で歌って踊る俳優さんたちの熱い世界だった。ペンライトをキャラクターのモチーフカラーに合わせて振れと言われて、最初はライブみたいな感じかな、と思っていたが、ライブで振るのとはまた違う楽しさがあった。わたしたちが求められているのは舞台作品世界における「観客」であり、間違いなくペンライトを振っている間は、お芝居に組み込まれてしまうのだ。

 それから3年。最近は舞台化することが最早当たり前のような風潮もあり、そして同時にその流れに辟易している自分もいた。稚拙なパフォーマンスに、仲の良いカンパニーアピール。時折流れてくる若手俳優の炎上ネタ。なんだか時々いたたまれない気持ちになった。

 

 最近、2.5次元出身の舞台俳優さんが、2.5次元でない作品でも多用されることが増えた。友人の推しさんが出るからとつき合ったとあるミュージカル。なぜか2.5次元系の俳優さんが、グッズだけは厚遇されていてよくわからなかった。アクリルキーホルダーやブロマイド。こういうのが好きでしょう、そんな風にこちらを見ている意図を感じた。商売として、売れているものを模倣するのは当たり前のことだが、なぜか悔しかった。

 

 俳優さんを応援する理由ってなんだろう。わたしは、俳優さんのパフォーマンスが観たいからから応援している。応援したいと思うひとは舞台が中心のひとが多いから、身勝手ではあるが舞台に出続けてくれることを望んでいる。舞台出演はテレビで言われるように「下積み」ではないと思うが、嘆かわしいことにこと日本においてはそう捉えられがちなのも知っている。けれど生で観ていたいなあ、そんな気持ちにさせてくれたひとを、テレビで観たひとよりは応援したくなってしまう。

 2.5だからレベルが低い。2.5だから幼稚。そんなことは贔屓目承知で全然ないし、エンターテイメントの優劣ほど、数値化できないことはないと思っている。だが今回のキャスティング発表を受けて、わたしはやはり考えてしまう。沙霧という重要な女性キャラクターが男性になったこと。2.5次元作品で多くのファンを獲得したであろうキャストが、ひとまとめにされていること。そこにまたあの視線を感じてしまう。こういうのが好きでしょう、という、こちらを無遠慮にカテゴライズして上から見降ろすようなあの視線。

 

 『髑髏城の七人』との出会いは、本当に衝撃だった。いつか、わたしが応援している俳優さんがあの作品に出てくれたら。そう願わずにはいられない魅力と、懐の深さを感じた。わたしが勝手に感じている違和感は、感じているほうがおかしいのはわかっている。もしも自分が応援している俳優さんがひとりでもいれば、文句も言わず、チケットの心配をしていただろう。けれどこのザワザワとした気持ちは、これまではなかった。

 観る前の戯言として。そして本当に生で観られるかわからないけれど、ただひたすらに成功を祈りながら。

『髑髏城の七人』Season鳥_2017/07/31ライブビューイング昼

※ネタバレあり!!

 

 早乙女蘭丸の赤いアイラインは下瞼に滲むように引いていたのかと気付けたり、森山天魔王の額はあれほどまでに哀しく歪んでいたのかと知ったり、阿部捨之介が序盤で浮かべた余裕の笑みが忘れられない。だから、やっぱり舞台は前方列で観たくなってしまう。

 

 月どくろのキャスト発表もあったらな、などと欲深い期待も抱きつつ、初めてライブビューイングというものを経験した。生で観られないなら観ないという自分ルールも、髑髏城の前では早くも敗れ去った。前回中列中央から観た鳥どくろは、確かに印象的だったし、鮮やかではあったが、演者さんの顔を観たくなってしまった。そして劇場では座席位置に大きく左右される音響も、映画館ならばある程度は担保されるのでは、とも思ったからだ。

 予想通り音響はかつてないほどに聴きやすく、多少のマイクトラブルはあったにせよ、歌詞が聞き取れたことはとても嬉しかった。特にクドキの場面、かなり重要なことを歌い上げているから、ステージアラウンド東京の音響ベスト座席位置も探る必要がありそうだ。

 

 森山天魔王と早乙女蘭兵衛の殺陣はやはり圧巻で、太刀捌きは観えず、身体がどうなっているのかもわからなかった。ただただ風を斬るように透明な早乙女蘭兵衛の殺陣と、しなりながら強靭で柔軟な森山天魔王の殺陣を観ているだけで楽しいのだ。良い意味で人形のような二人が、二人だからこそできる力加減で、常人離れしたやりとりを魅せてくれた。

 

 かつライブビューイングとは面白いもので、なんだか自分が劇場の空気のような気分になった。おそらくカメラによって視界を制限されていたからだろう。鳥は花より回数を重ねていないから、カメラに視界を委ねれば委ねるほど、能動的ではなくより受動的な観劇になった。するとまるで鳥瞰しているような、その世界に「入り込む」というよりは「覗き込む」かのような心持ちになった。映画と舞台は似ているようでやっぱりまったく違う。

 

 今回、信長が天魔王に「死ね」と命じた、という物語。わたしにとっての花どくろで語られず、それでいてそうであったらとずっと願っていた、「殿と人の男」の関係性だった。

 花どくろにおいて、天魔王が信長にそう言われたという描写はない。けれど、もしも彼が殿に死ねと命じられていたならば。なんて憐れで、そして最後に天を睨む彼の口元に薄っすら浮かんだ笑みの理由も、なんとなく説明できるようになる気がする。貌を焼かれ、誰かの仮面を被って天を睨んだ男が唯一、裡に秘めていた命令と願いがそうであったなら。

 そうだ、わたしが抱いた感想は、花どくろにおいては妄想でしかない。けれど鳥どくろにおいては正史なのだと思うと、もしかして鳥への願い事は、風で叶うのではないかと思えてくる。今回言われもしないで感じたのは、信長の最期の命に逆らったのは、捨之介でも天魔王でもなく蘭丸だったのではないかということ。そう願っているのだが、果たして。

『オペラ座の怪人』_2017/07/23マチネ

 学生時代に映画版を友人と観たのが最初の出会い。もともと宝塚がすきな家庭で育った友人が、映画館からの帰り道に「あたしはやっぱりファントムかな」と言ったのを覚えている。派手めで綺麗な顔立ちをしていた彼女の懐の深さに驚いて、良い奴だな、と思ったのも覚えている。そんな彼女は中学校でいじめの首謀者にされてしまい、当時単身赴任をしていた父親のもとへと転校してしまった。

 

 ずっと舞台版を観たいと思いながらも行けていなかった。今回初めて観た劇団四季のそれは、自然かつ豪華で堂々としていて、日本語でなめらかに歌い上げられる曲の数々をまっすぐに受け取れた。むしろ普通の会話の中に出て来る「エンジェル・オブ・ミュージック」は気になるのに、ひとたび歌われてしまえば、それらは日本語と混ざってもなんの不自然さもなかったからとにかく不思議だった。

 劇場はまさに街灯に薄ぼんやりと照らされたパリの空気をはらんでいるかのうようで、かつて一度だけ旅したパリの街並みが思い出された。オペラ座から歩いて15分程度のホテルに泊まって、いつでも行けるから良いだろうと最終日に訪れたら、まさかのリハーサルで見学できなかったあの黄金の絢爛な劇場。あの場所でもしもあんな物語があったなら。

 

 映画版を観た時には、クリスティーヌってよくわからない女だな、と思ってしまった。その感想は今でも変わらない。だが舞台では、彼女の「ラウルへの」深い愛に感動すると同時に、報われない怪人の叫びが辛かった。別に恋愛関係でなくても慟哭したくなるようなことはたくさんあるし、結局片想いとは、しているほうを怪人にしてしまうような部分がある。そして愛する人を守るためならば、どんな条件だって受け容れる愛。そんな愛をこれからの人生で持ち得るのか、自分の人生を鑑みるに到底そんなことはなさそうで、怪人のようにいなくなりたくもなったのは事実だ。

 けれどとことんロマンチックな物語というのは、結局ロマンチック過ぎるから良いのではないか。例えば熱々のパンケーキに、メープルシロップもバニラアイスクリームものっているから美味しいというような、アイスが溶けちゃうのにのせてしまうその矛盾が美味しいというような、受け手に矛盾を受け止めつつ目の前のしあわせを享受させる力が、愛され続けているミュージカルにはあると思う。

 

 もう「ファントムとラウル、どっちがすき?」というような質問をはしゃいでする年齢でもなくなった。映画も舞台も一人で観に行けるようになったし、一人で観に行くほうが楽というのがわたしにとっては真実だ。けれど劇場からの帰り道、横浜の爽やかな海風を感じながら「わたしはやっぱりラウルかな、子爵だし」という幼い頃から変わっていない答えが浮かんだのは愉快だった。冒頭の友人、有名にはならなかったが夢を叶えてアイドルになった。彼女と映画を観たあの日のことを思い出せたことも、良かったと思っている。

『髑髏城の七人』Season鳥_2017/07/17昼

 1ヶ月振り10回目の、ステージアラウンド東京。そして初めての『髑髏城の七人』Season鳥。テーマカラーはSeason花とは打って変わってグリーン。だからかなぜか、クールなイメージを抱いていた。だがそこで繰り広げられていたのは激アツで、まるで90年代のアニメ(例えば『ふしぎの海のナディア』)を観ているような。夏の高い空にぴったりの、爽やかで凛としてそして鮮烈な髑髏城だった。

 

 序盤で感動したのはステージの開き方がかなり広くなっていたことで、見切れをかなり軽減してくれた。Season花では、敢えて狭く開けることで同じセットを違う場所だと思わせるシーンがいくつかあったが、端の席であればあるほどどうしてもスクリーンで見切れる部分があって残念だった。無界屋はかなり大きな建物に観える映像演出がされていて、それこそ『千と千尋の神隠し』の湯屋に迷い込んだかのような、ぐるりと囲まれるワクワク感が増していた。これはぜひ劇場で観て欲しい。

 

 鳥どくろを経て、「わたしは花どくろがだいすきだ!!!!」と叫びたくもなった。錆びたような禍々しい満月を背に、高嗤いをする天魔王。どこまでも真っ直ぐ前を向いて懸命に走る沙霧。どかどかとけたたましく登場する元気な兵庫。ふらりと現れて、どこまでも笑顔だがどこか虚ろな捨之介。背負い込んだ「今」に押し潰されそうな蘭兵衛と、生き地獄ですら撥ね退けられそうな極楽太夫。

 お茶目な浪人おじさんかと思いきや、一瞬で天下人たる一面を覗かせる狸穴二郎衛門。兄だからこそ現実を諭しつつも、最終的には弟の背中を押す磯平。沙霧を結局は守る三五には、たくさん妹がいそうな感じがして。そして肉襦袢という反則技の格好で登場しながら、髑髏党にも時の権力者にも決して頭を下げない贋鉄斎(Season鳥では彼の愛車がとあるシーンでひっそりと登場していて嬉しくなった)。挙げればキリがないが、鳥に触れて、花の思い出がまた鮮やかに甦った気がしている。

 

 様々な『髑髏城の七人』を観ると、パラレルワールドや、魂の輪廻的に捉えてしまいそうになる。つまり一つの魂が姿かたちを変え、同じ歴史の瞬間に何度も繰り返し立ち会うのを目撃するような。時間の終着点は否応なしに定まっていて、そしてそれこそが物語の結末で、けれどそこへ向かう方法は何百何万通りもあって。時に捨之介は年齢不詳の金髪着流し、時に白髪で琵琶を持ち、時にすらりと背が高く、時に忍び装束に逆手で闘うのかもしれない。そして天魔王と同じ顔のこともあって、瓢箪を片手にしている時もある。再演とは、一つの魂が持ち得る輪廻的な可能性を示されているような錯覚を抱かせてくれる。

 『髑髏城の七人』のどれか一つを観てしまったら、他も絶対に観たくなるだろう。まるで多角的に磨かれ、どの輝きが一番美しいとは断言できず、ある面から観ることが一番正しいわけでもない宝石の輝きのよう。この作品には不思議で複雑で普遍的な魅力がある。