ミュージカル『しゃばけ弐〜空のビードロ・畳紙〜』2017/09/10千秋楽

 実は初めて本館のほうの紀伊國屋ホールへ行った。古いし椅子は軋むし、椅子の背もたれが低過ぎるし、座席に傾斜がなくて後ろの方に迷惑じゃないかハラハラするし、でも、空気に演劇が染み込んでいる良い空間だった。

 

 さて本題。しゃばけはもともと原作がすきで、数年前のテレビドラマもすきで、前作も千秋楽を拝見していた。出版スピードが早くて原作には追いつけてはいないが、愛着のあるシリーズだ。さらに今回は屏風のぞきと松之助兄さんのスピンオフ。前作から引き続き屏風のぞきは藤原祐規さん、松之助兄さんはフィンセント兄さん……ならぬ平野良さん。

 構成はほぼ2部構成で、欲を言えば2時間のお芝居とはいえ間に休憩を挟んで欲しかった。それくらい、屏風のぞきの活躍する『畳紙』は明るく感じたし、松之助兄さんが義弟である若旦那のもとへやってくる前日譚『空のビードロ』は辛く苦しい状況に、ビードロから透かした光が漏れ差すような作品だった。

 

 まずは『畳紙』。なによりお雛ちゃん役の岡村さやかさんの歌声が良く響いて、これは褒めているのだけど、しゃばけというよりディズニー映画を観ているような気分になった。前作のように人間に害をなす「妖」が登場するわけでもなく、ある意味人間のすれ違いを妖である屏風のぞきが解決?するわけだから、奇妙に思えるのはまさに「人間」であって。

 「わたしはしあわせ」と確信を持ったお雛ちゃんがその後どうなったかは、ちょっと原作の記憶があやふやなので読み直すとして、ただただ、わたしの夢にも屏風のぞきが現れてはくれまいか、と願わずにはいられない。

 屏風のぞきという役は、まさに藤原さんにぴったりの役。口も回るし頭も回る、好きなものは好きと言い、嫌いなものは嫌い、良くも悪くも人は人、他人は他人、けれど奥底に優しさが揺るがずにあるというのは、あのクラブスレイジーの支配人にも通ずるような。  

 過去の役と比べてしまうのはもしかしたらとても失礼なことかもしれないが、それでも。Zsさんを演じられた藤原さん、フィンセント兄さんを演じられた平野さんを知っているからこそ、今回の佇まいがより美しく観えたのも事実だ。演技の違いと、愛着のある役者さんを観られる楽しさというものは共存し得る。

 

 ただ、前作に引き続き鳴家が幼い子どもだったのは、わたしはあまり得意ではなかった。結局は若旦那を無理やりにでも出さなくてはならないのも歯痒く、そもそも主人公がいない状況でシリーズとして物語を完遂し得るはずもなかったのではないか、などとも思ってしまった。少しこじんまりとしていた世界観が、より狭く、閉塞感が少し増したようにも感じられた。今回は前作を観ていない友人と一緒に観に行ったが、スピンオフだから前作はそこまで必須でないはず、と話していたため、申し訳なかった。前作と繋げたいのなら、しっかりとした説明の歌を挟むなり、なにかしらもう少しだけケアが欲しいところだった。

 

 とはいえ平野良さん演じられる松之助さんのお話は、「妖」よりも「人間」のほうが余程恐ろしいという、『しゃばけ』シリーズ全体に流れる通念のようなものが端的に現されていて、観ていて清々しい気持ちになれた。

 原作は読んだはずだが記憶の彼方で、ただ松之助さんがビードロを拾うあたりから、それが誰のものであるかとか、結末をぽろぽろと思い出した。特に松之助さんが道を踏み外しそうになる瞬間は、「平野屋!!」って叫びたいくらいに平野さんの危うい演技と歌声が素晴らしくて、それはやっぱり3月の『さよならソルシエ』で観た平野さんの横顔と、同じでいてまったく違っていた。平野さんの目玉のほうがビードロより余程きらきらしていたのも観えて、カーテンコールで「仔犬のような顔で」って表現されていたのも頷けた。

 

 メサイアシリーズを観返しでもしたら、それこそ「お兄ちゃん」だし、泥沼に絡め取られてズブズブと沈んで行く未来しか見えないから、今は怖くて「観たい」という気持ちに頑張って蓋をしている。

 今回、冒頭で登場してから『空のビードロ』が始まるまでの小一時間、役柄も鑑みて、裏でこれからどのくらい俳優を続けられるかな、なんてことを考えてた……などと仰っていたけれど、本当に平野良さんは生粋の役者さんだと思うし、もっと評価されて欲しい演者さんの一人だ。だって狂う演技を歌で現せる役者さんなんて、滅多にいないと思う。あと、全員にキスしたいなんて冗談を笑わずに言える役者さんも、滅多にいないはずだ。

 

ミュージカルしゃばけ