ちゃんとしたコーヒーは冷めても美味しいし

 舞台の感想をこうしてブログに綴るようになって、もうすぐ5ヶ月が経つ。趣味のひとつが観劇になってから数年、もっと早くからこうしてきちんと言葉にしておくべきだったと思う。実生活でも、モレスキンの日記帳を買って自分にプレッシャーをかけたのが良かったのか、飛ばし飛ばしではあるが日記が続いている。これまでまるで日記が続かない人生だったから、自分に驚きつつも続けている。

 当初、感想は400字以内におさめようと思った。原稿用紙一枚分。学生時代から原稿用紙にぴったりおさまる文章を書くのがすきだった。ちょっと気持ち悪い性分だが、わたしはファンレターもワードの原稿用紙ウィザードで書いてから手書きで清書している。「書く」のではなく、頭の中の言葉を吐き出すように「打つ」文章は、知らず知らずのうちに長くなりがちだ。それをいざ手紙に書き起こせば、とんでもない枚数の手紙になったりもして、自分にドン引いたこともあった。

 

 さて2月。『ALTAR BOYZ』に出会い、推しが増えた。というより『Club SLAZY』の1作目を映像で観て以来、推したくて推したくてたまらなかった俳優さんが、どうしようもないくらい最高の作品に出て、どうしようもないくらいカッコ良かった。しかも前々から応援していた俳優さんも、チームは違えどその作品に出演していて、もう自分史上最高の2月だった。

 当時のブログ、なんとか400字以内にまとめようとしていたが結局はあきらめた。だって大山真志さんのマシューは信じられないくらいハートフルであったかくてエネルギッシュで、良知真次さんのアブラハムは嘘でしょ、というくらい生真面目で一本気で一生懸命だった。そのおふたりが今のわたしにとって「推し」なわけだが、『ALTAR BOYZ』に関してはもう「箱推し」、スタッフ・キャストさん含め全部をまるっと推している。推していない部分は映像化してくれない点くらい。版権元の意向でもあるらしいから、これは余談だ。

 

 3月。『さよならソルシエ』再演。正直初演はあまり響かなかった。それが再演になって、なにがそこまで心に響いたのかはわからない。けれどとにかく感動が波のように押し寄せて、泣くのを忘れるくらい心が震えた。

 初演はもちろん主人公のひとりであるフィンセント・ファン・ゴッホが亡くなるシーンで泣いたが、今回は結末を知っている。最後はまた泣かされるんだろうな、そんな漠然とした思いを抱きながら着席した。幕があいたM1、フィンセントを演じる平野良さんの歌声があまりにも透明に響いて、昨年観たそれとはまったくの別物だった。兄弟の歌声は会場を吹き抜けるように響いて、無機質に思えたテオドルスというキャラクターが、とても不器用で愛すべき人間に思えた。終盤、現代の美術館に飾られたゴッホの絵を見上げて平野さんが「へえ」と微笑むシーン、この物語を果たしてハッピーエンドと呼べるかはわからないが、間違いなく観て良かったと思えた。

 

 4月。『髑髏城の七人』Season 花。日本初の360度シアターこけら落とし公演を観ずに、なにが趣味は観劇♡じゃ、と当日券で挑んだのが間違いだった。そもそも回転する時点で楽しいのは当たり前で(ディズニーランドのダンボに乗りながら舞台を観られるのだから楽しくて当たり前)、あの浮遊感には妙な中毒性がある。初めての劇団☆新感線作品、王道中の王道エンターテイメントは狂おしいほどに切なく、気が遠くなるほど豪華で面白い。観劇から1ヶ月、我慢が効かずにこれまでの『髑髏城の七人』で映像化されているものは、すべて購入してしまった。観劇の神様は笑っているだろうが、お財布の神様は泣いている。

 とはいえ1年に渡るロングラン公演の目撃者になれた奇跡には、感謝しかない。とにかく山本蘭兵衛さんを観てくれ。自分でもブログを読み返すと徐々にズブズブと夢中になっている過程がわかって、こんなはずじゃなかったと思いつつも後悔はまったくしていない。

 

 昨年、だいすきだった作品も一区切りを迎え、少し走りきったような気分になっていた。何事も3年続けば人生において特別な意味を持ち始めるが、わたしにとっての観劇という行為は、もう熱くて触れられないものではなくなっている。少なくとも去年末は、識り過ぎたと思っていた。夢から醒めた感覚に近い。

 観劇は惰性では続けられない。お金も時間も要るし、自分が費やしたエネルギーは自分が一番覚えている。だからこそ恐ろしかった。数時間、数年後の自分が振り返った時、この行為を徒労と思うのではないか。少し大人になったふりをして、深呼吸して距離を置こうかなとさえ考えた。けれどやっぱり、楽しい。

 立ち上がれば触れられるほどの距離に演者さんがいて、毎日同じようで同じ瞬間が一秒とてない世界。それに浸る数時間は、わたしにとってやっぱり特別で離れがたい。きっと、ずっと燃え続けいたら燃え尽きてしまっただろう。最近になってやっと、観劇という趣味が身体の臓器の一部になった気がする。わざわざ命じなくても処理対象を判断して(時々食べ過ぎることはあれど)、きちんと自分のエネルギーへ変えてくれている実感がある。なにより年明けから、素晴らしい作品の数々に出会えたことが大きい。たまたま興味本位で食べたものが、メチャクチャ美味しかった、そういう奇跡がずっと続いている。

 知ってしまったことは忘れたくても忘れることはできないから、知ったら知っただけ賢くなるしかないのかもしれない。最前列から観える景色はやっぱり他と比べれば別格で、中日より千秋楽のほうが拍手はあたたかく聞こえる気はする。けれど舞台という生物の表現において、一瞬たりとて同じ瞬間はない。だから自分が観た瞬間は二度と訪れない。去年までは火傷しながら飲み込むように舞台を観ていた。今年からは、目の前に素晴らしいものが溢れ過ぎていて困るくらいだけれど、ゆっくり咀嚼して、自分の糧にしていきたい。