きっと世界はいつの時でも信じ続けてそして始まる

 ミュージカル『さよならソルシエ』再演の配信が終了してしまった(正確に言うと、ストアでギリギリに購入してさえいれば、9/29までは視聴可能だったようだ)。昨夜は日付が変わるまで配信を観ていて、Twitterでも視聴している方が多くて、上映会みたいで楽しかった。

 

 さて、わたしはミュージカル『さよならソルシエ』の初演も観ていた。初演も千穐楽公演を観た。これはちょっと自慢になるが、初演も再演も千穐楽を最前列で観た。とてもラッキーな経験をさせてもらった作品だと思う。

 初演、単純に良いミュージカルだなと感じた。もともと美術はすきだから、フィンセント・ファン・ゴッホが悲劇的な人生を歩むのは識っていたけれど、それを遡って肉付けして、さらに彼の側にいた人物にスポットライトを当てた、そもそもの原作に破綻がなかった。けれどミュージカルにした付加価値は見当たらなかった。機械人形のようなテオドルスと、朗らかなフィンセントはどこかちぐはぐに観え、その他の登場人物たちも、あくまで「その他の人々」に観えた。だから再演も、また「モンマルトルの丘」が聴けたら良いな、程度の軽い気持ちで観に行った。だが。

 なにかが違う、そう感じたのは、オープニングの一曲、平野良さんが演じられるフィンセントが登場した時からだった。会場が初演とは段違いの音響設備だったこともあり、ピアノも真っ直ぐ響いていた。ピンスポットで浮かび上がり、振り向きながら歌い始めた平野さんもといフィンセント。そしてそこからはなにもかもが違っていた。記憶の中では磁器の人形のようだったテオドルスは、活き活きとした人間になっていた。黒尽くめの衣装も、優しい彼が選んだ戦闘服のように観えた。

 若い芸術家たちも、皆漲るように熱く情熱的で、憤りや悔しさをキャンバスにぶつけるしかない彼らの代弁者として、テオドルスが立ち上がった過程がすんなりと理解できた。それなのに、テオが一番美しいと思う絵を描くフィンセントは、怒りを知らなかった。

 テオの歯痒さは、観れば観るほどわかった。もしもフィンがゴーギャンロートレックや、パリに溢れる労働者階級の人々のように怒りに満ちて、それを糧として筆を取るような人だったならば。だがそうであったら、きっとフィンの絵は違う絵になっていて。あちらを取ればこちらが立たず、結局兄弟は、二人で一人の卓越した人物、となるしかなかった。

 

 誰かのために絵を描こうとしたことなんてないよ。中盤、フィンはテオに向かって語る。絵がすきだから。けれどこうも語る。ぼくはきみに、すきなものを見つけて欲しい。ぼくに絵を与えてくれたのは、きみだから。そしてフィンセントが初めて怒るのは、他ならぬテオドルスのためだった。ふざけるな!!と声を荒げたのは、テオのため。そしてテオのさだめを裏付けるべく取ったフィンの筆は、果たしてかつてと同じ絵を描いたのだろうか。

 終盤、場面は大きく変わって、おそらくは現代の美術館に移る。ゴッホの有名な連作『ひまわり』がないことに不満げな青年を平野さんが演じるが、このシーンがわたしは一番すきだった。一説によるとこの自画像は、弟テオを描いたものだと言われている、そんな説明を聞いた青年は一言、へえ、とだけ頷く。そしてその響きには、その逸話が真実であろうがそうでなかろうが、この絵は魅力的だな、という響きがあったように思う。力強い芸術に触れた時に、誰もが持ち得る過去への畏敬と感慨のようなものが声に滲んでいた。

 

 『さよならソルシエ』という虚構の物語の最大の魅力は、なによりも過酷だった現実が、結局は物語にハッピーエンドをもたらしているという点にある。テオが塗り変えようとした事実は、塗り変えられたかどうかは別としても、現在ゴッホの絵は(そう、100年後の人々でさえも)、魅了しているという事実に帰着する。我々はこの虚構が結局はバッドエンドであることを知っているし、かつテオの思い描いた通りに帰着することも知っている。始まったその時から、幕が降りる瞬間まで。それがどうしてこんなにも心揺さぶるのか、それは間違いなく、透明な音楽と歌で綴られるからだ。間違いなく、ミュージカルであったからこそ、彼らの物語は儚く繊細で、かつ時間を閉じ込めたかのように美しかった。

 

 ここからは単なる愚痴。配信されている以上、ミュージカル『さよならソルシエ』再演の映像は間違いなく存在している。いつもTVに繋いで観ていたから、大きな画面にも耐えられるだけの画質があることもわかっていて。それなのに円盤化されず、もしかするとこれから先、誰の目にも触れないままになるなんてことを考えると、思わずテオのように脚を踏み鳴らしたくなってしまう。もちろん舞台作品は、劇場で観てこそのものだ。けれど初演と同じく、ミュージカル『さよならソルシエ』再演にも、上演終了後にその世界に触れられる機会が、生まれ続ければと願っている。
〜きっと世界円盤はいつの時でも信じ続けてそして始まる売られる〜