『髑髏城の七人』Season花_2017/06/4昼

 これまでに6回、『髑髏城の七人』Season花を観た。自分の感想を読み返してみると、それぞれの回で心動かされた登場人物が違っていたようで面白い。初回は無界屋蘭兵衛。2度目は蘭兵衛と極楽太夫。3度目は捨之介と蘭兵衛。4度目は捨之介と沙霧。5度目は天魔王。そして今回は、完全に兵庫だった。

 今までの髑髏城、幾度となく胸がいっぱいになることはあった。3時間強の上演中、切なくて、激アツなシーンは数限りなくある。だが不思議と泣くことはなかった。

 しかし今回。ラストに兵庫が極楽太夫の手を取って懸命に言う台詞、「これを使え。使い切るまで死ぬな。そうすりゃ、そのうち気も変わる。死のうなんて気持ちはどっかにいくよ(戯曲本より抜粋)」すべてが終わって、無界屋蘭兵衛と、仲間の遊女たちの死に改めて直面し、今にも折れてしまいそうだった太夫。彼女をしかと受け止めて、護ろうとする兵庫の強さに、思わず涙腺が緩んでしまった。

 序盤、捨之介は太夫に見事にあしらわれてしまっている兵庫に対して、「お前には荷が重い」と言い切る。それが最後、「重い荷物を見事に支えやがったな。たいしたもんだよ」と感心する。捨之介や蘭兵衛、天魔王が過去と闘っているのに対し、兵庫だけはずっと「今」を生きている。そして誰よりも早く未来へ片足を踏み入れ、そこから脱落しかけた者の手まで引っ張り上げてみせるのだ。

 

 捨之介や兵庫らの印象がどんどん力強くなる一方で、天魔王と蘭丸に関しての印象は、次第に哀しみで滲んでいくような感じがする。今回は上手側にいたため、襲撃のシーンで、徳川勢にその残虐性を剥き出しにする天魔王と蘭丸がよく観えた(というか上手前方に座っていると、こっちに向かって非常に非情な二人がにやにやしながら台詞を放って来るので、「家康さま〜〜〜助けてくんろ〜〜〜」という気持ちになる)。

 「無界屋蘭兵衛」として生きていたよりも、「蘭丸」として生きているほうが余程楽しそうな信長の腹心。返り血をぺろぺろ舐める人の男。以前はそれがとても恐ろしく観えたのだが最近は、それがどうしてか哀しく観える。

 彼らは間違いなく歴史に取り残されたものたちで、生き残って「しまった」側の人間たちだ。3人のうち、捨之介だけが沙霧という存在を護ろうとし、未来への足掛かりを得る。だが天魔王と蘭丸にはそれがなかったし、敢えてそれを避けた印象すら抱くようになった。

 

 歴史の河の中洲に取り残されたものの哀しさは、徐々にせり上がって来る水音を、観客だけが知っている点にある。しかし天魔王も蘭丸も、心のどこかで気が付いているのではないか。なぜなら蘭丸はクドキのシーンで、夢見酒を盛大に吐き出していながら、杯を傾け続ける。対して捨之介は夢見酒を飲まされながらも、沙霧はじめ仲間の手助けもあるとはいえ、自らの意志で髑髏城を抜け出す。

 そもそも蘭兵衛が飲み続けた液体は「夢見酒」と断言されていないあたりも引っかかっている。これは完全に考え過ぎだろうが、若の時には捨之介が「薬を入れやがったな」と言うが、今回その描写はなくなっているのだ。果たして花蘭兵衛が服んだのは、酒か血か、それとも過去の残り香か。

 

 捨之介と蘭兵衛、そして天魔王。この三角形に兵庫という男が加わっただけで、急に物語は四角以上に多面的になるような気がする。

 それは髑髏城を知らなかったあの日、束の中に見つけた豪華なフライヤー。『髑髏城の七人』というわりには、人数が合っていないじゃないか、そんな風に思ったことを覚えている。あの時はまさか、天魔王と蘭兵衛がその七人には含まれていないなんて想像もしなかった。タイトルが指す七人は、「てめえが雑魚だと思ってる連中」であり、間違いなく、降りしきる雨の中、それが止む時を信じて生きるものたちだ。「今一番武士らしい武士かもしれんなあ」そんな風に形容されながら。

 

『髑髏城の七人』Season花_2017/05/27夜

 成河天魔王さま最高!!今回の感想はこの一言に尽きる。途中まで、驚くほど感情豊かで自由になった捨之介に夢中だったが、あのシーンを観てしまってからは、もう天魔王さまの表情が忘れられなくなった。成河さんのその解釈だいすき、もうずっと観ていたい、そうか、そうだったのか……と震えている。

 

 再演を繰り返すことの醍醐味のひとつは、様々な演者さんの多様な解釈を目の当たりにできる点にある。しかもロングラン公演。演技の内容が変わり、演出が深化するのは当たり前のことだ。映像によって切り取られる一瞬もまた代え難いものではあるが、着実に時間によって物事が移り変わるエンターテイメント性こそ、生の舞台ならではの魅力だろう。

 

 物語の終盤、天魔王は腹心の部下までも斬り捨て、蘭兵衛もとい蘭丸を殺し、すべての咎を捨之介に着せて逃げようと画策する。天魔王が蘭丸に深々と刃を突き立て終わったまさにその瞬間。ついに捨之介たちは髑髏城を登り詰め、天魔王と対峙する。極楽太夫は必殺の銃弾を浴びせかけようとするが。天魔王が殺したはずの蘭丸は最期の力を振り絞ってゆらりと立ち上がり、天魔王の盾となり死ぬ。

 つい先日まで、自らを庇った蘭丸の生き様に対する天魔王は、ある種せせら嗤うかのような、そんな非道さが感じられた。だが今回、目の前で崩れ落ちる蘭丸に対して嗤い声を上げこそすれ、どうしても拭いきれない天魔王の哀しみが観えた。泣き笑い、そんな表情だ。

 

 97年・赤・青・若と、『髑髏城の七人』では「捨之介と天魔王、そして信長公は同じ顔」という途轍もない設定は微妙に変化し続けている。花髑髏においてはその設定は失われ、この間まではそれをとても残念に思っていた。だがあの泣き笑いを観てしまってからは、別の意図を感じる。同じ顔でないからこそ、天魔王と蘭丸という共犯関係が、憐れで代え難いものになっているように思う。

 絶対的な「天」を喪った三人に遺された道は、「今度こそ間に合わせる」か「秀吉への怒り」、その二択だけだと思っていた。だが果たして蘭兵衛というひとは、あくまで再び夢に酔っただけなのか。わたしが一昨日みた彼は、酔うというよりは極めて醒めて観えた。

 あのクドキのシーン、酩酊し、過去に引き摺り込まれる「蘭兵衛」もそれはそれで良い。自分にとって唯一無二のひとと同じ顔で迫られたら、当然抗うのは無理だよな、と。けれど花において、天魔王が信長公と似ているような描写は一切ない。だから余計に切ない。

 花蘭兵衛は選んでいる。取り残された三人のうち、一番の年長者として、自分の道を選んでいる。一人の弟はなにもかも捨て、もう一人が天を再び見据えた時、彼は天魔王を選んでいる。それはかつて彼が信長公を選んだように。天魔王は誰一人として信じていなかった、きっとあの一瞬までは。たった一人の共犯者を得ていたことに彼は薄っすら気が付いていながら、結局は滅茶苦茶にしてしまう。

 あの泣き笑いには、もしもを感じさせる哀しみがある。もしも自分が最後まで蘭丸を信じていたら。もしも当初の計画通りにことが進んでいたら。もしも捨之介にほんものの鎧を着せていたら。もしも、もしも、もしも。

 これまでの天魔王は、それこそ「人」であって人ではなかった気がする。信長公の亡霊であり憑代、蘭兵衛を殺し、蘭丸として甦らせる怨霊。だが蘭丸の死に一瞬でも狼狽える天魔王は、紛れもなく生きていた。そこに意志がある、仮面の下にある別の顔が観えた。

 

 結局、自分の感想はなにもかもが推測と憶測でしかない。学生時代に古文を読み解かされた際、そんなことまで考えたのかな、作者は適当に書いただけじゃないの、と常々思っていた。だがそういう意図であったらなあ、という余白があればあるだけ、受け手はそれを選んで想像し、楽しむのだろう。きっと100年後であっても、わたしと同じく『髑髏城の七人』に夢中になるひとがいるように。

 

ちゃんとしたコーヒーは冷めても美味しいし

 舞台の感想をこうしてブログに綴るようになって、もうすぐ5ヶ月が経つ。趣味のひとつが観劇になってから数年、もっと早くからこうしてきちんと言葉にしておくべきだったと思う。実生活でも、モレスキンの日記帳を買って自分にプレッシャーをかけたのが良かったのか、飛ばし飛ばしではあるが日記が続いている。これまでまるで日記が続かない人生だったから、自分に驚きつつも続けている。

 当初、感想は400字以内におさめようと思った。原稿用紙一枚分。学生時代から原稿用紙にぴったりおさまる文章を書くのがすきだった。ちょっと気持ち悪い性分だが、わたしはファンレターもワードの原稿用紙ウィザードで書いてから手書きで清書している。「書く」のではなく、頭の中の言葉を吐き出すように「打つ」文章は、知らず知らずのうちに長くなりがちだ。それをいざ手紙に書き起こせば、とんでもない枚数の手紙になったりもして、自分にドン引いたこともあった。

 

 さて2月。『ALTAR BOYZ』に出会い、推しが増えた。というより『Club SLAZY』の1作目を映像で観て以来、推したくて推したくてたまらなかった俳優さんが、どうしようもないくらい最高の作品に出て、どうしようもないくらいカッコ良かった。しかも前々から応援していた俳優さんも、チームは違えどその作品に出演していて、もう自分史上最高の2月だった。

 当時のブログ、なんとか400字以内にまとめようとしていたが結局はあきらめた。だって大山真志さんのマシューは信じられないくらいハートフルであったかくてエネルギッシュで、良知真次さんのアブラハムは嘘でしょ、というくらい生真面目で一本気で一生懸命だった。そのおふたりが今のわたしにとって「推し」なわけだが、『ALTAR BOYZ』に関してはもう「箱推し」、スタッフ・キャストさん含め全部をまるっと推している。推していない部分は映像化してくれない点くらい。版権元の意向でもあるらしいから、これは余談だ。

 

 3月。『さよならソルシエ』再演。正直初演はあまり響かなかった。それが再演になって、なにがそこまで心に響いたのかはわからない。けれどとにかく感動が波のように押し寄せて、泣くのを忘れるくらい心が震えた。

 初演はもちろん主人公のひとりであるフィンセント・ファン・ゴッホが亡くなるシーンで泣いたが、今回は結末を知っている。最後はまた泣かされるんだろうな、そんな漠然とした思いを抱きながら着席した。幕があいたM1、フィンセントを演じる平野良さんの歌声があまりにも透明に響いて、昨年観たそれとはまったくの別物だった。兄弟の歌声は会場を吹き抜けるように響いて、無機質に思えたテオドルスというキャラクターが、とても不器用で愛すべき人間に思えた。終盤、現代の美術館に飾られたゴッホの絵を見上げて平野さんが「へえ」と微笑むシーン、この物語を果たしてハッピーエンドと呼べるかはわからないが、間違いなく観て良かったと思えた。

 

 4月。『髑髏城の七人』Season 花。日本初の360度シアターこけら落とし公演を観ずに、なにが趣味は観劇♡じゃ、と当日券で挑んだのが間違いだった。そもそも回転する時点で楽しいのは当たり前で(ディズニーランドのダンボに乗りながら舞台を観られるのだから楽しくて当たり前)、あの浮遊感には妙な中毒性がある。初めての劇団☆新感線作品、王道中の王道エンターテイメントは狂おしいほどに切なく、気が遠くなるほど豪華で面白い。観劇から1ヶ月、我慢が効かずにこれまでの『髑髏城の七人』で映像化されているものは、すべて購入してしまった。観劇の神様は笑っているだろうが、お財布の神様は泣いている。

 とはいえ1年に渡るロングラン公演の目撃者になれた奇跡には、感謝しかない。とにかく山本蘭兵衛さんを観てくれ。自分でもブログを読み返すと徐々にズブズブと夢中になっている過程がわかって、こんなはずじゃなかったと思いつつも後悔はまったくしていない。

 

 昨年、だいすきだった作品も一区切りを迎え、少し走りきったような気分になっていた。何事も3年続けば人生において特別な意味を持ち始めるが、わたしにとっての観劇という行為は、もう熱くて触れられないものではなくなっている。少なくとも去年末は、識り過ぎたと思っていた。夢から醒めた感覚に近い。

 観劇は惰性では続けられない。お金も時間も要るし、自分が費やしたエネルギーは自分が一番覚えている。だからこそ恐ろしかった。数時間、数年後の自分が振り返った時、この行為を徒労と思うのではないか。少し大人になったふりをして、深呼吸して距離を置こうかなとさえ考えた。けれどやっぱり、楽しい。

 立ち上がれば触れられるほどの距離に演者さんがいて、毎日同じようで同じ瞬間が一秒とてない世界。それに浸る数時間は、わたしにとってやっぱり特別で離れがたい。きっと、ずっと燃え続けいたら燃え尽きてしまっただろう。最近になってやっと、観劇という趣味が身体の臓器の一部になった気がする。わざわざ命じなくても処理対象を判断して(時々食べ過ぎることはあれど)、きちんと自分のエネルギーへ変えてくれている実感がある。なにより年明けから、素晴らしい作品の数々に出会えたことが大きい。たまたま興味本位で食べたものが、メチャクチャ美味しかった、そういう奇跡がずっと続いている。

 知ってしまったことは忘れたくても忘れることはできないから、知ったら知っただけ賢くなるしかないのかもしれない。最前列から観える景色はやっぱり他と比べれば別格で、中日より千秋楽のほうが拍手はあたたかく聞こえる気はする。けれど舞台という生物の表現において、一瞬たりとて同じ瞬間はない。だから自分が観た瞬間は二度と訪れない。去年までは火傷しながら飲み込むように舞台を観ていた。今年からは、目の前に素晴らしいものが溢れ過ぎていて困るくらいだけれど、ゆっくり咀嚼して、自分の糧にしていきたい。

ミュージカル『レ・ミゼラブル』プレビュー公演_2017/5/22夜

 想像以上に舞台上は暗い。だがそこに灯される本物の松明や蝋燭の光は、まるで当時のパリを再現するかのようにくっきりと観えた。全編を通して聴くことができるフルオーケストラの演奏も圧巻で、流れるようなメロディと音のボリューム感は生演奏ならではだ。

 一番印象的だったのはジャベールの最期のシーン。本当に橋の欄干から、轟々と落ちる水底へ落ちていくようだった。舞台構造を逆転の発想で捉えていて、そうするのか!と驚かされるから、ぜひあれは劇場で観るべきシーンの一つだと思う。結構ぞっとしてしまう。

 コンビニでチケットを発券した際に、店員さんが、「『レ・ミゼラブル』、良いねえ。一度は観てみたいと思ってるんだ」と言いながら手渡してくれた。わたしは微笑み返すしかできなかったが、つまりはそういうものなのだろう。30年の歴史を持ち、帝国劇場で繰り返し演じられる演目とはつまり、それだけ観たくても観られない人がいるということだ。

帝国劇場 ミュージカル『レ・ミゼラブル』

ライブ・スペクタクル「NARUTO-ナルト-」~暁の調べ~_2017/5/21昼

 忙しい人のためのナルト。ざっと抱いた感想はまずそれだ。原作の見せ場を切り取り、歌でもって繋ぎ合わせ、物語はスピーディーに展開される。正直AiiAの音響では説明的な歌詞は聴き取り辛く、惜しい!と思う場面は何度かあった。またプロジェクションマッピングによる視覚効果は、センターブロックからでないとその演出意図はわからないだろう。

 だがイタチとサスケの因縁という点では、「なぜサスケは木の葉を潰しにかかるのか」と「イタチ兄さんは結局なにがしたかったのか」が、生身の人間が演ってくれることでやっと理解できた。原作を読んだ時点では、自分は思考が幼くて理解できていなかった。今でこそ次世代に託すという気持ちがなんとなくはわかるし、今回一番泣けたのはイタチ兄さんとナルトの対話シーンだった。なにより原作をまた読み返したくなる、それは2.5次元化することの一番の価値だろう。

 それにしてもカカシ先生とヤマト隊長の無駄遣いは贅沢過ぎでは……

 

www.naruto-stage.jp

『髑髏城の七人』Season花_2017/05/15夜

 ライブビューイング当日の劇場は、どうなっているのだろう。それは自分への建前として、ステージアラウンド東京を訪れるのも4回目になった。あと何回来られるか。

 前方1〜4列の中央列はすべてカメラのために空席で、5列センターにもカメラ。すぐ後ろに座った人からの視界はだいじょうぶだったのかなとは思ったが、とても贅沢な撮影方法だった。わたしが慣れ親しんだ2.5次元の舞台世界では見たことのない光景だった。カメラは特等席に座らされていた。後方中央、両サイドにも全体用のカメラ。これは映像化を期待せざるを得ない。演者さんの音声のほうは心なしか高めに聞こえたような気がして、もしみんなで演じ分けをしていたなら凄い。劇伴と効果音も、若干大きめだった気がする。

 

 内容的な変更はなかったが、二幕の最初、蘭兵衛さんが髑髏城をゆっくりと進む場面が省略されていたように思う。これは少し現地の休憩が押したからだろうか。ラストのカーテンコール、かなり熱烈な拍手だったが、強制的にSeason風のキャスト発表になってしまって残念だった。やはりライブビューイングは一長一短、劇場の客席が取り残されるような感じはどうしたって拭いきれないらしい。

 とはいえライブビューイングの映像クオリティはかなり納得のものだったらしく、Twitter等でいろいろな方の感想を観ているとわくわくする。ゲキシネという、単純な映像収録でない舞台映画には本当に驚かされているが、これ以上楽しみを増やさないで欲しい。少しだけ、現地より映画館にいたほうが良かったのかな、などと思ったり思わなかったりした。

 

 今回初めて10列より後方で観劇したが、ステージアラウンド東京は、もっと座席位置によって料金体系を見直すべきだろう。前に身体が大きめの人が座ると、ほとんど観えない。今回は前の方が比較的小柄で助かったが、それでも観えない部分が絶対的に存在する。たとえ米粒のような大きさでも、全体が観えることと、なにをどうしようが見切れる部分があるのは似ているようで全然違う。現状の大雑把な料金設定は間違っているし、適切な価格が観え方の不公平感を少しでも肯定できれば、それぞれの満足度も上がるはずだ。

 

 さて本編。どうしてこんなにも切ないのだろう。回を重ねる度、その切なさは増している。カーテンコールが近付くことがいやでいやでたまらなくなる。おそらくこれが「感情移入」という代物なのだろうが、Season花のキャラクターたちとは別れ難く、そして予定しているだけでこういう別れは4回あることになる。一年間、一つの作品を観続けられるなんて経験をしたことはないから、もう恐ろしくて、それこそ知らなければ良かったとすら思ってしまう(お金もなくならないし……)。

 無界の里を見渡し、実際、とつぶやく捨之介の淋しげだが感慨深い笑み。蘭兵衛さんがある決意を胸に、巡る風景に背を向ける時。天魔王が自らを庇う存在に一瞬、本当に僅かに狼狽える瞬間。胸がいっぱいになる、としか言いようがなく、王道中の王道とも言える展開に涙は出ないまでも、酸素がたくさん詰まった血液が脳内を駆け巡るような、「ああ、エンターテイメントだなあ!!」と叫んでしまいたくなるような美しさと快感がある。

 

 それにしても小栗捨之介は、観る度に格好良くなっていて、千秋楽あたりは格好良さで死人が出るのではないか。殺陣はより鋭く、飄々とした物言いはリズミカルで、すらりと立つ姿が清々しいのに過去が彼に覆い被さっていることが観て取れる。初見時は終盤に疲れが観えたが、さらに疲れているはずの今回は階段すら流れるように駆け降りるし、乱闘の場面でも沙霧をちょいちょい庇いながら闘っていた。視野がとにかく広く、全員を繋げるように演じているのがなんとも小気味好い。ちなみに友人の隣で観ていた方は、捨之介が出て来る度にうっとりと祈るように指を組んでいたというから、罪な男にもほどがある。

 

 最早うわごとのようにTwitterやブログに書き綴っている、山本耕史さん演じられる無界屋蘭兵衛さん。何度観ても新たな発見があり、何度観てももう一度観たいと思ってしまう。

 自分でも蘭兵衛さんのどこが響いたのかわからないが、ものすごくすきなキャラクターの一人になった。小説『髑髏城の七人』では、蘭兵衛という男はとあるものを預かり、大切にしている。その描写が切なくて、またそれを脳内でどう再生しようが誰にも咎められることはないから、わたしはいつも花蘭兵衛さんにご登場頂いている。あのくだりはなかなか舞台では描き辛いが、「無界屋蘭兵衛」というキャラクターを実に端的にあらわす小説オリジナルの演出だ。小説に関しては、同じ蘭兵衛さんファンと読書感想文を交換したい。

 きっと彼は、一度壊れてしまった人間だ。それを金継ぎのように太夫たちがなんとか繋ぎとめていて、蘭兵衛さん自体もそれを善しとしていた。だが過去はそれをじくじくと蝕み、ついには破壊する。二幕、残酷に嗤う彼が、これまで観た中で一番強く嗤っていて、納得できない作品を叩き割った人間のような印象を抱いた。一度ばらばらになった己の欠片を、一つずつ丁寧に集めてしまっていたのに。生まれ直したそれは、また違う輝きを放っていたが、彼は廻る時に抗い過去に戻る。全体を観よう観ようとしていたのに、結局は蘭兵衛さんばかり観てしまった。反省はしているが後悔はしていない。だってそれくらい、山本蘭兵衛さんには震えるような華がある。

 

 三すくみ。そんな関係は観ていてとても面白い。花捨之介がチョキで、花蘭兵衛はグー、花天魔王がパー。わたしにはそんな風に思えるのだが、きっとこれは観た人それぞれに解釈があるはずだ。そしてどの解釈であっても、万雷の拍手をおくりたくなるのはどうしてか。切なくなるほどのエンターテイメント。

 関東の片隅で、史実に少しだけ金継ぎをして描かれる物語は、きっとまだとば口なのだろう。

 

『髑髏城の七人』Season花_2017/05/03昼

 三回目の髑髏城。前回、「これがmy千秋楽♡」と心に決めてはいたが、やすやすと財布の紐を解いてしまった自分が情けない。

 

 観劇後、2011年と1997年の『髑髏城の七人』の映像*1を観て、また小説版も読んだ。通称「若髑髏」と呼ばれる2011年版は兎にも角にも森山未來さん演じられる天魔王が恐ろしいやら美しいやら格好良いやらで、Season鳥が待ち遠しくなった。けれどそれは、花が終わっている未来なのだから切なくなる。

 1997年版はやはり「捨之介と天魔王は同じ顔」という設定の筋が通っていて、かつそれを古田新太さんがケレン味たっぷりに演じられるものだからもう面白くて仕方がない。

 『髑髏城の七人』という作品のこれまでの変遷は、どこか『STAR WARS』シリーズと似通っている部分があるとわたしは思っている。アクが強いがハマる人にはハマる作品が、次第にたくさんの人を魅了し、最終的には大資本すら味方につける。そして最大公約数的な面白さまで提示できるようになる。この変化には感謝しかない。『髑髏城の七人』がもしも1997年で終わっていたら、わたしたちはあの豊洲の不思議な劇場で、『髑髏城の七人』を観ることはなかっただろうから。

 けれど失われたものもあるのだろうと思う。「捨之介と天魔王は同じ顔」。これは失ってはならない背骨だったのではないか。1997年版と小説を知った今では強く思う。話の筋としては小説版が一番すきだ。兵庫と極楽は自然の成り行きで固い絆を持つようになるし、蘭兵衛に関しても、空白が少なく、その変貌の描かれ方は血で描いたように鮮やかだ。そして捨之介と沙霧の関係がなんとも切ない。

 

 とはいえわたしにとっての髑髏城は、やはりSeason花だ。捨之介は飄々として爽やかで、蘭兵衛は過去の重さに血を吐き続けている。天魔王は道化師のようでいて油断なく周囲を睨め回し、兵庫はどこまでもまっすぐ。極楽は透き通っていて優しく、沙霧は胸を張って己の拳で(時には飛び蹴りで)道を切り拓く。

 

 作品との出会いは、運命のようで偶然だ。そもそも当日引換券で向かったあの日の第一衝動は「回る劇場を観もせずに、なにが趣味は観劇♡じゃ」と思ったからだし、「小栗旬山本耕史なんておトクだな♡」くらいの心持ちだった。それがここまで魅了されるとは。観劇の神様がいるなら、お礼を言いたいくらいだが、お財布の神様は泣いていると思う。

 

 さて今回は、前方のブロックではあったが上手のかなり端のほうで観た。なんとなく山本蘭兵衛さんばかり観るのは気が引けたから、「捨之介と蘭兵衛のアイコンタクト」に注目した(結局蘭兵衛さん……)。いよいよ終盤へ向けて小栗捨之介の距離の取り方に遠慮がなくなり、これまた爽やかな笑顔をバシバシみんなに向けている。特に蘭兵衛には、やはり昔馴染みという表現だろうか、目が合うとニコっとする瞬間が何度かあった。だが蘭兵衛は特に表情を変えるでもなく、ぷい、と顔を背けてしまう。それが蘭兵衛を唯一「朴念仁」たらしめているように感じられるし、捨之介の表面上の笑顔の下に眠る暗闇を、蘭兵衛は知っているのだと結末から逆算もできる。

 そのアイコンタクトを初めてまっすぐ返すようになるのは、蘭兵衛でなくなってから。それがなんとも切ない(「切ない」って何回書いたかな……)。腹の底で渦巻く過去への血反吐を吐ききってしまった蘭兵衛が、亡霊となってやっと、捨之介の視線を受け止められる。

 「織田信長」という男への解釈は、若髑髏の描き方が実に秀逸だと思う。天魔王は信長のような西洋に傾いた装いで現れるし、遺された者たちに神のように崇められている男の存在感は、最早生きてさえいるようだ。それは遺された捨之介・蘭兵衛・天魔王の三人が「若い」から、ということも大いに影響している。だが花髑髏における信長とは、過去になりつつある存在。だからこそ蘭兵衛が、結局はそれを乗り越えられないことが悔しい。

 

 なぜもっと早く出会えなかったのだろう。舞台をよく観るようになってから、そんな取り留めもないことをよく考える。だが前述した通り、作品との出会いは運命のようで偶然、そして必然なのだろう。幼い頃、母親に連れられてなぜかリバイバル上映で『STAR WARS』旧三部作を歌舞伎町の映画館で観た、というより観させられた。当時のわたしに響いたのは、カチカチに固められちゃうハン・ソロと、死にそうなヨーダだけだった。結局わたしにとってのヒーローは、その数年後に観たアナキンでありパドメで、師匠はオビ=ワンと回転攻撃をキメるマスター・ヨーダになった。

 『髑髏城の七人』も、きっと花髑髏からでなければこんなにもすきにはならなかった。そしてステージアラウンド東京でなければならなかった。あと何回、豊洲へ向かうことになるのだろう。一年後に観る髑髏城は、どんな景色なのだろう。

 記憶を手繰り寄せながら、花髑髏との別れが名残惜しくてたまらない。

 


*1:ちなみに『髑髏城の七人』の映像は以下の劇団新感線映像系の公式サイト

から入手するのが現状安価だし、公式に還元できる気がする。また豊洲HMV等では購入すると先着でゲキシネの招待券(1組2名!!)をくれるので、かなりお得に購入できる。