ミュージカル『SMOKE』再演:7月感想

「希望をなくし テクニックを手に入れた

 天才にはなれず 剥製のように生きてきた」

 この作品は、すでにふさがった傷跡に鞭打つような作品だ。いやもしかすると、心に負った傷とは、今も心臓が脈打つたびに血を流しているのかもしれない。それを忘れているだけで。忘れているふりをしているだけで。

 

 27歳で夭折した韓国の詩人・李箱。浅学のために初演まで彼をまったく知らず、大人版と再演が決定してから、彼の翻訳された文章に一通り目を通した。そして初めて、初演で語られた「三越デパート」は、植民地時代のそれだったのだと理解できた。大人版の後にも書いた通り、物理的及び民族的に最も近しいといえる韓国よりも、自分のわずかばかりの知識は、はるか遠くの国々に偏っている。

 

 『SMOKE』という作品では、この近しいようで遠く、ましてや会ったこともない詩人を、まるで隣人、もしくは自分自身のように感じられる瞬間が多くある。なぜ泣けるのかは明文化し難く、そしてなぜ晴れやかな気持ちで劇場を後にできるのかは、未だにわからない。

 だが、ただひたすら彼の葛藤、そして彼がたどり着くひとつの結論の証人になりたいと思ってしまう。物語の筋は変わらないのに、結末に行き着くまでの過程は毎公演異なる。もちろんキャストの役替えや、その日の自分自身の状況、好みも影響はしているだろう。けれど『SMOKE』で描かれることは、普遍的かつ当たり前のことだ。それなのになぜか目が離せず、初演と同じように、何度観てもなにかを取り逃がしたような気持ちにさせられる。

 果たして李箱その人が、自らと自らの作品を煙に喩え、それを儚んでいたかはわからない。誰しもが抱える自分の人生なぞ、という諦観にも似たあきらめから、自らの翼でもって生きようと決意していたかもわからない。だがミュージカル『SMOKE』という作品がこうして生まれている以上、少なくとも彼の人生は煙のように立ち消えるものではなかった。

 

 剥製のように生きることは、きっと煙のように死ぬことと等価にはならない。生と死は鏡合わせのようで鏡合わせではない。初演に引き続き、最後に歌われる『翼』という曲に、わたしはやはり命のきらめきを感じた。だから願わずにはいられない。この近くて遠い異国の地で亡くなった、自分とさして年齢の変わらない詩人が、できればこの作品のように最期に希望を取り戻してくれていたら、と。

 

 

 

〜ここからは推しさんに対する感想〜

 推しさんという名の大山真志さんの「超」、メッッッッッチャよかったんですけど、どうしたらいいんですかね……もう強がりでさみしげで、それなのに「海」を護ろうとしつつも護りきれない「超」。そっち!!そっち行くかあ〜!!と初日からずっとニヤニヤしてました。

 クールで冷たい印象はすべて取っ払って、アツい「超」は結構怖い(あの圧の人間にわたしなら多分言い返せない)んですけど、やっぱり絶対的な支配者としての「海」を護りたいし、なのに「紅」に頼らなくてはならない不甲斐なさに足掻いているというか……「紅」が必要なのはわかっているのに認められず、結局「超」が怒っているのは「超」自身で、「わたしはわたし自身を恨んでいる」に繋がるのかななんて思ったり。ご本人のツイッターでも、役に対する解釈とか、相手役に対しての想いをつぶやいてくれるのありがた過ぎる〜「超」の解釈ばりばり合ってて嬉しかったけど、「海」の解釈は間違えそう〜でもその多様性が舞台の面白さ〜〜〜

 木内海との組み合わせを多く観ているのですが、木内海は覚醒してから絶対的に大山超に対して「主人」なところがグワッと現れるのが鮮やかでした。まだ観られていない組み合わせがたくさんあって、オラワクワクすっぞ〜〜〜

 ツイッターでもグダグダつぶやいてるんですけど、マジでみんなミュージカル『SMOKE』を絶対観てくれよな!!!!